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Shane旅日記
鉄道旅行へのいざない



JR只見線
(会津若松 - 小出)
JR Tadami Line
(Aizu Wakamatsu - Tadami)



乗車日:Dec. 19 & 20, 2006






JR只見線は会津若松とJR上越線の
小出とを結ぶ135.2kmの路線です。

会津盆地から只見川沿いに遡り、只見から
急峻な峠を六十里越トンネルで一気に越後に抜け、
魚野川支流の破間川に沿って走るという
山間を走るローカル線です。

この路線は、会津若松側からは会津線の名称で、
1926年(大正15年)11月に会津若松 - 会津坂下間が開業し、
その後、会津宮下、会津川口と小刻みに路線延長し
1963年(昭和38年)8月には只見まで到達しています。

小出からは、只見線の名称で、1942年(昭和17年)に
小出 - 大白川間が開通しており、
残る六十里越の区間が開通したのは、
1971年(昭和46年)8月29日のことです。


この只見線には、大学の時に乗った事があるのですが、
2006年12月に再び、只見線に乗る機会を得ました。
この時の様子を下の3つの区間に分けて紹介しようと思います。



会津若松 - 会津宮下
(Aidu Wakamatsu - Aidu Miyashita)
May 01, '07

会津宮下 - 只見
(Aidu Miyashita - Tadami)
May 02, '07

只見 - 小出
(Tadami - Koide)
NEW! May 07, '07






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会津若松 - 会津宮下


会津若松の街を、少し急ぎ足で観光し、
13:08 発、小出行きの普通列車に乗り込みました。

会津若松の旅行記は
こちらです。

ホームに向かうと、2両編成のディーゼルカーが
既に入線していて、発車準備を整えています。



この列車は、只見線全線135.2kmを
4時間32分かけて走ります。
表定速度は29.8km。

人口密度の低い地域を走る只見線は
列車本数が極端に少なく、
途中の会津坂下までは7往復、
会津川口までは6往復、
そして会津若松から終点の小出に向かう列車は
この13:08発の427Dを含めても3往復しかありません。


