会津若松
Aizu Wakamatsu, Japan






会津若松は福島県の西部、
会津盆地の東南に位置する街です。

会津の歴史は古く、大和政権下では
東北の要地としての役割を果たしていたようです。

会津若松の街並みが整備されたのは、
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の命で
会津に移封された蒲生氏郷が
会津若松城(鶴ヶ城)を築き、
城下町を整備した事から始まりました。

江戸時代に入り、1643年(寛永20年)に
家光の弟、保科正之が会津藩主となったことから
会津藩は徳川将軍家親族の名門となりました。

会津藩は、保科正之の、徳川家への絶対忠誠、
法の絶対服従を示した家訓を守り、
幕末、京都守護職を務めた松平容保は
幕府勢力の中心として活躍しますが、
その為、戊辰戦争では、この会津若松は
新政府軍に攻め込まれてしまったのです。


この歴史溢れる会津若松には大学生の頃に
来た事があるのですが、それから約25年ぶりの
2006年12月に再び、この街を訪れました。

この時の様子を紹介します。



まちなか界隈 (Downtown Area)
Apr. 20, '07


会津若松城 (鶴ヶ城) (Aizu Wakamatsu Castle) 
Apr. 23, '07


会津武家屋敷 (Aizu BukeYashiki)
Apr. 25, '07


飯盛山界隈 (Mt. Iimori Area)
NEW! Apr. 28, '07



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まちなか界隈
(Downtown Area)



AIZUマウントエクスプレスで
会津若松に着いたのは 17:26。

AIZUマウントエクスプレスの乗車記はこちらです。


冬の短い日は既に暮れています。

街歩きは翌日からということで、
チェックインしたホテルで紹介して頂いた、
会津料理のお店で夕食を摂ったのですが、
そのお店に行く途中に、不意に
蒲生氏郷のお墓のある興徳寺に辿り着きました。

そして、食事を終えてホテルに戻る時、
ライトアップされた建物が目に入りました。



会津若松の市役所です。
クリスマス間近の時期なのでライトアップしていたようですが、
ヨーロッパの街角を歩いているような錯覚を覚えました。


そして、翌朝少し早起きして会津若松の
街中の散策を始めました。
ちょっと欲張ったスケジュールを立てたので
会津若松での自由行動時間は午後1時までです。

まずは、野口英世青春広場にある
野口英世像を訪ねました。



1876年(明治3年)に猪苗代湖畔で産まれた
野口英世の業績を称え、若い人の師範となるように
願いを込めて建てられたものだそうです。

この野口英世像から東へ向かうと
前の晩に偶然見つけた興徳寺です。



蒲生氏郷の家系は元々は近江の名門の家系で、
主君・六角氏が織田信長に滅ぼされた後、信長に仕え、
その際に、氏郷は人質として信長のもとに送られたそうです。

信長は蒲生氏郷の才能を見抜き、
次女を嫁がせた程です。

その後、秀吉に仕えた氏郷は92万石の大名として、
この会津に移封され、会津若松の城下町を整備したのでした。



会津若松の祖となった蒲生氏郷の
お墓はひっそりと佇んでいました。


蒲生氏郷のお墓をお参りした後、
会津若松城を目指しました。

後でよく地図を見ると、興徳寺の東300m程のところに
会津若松の城郭の門跡で唯一残る甲賀町口門跡や、
野口英世青春広場のすぐ北には
野口英世が手の手術を受け、後に書生として
過ごした家とか見所があったのですが、
見逃してしまいました。

会津若松城へ向かうメインストリートの様子です。



この日は平日で、学校や勤めにと
街中に向かう人たちとすれ違って歩きます。

会津若松城の北出丸に程近いところに
なかなか趣のある酒蔵がありました。



会津酒造博物館になっている宮泉銘醸という
大正期に造られた酒蔵です。

このすぐ近くに会津藩家老、
内藤邸跡の碑があります。



内藤氏の先祖は武田信玄に仕えた
工藤氏ということで、会津藩では
名家出知られていたようです。

この内藤邸跡の、道路を隔てた
反対側には西郷頼母邸跡があったようです。
戊辰戦争の際、政府軍が街に侵攻した際、
頼母の家族ら21人が自決したという
悲劇があったところです。

