川中島古戦場
Kawanakajima in Nagano


川中島は越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が
戦った古戦場として知られています。

両者の戦いは1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)の
12年間にわたり、5度の合戦が行われています。

この中でも、1561年(永禄4年)の第四次合戦が
最も規模が大きな戦いで、謙信と信玄が
直接太刀を交えたとも伝わります。

川中島は千曲川の作る善光寺平の南、
松代から千曲川を渡った辺りの地名です。

ここに、460年前の戦いの史跡が点在しています。
2011年10月にその古戦場を散策しています。
その際の様子を紹介します。

松代の散策記はこちらです。


典厩寺
(Tenkyu-Ji Temple)
Apr. 15, '22


川中島古戦場史跡公園
(Kawanakajima Battle Field Memorial Park)
Apr. 21, '22


胴合橋
("Doai" Bridge)
Apr. 21, '22


山本勘助墓
(Tomb of YAMAMOTO Kansuke)
Apr. 24, '22


諸角豊後守墓
(Tomb of MOROZUMI Masakiyo)
May 03, '22


桑山茂見墓
(Tomb of KUWAYAMA Shigemi)
NEW ! May 09, '22


松代城
(Matsushiro Castle)
Apr. 12, '22


川中島古戦場の古城
(Ruin of Forts in Kawanakajima Battle Field)
NEW ! May 09, '22

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典厩寺

松代駅でレンタサイクルして川中島の古戦場に向かいました。

松代駅のあった長野電鉄屋代線は
2012年4月1日に廃止になっています。
長野電鉄屋代線の乗車記は
こちらです。

松代から長野市の中心街へと向かう道に沿って走ります。
松代の町並みを出ると千曲川の堤防に上りました。


撮影: 2011年10月

この先で千曲川を渡ります。
滔々と流れる千曲川の様子です。


撮影: 2011年10月

典厩寺へは、千曲川を渡り、
すぐに左手に曲がります。
手前にあった槌井神社です。


撮影: 2011年10月

槌井神社の謂れは分りませんでした。
槌井神社のすぐ先に典厩寺はありました。


撮影: 2011年10月

元々は鶴巣寺という名前のお寺だったのですが、
1654年(承応3年)に松代藩主・真田信之が、
武田信玄の弟だった武田信繁にちなみ、
彼の役職名をとって典厩寺と名付けています。

典厩寺の閻魔堂と武田菱の幕です。


撮影: 2011年10月

そして、日本一大きな閻魔像です。


撮影: 2011年10月

閻魔堂は、松代藩第八代藩主・真田幸貫公によって
6,000人にも及ぶ、第四次・川中島合戦の戦死者の
追善供養の為1860年(万延元年)に建立されています。

武田信繁は、武田氏を甲斐を統一した武田信虎の
四男として1525年(大永5年)に生まれています。

信繁は性格もよく、武田信虎は信玄ではなく信繁に
家督を継がせようとしていたとも伝わります。
それは、1541年(天文10年)に信虎が信玄によって
駿河に追放になった為に実現していません。

信繁は、その後武田家の御一門衆として
信玄を支えていましたが、1561年(永禄4年)の
第四次川中島の合戦で、戦死してしまいます。


撮影: 2011年10月

境内には、血まみれの信繁の首を洗った井戸と、
川中島の合戦の戦死者の慰霊碑がありました。

第四次川中島の戦いでは、両軍合わせて
7,000人にも及ぶ戦死者がいたとされています。

この時の戦いは、松代の南西にある妻女山に陣取った
上杉軍を、武田軍は二手に分けて、別動隊が襲い、
逃げ出した上杉軍を武田本隊が討ち果たすという
計画だったようですが。上杉軍は武田別動隊が
襲撃する前に麓に降り、手薄になった武田本隊と
上杉軍が戦うという展開になったようです。

武田軍の副将だった武田信繁が討ち取られるほど、
武田軍は崩壊寸前の窮地に陥ったようです。

典厩寺の本堂です。


撮影: 2011年10月

本堂の先に武田信繁のお墓がありました。

享年37歳。


撮影: 2011年10月

信繁の死は「惜しみても尚惜しむべし」
と言われ、敵方の上杉氏からも
その声が挙がったそうです。

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川中島古戦場史跡公園

典厩寺から、メインストリートに戻り、
長野の中心街の方向に向かいました。

1.5km程離れた所に川中島古戦場史跡公園があります。


撮影: 2011年10月

ここが第四次川中島の戦いで武田信玄が
本陣を敷いた場所と謂れています。

公園に入ると参道が続いていました。


撮影: 2011年10月

信玄の本陣跡に建てられた八幡社です。


撮影: 2011年10月

第四次川中島の戦いでは、当初、武田信玄は
海津城に入り、上杉軍は海津城の西にある
妻女山に陣取り、膠着状態となりました。

海津城は後に松代城と改名されています。
松代城の登城記はこちらです。

膠着状態を打破しようとした武田信玄は
軍師・山本勘助に打開策を命じます。

山本勘助は馬場信春と共にその策を練ります。
その策は、2万人の武田軍から1万2千人の別動隊を
妻女山に向かわせ、麓に降りた上杉軍を八幡原に
陣取った8千の武田軍本隊で迎え撃つというものです。