定刻に会津若松を発車しました。
4人掛けのボックス席には、1〜2人の乗客がおり
運転本数の割には、乗車率は高いという感じです。

会津鉄道との分岐駅・西若松を出ると
すぐに大川(阿賀野川)を渡りました。



会津鉄道のAIZUマウントエクスプレス号の乗車記はこちらです。

車窓左手には、会津盆地の広々とした
景色が広がっていました。



田圃がどこまでも続き、その向こうに
磐梯山が見えています。
朝は晴れていたのですが、
いつの間にか雲が広がっていました。

車窓左手には、尾瀬へと続く山々が
雪景色した姿が見えていました。




只見線は、会津盆地の縁に沿って連なる
集落を結びながら、時計回りに進んで行きます。

会津若松の街並みが車窓右手遠くに見えるようになり、
会津若松城も家並みの向こうに小さく見えました。
磐梯山も進行方向に位置を変えていきました。


広々とした会津盆地を眺めながらのんびり走り、
いくつかの駅に停まりながら45分で
会津板下に到着しました。

会津若松 から会津坂下までの区間が
開業したのは1926年(大正15年)11月の事です。

この会津坂下では7〜8分停車し、
上り会津若松行きと交換です。



とっても、のどかな汽車旅です。
時間の進み具合もいつもの暮らしよりも
遅くなっているように感じられます。

この、のどかな列車が現代にも存続し
続けている事が不思議に思えてきました。

車内は、会津若松を発車した時よりも
随分と空いてきました。

会津坂下を発車すると勾配を駆け上がり、
会津盆地を見下ろすようになりました。



列車は大きく東に方向を変え、
只見川沿いに走るようになります。

車窓風景と同じ様に、車内も
のんびりとした雰囲気です。



これは、会津坂本駅での一場面です。


会津板下から20分ほどで、会津柳津に着きました。



駅に色とりどりの幟が掲げられています。

駅から徒歩10分程のところにある圓蔵寺は
この会津柳津には日本三大虚空蔵尊の一つ、
福満虚空蔵尊があるお寺です。

只見川の川下りや温泉もある
観光の町のようです。

会津柳津を発車してすぐに
圓蔵寺の伽藍と柳津の町が見えてきました。




柳津からは車窓風景は、いよいよ鄙びた雰囲気となり
只見川に沿う谷が次第に狭くなっています。



山懐まで続く冬枯れの田圃。
こういった景色が車窓に現れては
流れ去って行きます。

時折、日陰に雪が残っているのが見えました。

これは滝谷駅停車中の様子です。



以前は行き違い駅だったようですが、
今はそのレールは取り去られ、
使われなくなったホームが
自然に還ろうとしているようです。

やがて、只見線の列車は只見川を渡りました。



只見川はダムが幾つも作られ、
渓谷の流れは失われていますが、
ダム湖の水は鏡のように周囲の景色を写していました。

車窓は冬枯れの山里で、
時折、ススキの穂や沢山
実が生った柿が車窓に現れます。



絡ヶ森山でしょうか、遠く、うっすらと
雪を抱いた山も見えてきました。

そして、会津宮下に到着です。
会津若松から45.4km、
約1時間半掛かっての到着でした。

会津坂下から会津宮下間の開業は1941年(昭和16年)です。



この会津宮下では、17分程停車しました。

いつしか車内は、ひっそりとしています。
時間を持て余した人たちが、三々五々
ホームに降り立ち、身体を伸ばしたりしていました。


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会津宮下 - 只見
(Aidu Miyashita - Tadami)



会津宮下で長い時間停車した後、
再び、小出を目指して動き出しました。

ひっそりとした車内。



平均するとボックスシートに
一人ずつ乗っている程度です。

会津宮下を出ると、谷が狭くなり、
只見川に沿って走るようになります。



まだ午後3時になった頃ですが、
冬の日は傾き、夕暮れの様な趣です。
只見川に絡むように、川を渡りました。
次の早戸駅付近の様子です。



ダムの多い只見川の流れは、
緩やかで静かです。

この緩やかな川の流れに沿い、
トンネルを幾つも越えて行きます。

次の、会津水沼駅に停車中の写真です。



古びた駅名板が旅情を誘います。

只見線には、"会津"の旧国名の付く駅がとても多く、
福島県内29駅中、17駅に旧国名が付いています。

会津水沼を発車し、再び只見川を渡ります。
緩やかにカーブした先にトラス橋が見えています。



乗客が少ないので、窓を開けてこの写真を撮りました。

川の両側に山が迫っていて、僅かに開けた
平地に田畑や集落が集まっています。



彩の少ない、冬枯れの景色が続いていて、
時折、車窓に現れる柿の木が
とても良いアクセントになっています。
再び緩やかな只見川の流れに沿います。



そして、会津川口に到着です。

ここで、9分間の停車です。
しばらくすると、会津若松行きの
上り列車も到着しました。



会津宮下から会津川口までの区間が
開業したのは1956年(昭和31年)の事です。

駅は、只見川の流れに沿っています。

学校を終えた高校生が三々五々、
列車に乗り込んできました。

静かだった車内に、多少賑やかになり、
会津川口を発車しました。
会津川口からこの先、只見までの区間は
ダム建設の物資輸送の為に建設され、
1957年(昭和32年)に開通しています、

旅客営業を始めたのは6年後の
1963年(昭和38年)の事でした。


会津川口を発車し、再び只見川の
流れを眺めながら進みます。



車窓からは、対岸の山が静かな只見川の
川面に写っている景色だけが見えています。

しばらく走って只見川を渡ると、
平地が広がり、集落が現れました。



本名(ほんな)の集落です。
何所といって特徴の無い山村です。

住んでいる人にとっては雪深いこの地での
暮らしは大変な事も多いかと思いまが、
この景色に心が和みます。

本名を出ると、本名ダムが車窓に現れました。



このダム建設の物資輸送にも、
只見線は活躍したのでしょうか。

ここからは只見川の両側に山が迫る隘路で、
只見線は、長いトンネルで抜けていきます。

トンネルを走っている間に
ウトウトとしてしまったようです。

いくつかトンネルを抜けると、耕地が広がり
只見川の流れと離れ、会津越川、会津横田、
会津大塩と駅を過ぎていきます。

再び、山が迫り只見川に沿うようになりました。



雪の積もった山が、すぐ近くに見えるようになり、
いつの間にか、標高も高くなっているのでしょうか。

そして、会津塩沢に到着しました。



山間の田圃の脇にあるひっそりとした無人駅ですが、
この会津塩沢は、戊辰戦争の際に反政府勢力の
奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩家老、河井継之助が
会津若松に敗走する途中、命を落とした地です。

会津塩沢を出ると、越後との国境に聳える
浅草岳が遠くに見えてきました。



線路の周囲にも前日降った雪が残っていました。

16:13、会津若松から88.4kmの距離を
3時間05分の所要時間での到着です。



辺りは暮れなずみ、列車の
ヘッドライトが輝いていました。

列車はこの只見で7分程停車し、小出に向かうのですが、
只見線のハイライトの六十里越が暗くなってしまう事もあり、
この日は、この只見で一泊の予定です。

列車の写真を撮っていると、声を掛けられました。
お願いしていなかったのですが、予約していた
宿のご主人が、迎えに来てくれていたのでした。

不意の暖かい出迎えを受け、
只見の町での一晩を過ごしました。

只見の様子はこちらをご参照下さい。



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只見 - 小出
(Tadami - Koide)






