松代は、松代城の城下町として発達した街です。
この松代は真田家と深い関わりがあります。
武田氏滅亡の後、上田城を本拠に構えた真田昌幸。
周囲を上杉・北条・徳川に囲まれた彼は戦国時代を
生き抜く戦略として、豊臣秀吉の庇護を受けていました。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いの際には、長男・信之は
徳川方に付き、自らと次男の幸村は豊臣方に留まり、
親子・兄弟での戦いをすることとなりました。
これは昌幸が真田家を存続させる為の方策といわれています。
徳川方に付いた信之は、関が原の戦いの後も領地を安堵され
上田藩主となっていましたが、豊臣家が滅んだ直後の
1622年(元和8年)に上田から松代に移封されています。
以来、明治維新まで真田氏がこの松代十万石の
藩主としてこの地を統治していました。
その松代の様子を紹介します。
屋代からの長野電鉄の電車に揺られ15分程、
進行左手の車窓に松代城址が見えてきました。
長野電鉄の乗車記は こちらです。
長野電鉄松代駅で電車を下り、
さっそく松代城に向かいました。
真新しい石垣と新築の門構えが、
夏の日差しに眩しく映えていました。
この松代城址では、2004年(平成16年)に
城址の整備工事が行われて、この太鼓門や北不明門が
木造建築で、当時のままに復元されています。
こちらは、北不明門です。
北不明門の脇の石碑には「海津城址の碑」
と刻まれています。
海津城は、武田信玄が越後攻略の拠点としたお城です。
当時は、千曲川もこの海津城のすぐ近くを流れており、
有名な川中島の古戦場もここから程近いところにあります。
松代城の登城記は こちらです。
この松代城址の近くには、真田邸があります。
幕末に参勤交代令が廃止されたのに伴い、
当時の藩主・真田幸教が江戸に住んでいた
母・貞子の住居として建てたものだそうです。
真田邸は当時の建物が残っており、
江戸末期ではありますが、大名御殿の
様子を伺い知る事が出来ます。
重厚な門構えと玄関です。
真田家の六文銭の紋の入った提灯が掲げられ、
いかにも重々しい雰囲気です。
奥には新御殿と庭園がありました。
威風堂々と言った感じの玄関と比べると
新御殿の建物はどことなく質素な感じがします。
江戸末期の時代背景なのでしょうか、それとも
城主の母の住居ということで建てられた為でしょうか。
この真田邸の裏側には、松代藩の藩校だった
文武学校の建物も残っています。
この写真は真田邸と文武学校の間の小道です。
土塀と白漆喰の倉に囲まれとても雰囲気がありました。
髷を結い刀を腰に差した武士が小道の向こうから
現れても不思議ではないような雰囲気でした。
この松代藩文武学校は、佐久間象山等の
意見を取り入れて1852年に建てられたそうです。
江戸末期の1842年、松代藩主真田幸貫が
老中兼海防掛に任命されたということもあり、
松代藩では人材育成が急務だったのではないでしょうか。
イギリスを始めとする西欧諸国が東アジアに現れ、
清を征服しつつあるという情報は入っていたでしょうから、
かなり緊迫した雰囲気で講義が開かれていたことでしょう。
下の写真は、文武学校のすぐ近くにある武家屋敷の門です。
確か、旧白井家表門だったと思います。
松代のこのあたりは、本当に江戸時代の雰囲気を
今に伝える建物が多く残っていました。
近くには、佐久間象山の出生の場所に
象山を祭る象山神社もあります。
佐久間象山は松代藩の下級武士の出身だそうですが、
江戸で西洋文明に触れ、早くから
開国の必要性を説いたそうです。
吉田松陰や勝海舟、坂本竜馬等、幕末の時代を変えた
数多くの人に影響を与えた佐久間象山ですが、
1864年、京都で暗殺されてしまいます。
確か、佐久間象山が一時期松代に戻った際、
高杉晋作もこの地を訪ねていたと思います。
戦国時代から江戸にかけての史跡が数多く残る
松代ですが、町外れの象山の麓には
第二次大戦の遺構も残されています。
戦時中に旧日本軍が大本営移転の地として
松代の山中に築いた地下壕です。
町を抜け、のどかな山懐の景色を眺めながら
10分ほど歩くと松代大本営予定地跡に着きました。
松代大本営予定地跡には、象山を初めとする
3つの山の中に計10km以上の地下壕が
網の目に掘られているそうです。
入口でヘルメットを借り、狭い入口から中に入ります。
数十メートル程、岩がむき出しの
素掘りの狭いトンネルが続きます。
やがて右に曲がると、トンネルの空間が広がり、
数多くのトンネルが縦横に張り巡らされていました。
着工は1944年11月。
終戦までの9ヵ月間に約2億円の資金と、
延べ300万人もの朝鮮人・住民の
強制労働で作られたそうです。
当時の軍部のことゆえ、数多くの犠牲者が出たそうで、
この地下壕を見ていると過去の愚行知り、
それを二度と繰り返さない様にすることも
重要な事だなと思いました。
真田家松代藩の初代藩主となった真田信之のお墓は、
松代の町から3km程北に行った辺りにあります。
以前、長野電鉄屋代線が廃止される前は、
金井山駅から歩いて10分程でしたが、
いまは陸の孤島になってしまっています。
真田信之のお墓のある大鋒寺です。
真田信之は、徳川軍を2度も打ち破った
真田昌幸の長男で、あの真田幸村の兄です。
関ヶ原の戦いの前、今の栃木県佐野市の犬伏で、
父・昌幸、弟・幸村(信繁)と別れ、徳川方に付き
その後、松代藩主となっています。
1656年(明暦2年)に、藩政を次男の信政に譲り
隠居すると、この地に隠居所が造営されています。
1658年(万治元年)に信之が亡くなると、
隠居所をお寺としています。
大鋒寺はひっそりとした佇まいでした。
丁度、住職が落ち葉を燃やしていて、立ち上る煙が、
どことなくのんびりとした雰囲気を漂わせていました。
お寺の名前は、信之の院号から付けられています。
大鋒寺の本堂の脇に霊屋がありました。
三代・幸道の時に伽藍が建てられ、
この霊屋もその際に建立されてそうです。
内部には、信之が信仰していた阿弥陀三尊像、
信之像、信政画像などが安置されているそうです。
霊屋の南には真田信之のお墓がありました。
お墓の前の立派な門の扉には六文銭がありました。
お墓は高さ3.3メートルの宝篋印塔です。
真田信之は当時の人としては異例の長寿で、
93歳で亡くなっています。
関ヶ原の戦いの前夜に父、弟と別れた後、
信之は、56年間生きています。
その間、すぐ近くの上田で共に戦った事など
思い出すこともあったのでしょうか。
大鋒寺の近くには千曲川が流れ、その河原には
武田方の山本勘助のお墓もあります。
そのお墓に向かう際、千曲川の堤防からも
大鋒寺を眺めました。
この眺めものどかなものでした。
川中島古戦場の散策記は こちらです。