信州・善光寺平の東に須坂という町があります。
長野から長野電鉄で志賀高原への玄関口、
湯田中に向かう途中、千曲川の鉄橋を渡って、
最初の停車駅がこの須坂です。
江戸時代、須坂のあたりは天領や
須坂藩の領地だったそうです。
その須坂に米穀・麻・酒造などの生産と
流通を扱う豪商が台頭し、この須坂の町に
蔵造りの建物が沢山残されたそうです。
また幕末から明治にかけては、
製糸業でも栄えたそうです。
須坂駅を出て東に向い、
須坂の街中に向かいました。
長野電鉄の乗車記は こちらです。
横町中央の交差点を越えると道の両脇に
白壁の蔵造りの建物が並ぶようになりました。
この小路は"蔵の町並み"と呼ばれているようです。
上右はその入り口にある須坂クラシック美術館、
上左はその先の蔵のまち観光交流センターです。
蔵のまち観光交流センターは、明治中期に建築され
製糸業隆盛時には、繭蔵として使用されていました。
須坂クラシック美術館の建物は元牧新七の邸宅で、
母屋、上店、長屋門と土蔵の4つの建物が
全て残っているそうです。
この先にも何棟もの蔵造りの建物がありました。
古い蔵造りの建物が並ぶ中に、
須坂教会もありました。
中町の交差点を左に折れたところにある 綿幸の店舗です。
上右の写真の右側に写っている建物は
旧小田切住宅です。
糀・油・蚕糸を営んだそうです。
今は、内部が公開されているようです。
中町の交差点を東に進みます。
八十二銀行の向かいの建物です。
こちらは浦野酒鋪です。
須坂には酒造場や酒屋さんが多いようで、
そのすぐ先にも塩屋醸造店がありました。
白壁の堂々とした造りのお店です。
中には入らなかったのですが、6棟もの
味噌蔵があり、中を開放しているそうです。
浦野酒鋪店のある新町交差点まで戻り、
南に向かうと、旧上高井郡役所がありました。
この建物は1917年(大正6年)に建てられ、1926年(大正15年)
までは現役でしたが、その後は長野県の出先機関などに
使われ、2006年(平成18年)に須坂市に譲渡されたそうです。
この南側に奥田神社があります。
この奥田神社が江戸時代の須坂藩の陣屋跡になります。
豊臣秀吉の家臣・堀秀政の家老であった堀直正の
四男・堀直重が1615年(元和元年)に1万2千石で
須坂藩を立藩し、明治の廃藩置県まで堀氏が
藩主を務めていました。
須坂陣屋の登城記は こちらです。
須坂陣屋跡から西に向かうと遠藤酒蔵店があります。
ここも白壁の堂々とした造りのお店です。
この建物は旧須坂藩の奥付門を移築したそうです。
街並みの到る所に蔵造りの建物が現れ、
楽しい待ち歩きです。
遠藤酒蔵店から更に南下し、
街並みの向うに小高い山が見えてくると
街道沿いに蔵で囲われた
大きな屋敷が現れました。
北信随一の豪商、田中屋本家の建物です。
100メートル四方もの広い敷地の
周囲が蔵で囲われています。
正面は堂々とした門構えです。
ここは博物館になっていて、田中屋本家に伝わる
書画や陶器を展示する博物館になっていますが、
年末に訪れた際は休館日になっていました。
田中屋本家の博物館の先に
黒い趣のある門が建っていました。
真宗本願寺派の名刹、普願寺の表門です。
参道を歩いて行く先にある普願寺には
堂々とした本堂と鐘楼がありました。
昨晩積もったのでしょうか、足跡も
ついていない雪が境内に積もっていました。
普願寺の前の道は、白壁の塀が続き、
京都の哲学の道を彷彿とさせる雰囲気です。
2001年に須坂を訪れた際、田中屋本家博物館は
生憎休館で、桜で知られる臥竜公園を訪れる
時間の余裕もなく、又いつか訪れたいと
思っていました。
しかし、2011年に須坂を再訪した際にも
訪れることが出来ませんでした。
またの機会はあるのでしょうか。
駅への帰りに、しっとりとした
趣の路地に入り込みました。
青木屋小路というそうです。
蔵造りと土壁の建物に挟まれた小さな路地。
何気ない路地にも昔懐かしい面影が残る
須坂の街の象徴のような路地でした。
本上町公会堂から須坂駅に戻る道でも
古い町屋が残っていました。
古い町並みが残っていた須坂ですが、googleの
ストリートマップを見ると、訪れてから10年以上
経ち、町並みの佇まいも変わっているようです。