下の図は現地にあった第四次川中島の戦いの
両軍の布陣と行動を示した合戦図です。


撮影: 2011年10月

ところが上杉軍は、武田別動隊が妻女山を襲う前に
八幡原に進軍した為、濃霧となった1561年(永禄4年)の
旧暦の9月10日早朝、両軍は八幡原で遭遇しました。

この遭遇戦は、両軍とも予期せずに始まったものですが、
別動隊に多くの兵を割いていた武田軍は総崩れに近い
敗勢となり、多くの武将が討たれます。

この武田本陣にも上杉勢が襲い掛かる事態となりました。
有名な逸話になっていますが、この時、本陣に構える
武田信玄に馬上の上杉謙信が太刀を浴びせ、信玄は
軍配でそれを防いだと伝わります。


撮影: 2011年10月

この時、謙信が信玄に振り下ろした太刀数が
三太刀とも七太刀とも云われており、神社の脇には
「三太刀七太刀之跡」の碑もありました。

近くには馬上の謙信が、床机に座った信玄に
太刀を振るう像がありました。


撮影: 2015年5月

信玄大ピンチの場面ですが、中間頭・原大隅が
謙信の馬の尻を槍で突いた為、謙信がその場を
去り、信玄は命拾いしたと言われています。

八幡社の本殿の周囲には、本殿を取り囲むように
土塁の跡が認められました・


撮影: 2011年10月

この土塁は信玄本陣の跡を示す桝形陣形跡です。

第四次川中島の戦いは、その後、妻女山を目指していた
武田別動隊が、上杉軍が既に陣を引き払った事を知り、
八幡原の本体と合流しようと駆け付けた為、上杉軍を
挟撃する形となり、戦況は一気に武田方に傾きます。

この事態を受け、上杉軍が陣を引き、武田軍も
海津城に引き上げた為、この戦いは終結しました。

しかし、この戦いでは両軍合わせて
7,000人にも及ぶ戦死者が出たそうです。

近くには首塚がありました。


撮影: 2011年10月

戦いに参加した高坂弾正が激戦地となった
この辺り一帯の戦死者の遺体を、敵味方なく
葬った塚の一つと言われているそうです。

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胴合橋

川中島古戦場史跡公園から1kmほど松代方面に戻りました。
途中、赤川神社跡地に、1927年(昭和2年)に
建てられた赤川歌碑がありました。


撮影: 2011年10月

骨をつみ血しほ流ししもののふの
おもかげうかぶ赤川の水

このすぐ近くに胴合橋がありました。
胴合橋にあった碑です。


撮影: 2011年10月

胴合橋は、小川とも言えない
側溝のような流れに架かる橋です。


撮影: 2011年10月

第四次川中島の戦いでは、戦死し首を刎ねられた
山本勘助の首を敵方から取り返した家来が
ここで胴体と繋ぎ合わせたと伝わります。

山本勘助ではなく、武田信繁の遺体だった
とも言われ、当時の混乱した状況が伺えます。

胴合橋から近くの千曲川堤防に上がり、
北に向かい次の目的地を目指しました。


撮影: 2011年10月

堤防道路からは、千曲川の広々とした
河原を眺めることが出来ました。

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山本勘助墓

千曲川の堤防道路をレンタサイクルで北に走り、
更埴橋を渡り、千曲川の右岸に向かいました。


撮影: 2011年10月

再び眺める千曲川の流れです。

千曲川右岸の堤防を南に少し戻ると
山本勘助墓の案内板がありました。


撮影: 2011年10月

堤防から河原に下っていくと、
信州柴阿弥陀堂跡の立派な碑がありました。


撮影: 2011年10月

この信州柴阿弥陀堂に山本勘助の墓がありました。

山本勘助は、1493年(明応2年)または1500年(明応9年)に
今の愛知県豊川市牛久保で生まれています。

豊川・牛久保の散策記はこちらです。

1520年(永正17年)頃、26歳の時に諸国へ武者修行の旅に出、
1536年(天文5年)に今川家に仕官しようとしましたが、
その願いは叶わず牢人の暮らしを続けるうちに1543年
(天文12年)に武田家に仕官する事となったようです。

武田家で頭角を現した勘助は、信玄の軍師として活躍します。
1561年(永禄4年)の第四次川中島の戦いでは、膠着した戦況を
打破する為、"啄木鳥戦法"を献策しますが、上杉軍は
その策に嵌らず、武田軍は危機的状況に陥りました。