早朝の只見の集落の散策を終え、
8:56 発の小出行きで、只見線の旅の再開です。

只見の様子はこちらをご参照下さい。


会津若松からの2両編成の列車がやってきました。
平日の8時台の列車ですが、
到着した列車から高校生の姿はなく
数人の乗客が乗降しました。

車内もよく空いていました。
発車すると、只見の集落が
車窓の後ろに去っていきます。



またいつか、来たい町です。
行く手には、田子倉ダムの背後の
雪を被った山が、遠くに見えてきました。



只見線は、勾配を上りながらトンネルへと入っていきます。
長いトンネルを抜けると、田子倉ダムによって
只見川の流れが堰き止められた田子倉湖が
車窓に飛び込んできました。



険しい山間にひっそりと水を湛えた田子倉湖の様子。
この辺りは豪雪地帯で、対岸の自動車道も
頑丈な雪崩避けに覆われています。

列車も、スノーシェッドを通って行きますが、
このスノーシェッドの区間に田子倉駅があります。



田子倉駅周辺に人家は全く無く、
田子倉湖周辺のハイキングコースや
背後に聳える浅草岳への登山道があるようです。

雪深く、訪れる人もいない冬期の半年間は
この田子倉駅は閉鎖になり、
列車はゆっくりと通過して行きました。

スノーシェッドを通り過ぎ、田子倉湖が
背後に去っていくと、列車は汽笛を鳴らし
六十里越トンネルに入って行きました。

六十里越トンネルは、長さ6359m、
会津と越後の国境を越えるトンネルです。


トンネルを抜けると破間川の支流、
小さな流れの末沢川に沿って、
狭い谷を下っていきます。



狭い谷を流れる川は細く、
只見線は何度も川を渡り、
直線的に走って行きます。



次第に谷が広がり、周囲の
山々も姿を現してきました。

破間川を渡ると、9:28 に大白川に停車しました。
只見から32分間、駅に停車する事無く走り続け、
途中にも殆ど集落らしい集落もありませんでした。

この六十里越がいかに山深い
峠道だったか判るように思います。

この只見 - 大白川間が開通したのは
1971年(昭和46年) 8月29日の事でした。


大白川からもしばらくは、
渓谷に沿って走ります。



併走する道路にも雪崩防止の
スノーシェッドが続いています。



次の停車駅、柿の木を過ぎると、
谷が広がり、耕地が現れてきました。

のどかな田園風景も広がりました。



破間川の流れの向こうに、守門岳でしょうか、
雪を抱いた山塊が現れてきました。




只見線の越後側の主要駅、入広瀬に到着です。
列車が到着すると数人の乗客が乗り込んできました。

次の停車駅、上条を過ぎ、流れが広くなった
破間川を渡ると、車窓左手には広々とした
田圃の向こうに遠く山が見えてきました。



六十里越峠の東側の会津地方は
この日の朝は天気が良かったのですが、
越後に入ると雲も垂れ込め、
朝方には雨も降ったような感じがします。

山々の峰の間からは、霧が湧き上がり
幻想的な風景になっていました。



駅に停まる度に、数人ずつの乗車があり、
只見を発車した際には閑散としていた
車内も、ずいぶんと乗客が増えてきました。

いつしか平地広がり、空も明るくなってきました。
車窓左手遠くに真っ白に雪化粧した山が見えています。



地図を見てみると谷川岳のようです。
険しい山並みがとても印象的でした。

谷川岳の左側にも高い山が聳えていました。



こちらは奥只見湖を囲むように聳える
未丈ヶ岳や駒ケ岳でしょうか。

只見線の越後側は、狭い谷あいの景色から
平地の向こうに雪を抱いた山々を臨む
雄大な景色への変化が楽しめる路線でした。

谷川岳の麓から流れ出る魚野川を渡ると
急に、上越線の立派な線路が現れ、
終着駅、小出に到着しました。

只見から46.8km、1時間17分の旅でした。




これで会津若松から小出までの135.2kmを
二日間かけて乗り通しました。

会津盆地からの磐梯山、只見川沿いの渓谷の眺め、
六十里越の山深い景色から雪山を眺める雄大な景色と
只見線は変化に富んだ自然豊かなローカル線の旅でした。



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