西郷頼母邸は市街地の東南にある
会津武家屋敷に移築されています。



Restaurant Information

田季野

〒965-0871
福島県会津若松市栄町5-31
TEL : 0242-25-0808
FAX : 0242-25-0809
Web Site: http://www.aizu.com/org/aizu/takino/

ホテルで紹介してもらった会津料理のお店です。
建物も会津西街道の陣屋だった建物で
とても雰囲気があります。

輪箱飯が美味しかったです。





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会津武家屋敷
(Aizu BukeYashiki)







会津若松城を訪れた後に向かったのは会津武家屋敷です。
ここは、会津若松城のすぐ北側にあった、
会津藩家老の西郷頼母邸を復元したものです。



会津武家屋敷は、東山温泉の近くの山懐にありました。
重い鞄をコインロッカーに入れ、階段を上って行きました。

ここには西郷頼母邸の他に旧陣屋跡や
千利休の子・少庵が建てたお茶室もありますが、
まずは西郷邸を目指しました。

白壁の土蔵の様な建物に沿って行きます。



白壁の建物の奥に立派な表門がありました。
侍屋敷の門というよりもお城の門のようです。



この表門は、藩主や上級武士のみが
ここを通ることを許されたそうです。

そして門をくぐるとお屋敷の表玄関です。



西郷頼母邸は敷地面積2,400坪、
建物面積は280坪にも及びます。

藩主の御成りの間を含む38もの部屋があり、
さすが、大藩・会津藩の家老のお屋敷です。

お屋敷の中にも入ることが出来ます。
戊辰戦争の時に、一族21名が自決した
「白刃の場」も復元されています。

痛ましい歴史を実感します。

西郷頼母邸を辞した裏門の辺りからの眺めです。



山間に建てられた侍屋敷。
とても心和む景色ですが、
昔はどこにでも見られた景色と思いますが、
今では、なかなか見られる景色ではありません。


西郷邸の後は、旧中畑陣屋に向かいました。



この萱葺きの建物は福島県矢吹町にあった
陣屋を移築したものです。
1837年(天保8年)に建てられたこの陣屋は
東北地方に最後まで残った代官所ということで、
福島県の重要文化財に指定されています。

旧中畑陣屋の脇には千利休の子、
少庵の建てた嶺南庵がありました。



会津若松城の本丸から移築されたとのことです。
本丸には、蒲生氏郷が少庵の為に建てた
茶室・麟閣もあり、いくつか茶室もあったようです。

嶺南庵から土蔵造りの資料館を抜けると、
ひっそりとお墓がありました。



京都見廻組与頭(くみがしら)・佐々木只三郎のお墓でした。
戊辰戦争の怪我が原因で和歌山の紀三井寺で亡くなり
その地で葬られていたのを改葬されたそうです。

京都見廻組は京都守護職・松平容保の下で
組織された反幕府勢力取り締まり機関です。
この京都見廻組は坂本竜馬暗殺の実行犯の最有力とされ、
与頭・佐々木只三郎自ら暗殺の実行犯だったようです。

個人的には、坂本竜馬暗殺の影には
薩摩藩ありと思っていました。
以前、NHKで実行犯である見廻組と薩摩藩が
つながりを持っていた事を紹介し、
薩摩藩黒幕説を紹介していました。

(竜馬暗殺に関してはこちらを参照下さい)

当時、竜馬は大政奉還から徳川家を含む
大連合の新政府成立を推し進めていました。

竜馬が非業の死を迎えなければ、その後の歴史は大きく変わり、
会津藩が朝敵になることも無かったかもしれません。
そしてその竜馬暗殺の犯人が会津藩支配下の者であったら、
歴史とは皮肉なものです。

1867年(慶応3年) 11月15日。
京都・醤油商近江屋新助の家での惨劇。
佐々木只三郎は何も語ることなく亡くなっていますが、
真実はどうだったのでしょうか。


これは、会津武家屋敷の敷地にある会津天満宮です。



この神社も、西郷家の屋敷内にあったそうです。



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飯盛山界隈
(Mt. Iimori Area)