山本勘助はこの状況に責任を感じ、
奮戦した後に戦死したそうです。


撮影: 2011年10月

山本勘助のお墓です。

勘助のお墓は、別の場所にあったそうですが、
1739年(元文4年)に松代藩家老・鎌原重栄が
信州柴阿弥陀堂に墓碑を建立したそうです。

お墓の近くには信州柴阿弥陀堂の跡地がありました。


撮影: 2011年10月

信州柴阿弥陀堂は文明年間(1469年〜1486年)の建立です。
1561年(永禄4年)の川中島の戦いの後、武田信玄が
守護仏を奉納し、両軍の戦死者を弔っています。

近くには広瀬の渡し跡もありました。


撮影: 2011年10月

広瀬の渡しは、川中島の合戦の際に武田軍が
海津城に入場したり、海津城から八幡原の
合戦場に出陣する際に千曲川を渡った場所です。

広瀬の渡しの跡は藪が生い茂っていましたが、
このあたりの河原は耕地にもなっていて、
広い河原はのどかで広々とした眺めです。


撮影: 2011年10月

千曲川の堤防に戻り、南へ向かうと、
大鋒寺が見えてきました。


撮影: 2011年10月

大鋒寺は松代藩主・真田家の菩提寺で、
真田信之のお墓があります。

大鋒寺の様子は松代の散策記で紹介します。
松代の散策記はこちらです。

大鋒寺を訪れた後に、更埴橋に戻りました。
その途中、移転された信州柴阿弥陀堂を目指します。

その途中で、綺麗に咲くコスモスを見つけました。


撮影: 2011年10月

信州柴阿弥陀堂は、昭和初期の千曲川改修によって
移転を余儀なくされ、1977年(昭和52年)に
現在地に移転しています。


撮影: 2011年10月

廃線となった長野電鉄屋代線の金井山駅に
すぐ近い位置でした。
長野電鉄屋代線は2012年4月1日に
廃止されてしまいました。

長野電鉄屋代線の乗車記はこちらです。

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諸角豊後守墓

山本勘助の墓と真田氏松代藩初代藩主の
真田信之の菩提寺・大鋒寺を訪れた後、
再び更埴橋で千曲川を渡りました。

松代・大鋒寺の様子はこちらです。


撮影: 2011年10月

更埴橋を渡った後、道路は長野の中心街を目指しています。
その途中、国道18号線のバイパスと交わる辺りに、
川中島の戦いの痕跡がいくつか残っています。

まず目指したのは、国道18号線と19号線の
バイパスの合流点に近い所にある大堀館跡です。


撮影: 2011年10月

こちらは1555年(天文24年)の第二次川中島の
戦いの際、武田信玄が本陣とした所です。

大堀館跡の登城記はこちらです。

この大堀館跡から西に1.5km程行った所に
諸角豊後守のお墓がありました。

お墓は国道19号線から少し南に入った
細い道沿いに、ひっそりとありました。


撮影: 2011年10月

諸角豊後守は、武田信虎・信玄の
親子2代に仕えた武田氏の重臣です。
1561年(永禄4年)の第四次川中島の戦いでは
81歳の高齢にも拘わらず参戦したそうです。

諸角豊後守は武田信繁の戦死を知ると僅かな
手勢で上杉軍に攻め込み、戦死したそうです。


撮影: 2011年10月

諸角豊後守のお墓の周りは
のどかな景色が広がっていました。

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桑山茂見墓(狐丸)

諸角豊後守のお墓から、
南西に向かい狐丸を目指しました。
その途中、田圃が広がる景色となりました。


撮影: 2011年10月

川中島の戦いの当時も、このような
景色が広がっていたのでしょうか。

目指した狐丸は、川中島の戦いの後に築かれた
首塚の一つで、桑山茂見の墓と言われています。

桑山茂見は、武田方の小笠原若狭守
長詮の家臣だったそうです。


撮影: 2011年10月

現地の案内板によると、1561年(永禄4年)の
第四次川中島の戦いの際、小笠原若狭守長詮が
上杉方に囲まれ、「もはやこれまで」と観念し、
敵中に討って出ようとした際に、桑山茂見は
それを押しとどめ、小笠原若狭守長詮の
身代わりになって討ち死にしたそうです。

戦いの後、戦死者や武具を葬った塚が作られ、
その塚に、夜な夜な狐が集まってきたそうです。
村人がそれを不思議に思い、塚を掘ったところ、
桑山茂見が討ち死にした際に持っていた主君・
小笠原長詮の愛刀・狐丸の太刀が出てきたそうです。

村人はそれを哀しみ、桑山茂見の墓を建てたそうです。

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