会津武家屋敷を訪れた後、飯盛山に向かいました。
会津乗合自動車が運行する周遊バス、
「ハイカラさん」号での移動です。

飯盛山のバス停から、飯盛山へと向かいます。



長い階段の脇にエスカレーターが作られていました。
この階段の先が飯盛山です。

戊辰戦争の際、白虎隊がこの飯盛山から
会津若松城が戦火に包まれているのを見て
落城したものと思い、自刃した事で知られています。

会津藩では年齢別に玄武・青龍・朱雀・白虎の軍制を敷いており、
白虎隊は、16〜17歳の少年達によって編成されていました。
もともと予備役だった白虎隊ですが、
新政府軍の進軍に遭い、戦場に駆り出され、
城下に敗走する途中での悲劇でした。

長い階段を上り、白虎隊十九士のお墓に向かいます。



上左の写真は「会津藩殉難烈婦の碑」です。
戊辰戦争で命を落とした婦女子二百余名の
霊を弔う為に、1928年(昭和3年)に
旧藩士の山川健次郎氏が建てたものです。

そして右側が藩主・松平容保が白虎隊士の
殉難に対し詠んだ詩です。

"幾人の涙は石にそそぐとも
その名は世々に朽じとぞ思う"
源 容保


松平容保が詠んだように、140年経った今に
その名が知られる白虎隊士のお墓がありました。



飯盛山で自刃した白虎隊士19名の亡骸は
新政府軍の命令により放置されていたようです。

約三ヵ月後、村民により妙国寺に仮埋葬され、
その後に、この地に改葬されたそうです。
16歳、17歳と言う年齢で、自決した彼らの死は
戦争の理不尽さを伝えているようです。

白虎隊士のお墓をお参りした後、
自決の地に向かいました。

途中に、飯沼貞雄翁のお墓がありました。



飯沼貞雄氏は、この地で自決を図ったものの
死に切れずに居た所を助けられたそうです。

白虎隊士の悲劇は、生き残った彼によって
後世に伝えられる事になったのですが、
戊辰戦争後は会津を離れ、1931年(昭和6年)に
仙台で亡くなったそうです。

お墓は白虎隊士十九士とは
別の場所に建てられていました。

飯沼貞雄翁のお墓のすぐ先に
自決の場がありました。



遠く、会津若松城を望む
少年の像が建てられています。

そして自決の地から望む会津若松城です。



肉眼でははっきり見えたのですが、
写真では判りづらく、赤い矢印で示しました。

その日、彼らがここから眺め、自決を決めた
炎と煙に包まれた会津若松城。
しかしその時、落城しておらず、それから
一ヵ月間新政府軍の攻撃に耐え籠城戦を戦い、
1868年(慶応4年)11月6日に降伏しています。


白虎隊士自決の地の訪れた後、
飯盛山を下りました。

北側の山の中腹ににさざえ堂という
国の重要文化財の建物があります。



このさざえ堂の内部は、螺旋状の階段になっていて、
同じ道を通らずに堂内を一周し戻ってこれるという
とても変わった構造をしています。

このさざえ堂から下ったると
厳島神社がありました。



南北朝の時代(1380年代)、
この会津の地を治めていた芦名直盛によって
建てられた社殿が起源ということです。

この厳島神社から更に下ると
小さな池が見えてきました。



その池の奥に、洞窟の様な穴が見えました。
足ノ口堰洞穴です。

猪苗代湖の水を会津盆地に引き入れる為、
1620年頃(元和年間)から工事を行い、
1832年(天保3年)に完成したものです。

あの日、猪苗代に進軍した新政府軍と戦い
敗退した白虎隊の一部の兵士がこの洞穴を通り、
猪苗代湖畔から会津城下に敗走したそうです。
そして、戦況を確認する為、疲れた身体に鞭打ち
飯森山に上って行ったのでした・・・


通りの向こうには旧滝沢本陣がありました。



戊辰戦争時には前線基地となり、
松平容保もここで指揮をとったそうです。



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