人吉
Hitoyoshi, Kumamoto


人吉は熊本県南部、九州山地の山間にある街です。
急流で知られる球磨川の畔の盆地に発達した街で、
平安時代末期には人吉城が築かれました。

平安末期から江戸時代末期まで、この地を治めた
相良氏の居城・人吉城の他にも、菩提寺の願成寺や
相良氏墓地、そして国宝の青井阿蘇神社など、
市内に見どころも多く残っています。

人吉城
(Ruins of Hitoyoshi Castle)
May 26, '19

原城(中世人吉城)
(Ruins of Hitoyoshi Castle)
May 26, '19

青井阿蘇神社
(Aoi-Aso Shrine)
June 15, '19

相良家墓所
(Graves of Sagara Clan)
June 25, '19

願成寺
(Ganjyoji Temple)
July 04, '19

永国寺
(Eikokuji Temple)
NEW ! July 15, '19

九州地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る

青井阿蘇神社
(Aoi-Aso Shrine)


2011年5月に久しぶりに肥薩線に乗りました。
この時は鹿児島県の隼人から普通列車を乗り継ぎ
人吉で途中下車し、街中の散策をしています。

肥薩線の乗車記はこちらです。

人吉駅から南に向かうと、青井阿蘇神社があります。

青井阿蘇神社は、806年(大同元年)に
阿蘇神社の分霊を勧請して創建されています。

鎌倉時代以降は人吉の領主となった
相良氏が氏神として崇めています。
現在残る社殿は、相良氏20代の長毎によって
1610年(慶長15年)に造営されています。

青井阿蘇神社の南側には、立派な堀が残っていました。
その堀に太鼓橋の禊橋が架かり、禊橋の向こうには
立派な鳥居が聳えています。


撮影: 2011年5月

禊橋を渡った袂には、青井桜馬場跡の碑がありました。
堀沿いのこの空き地で馬の鍛錬をしたのでしょうか。


撮影: 2011年5月

禊橋を渡り仰ぎ見る鳥居と楼門です。


撮影: 2011年5月

楼門は、珍しく茅葺屋根になっていました。
急こう配の茅葺屋根の楼門は堂々としていて
その姿に、とても感動しました。
赤い鳥居も印象的です。

青井阿蘇神社は拝殿も茅葺屋根でした。
質素な佇まいの中にも力強さを感じます。


撮影: 2011年5月

拝殿の前に立つと、幣殿を通して本殿の
神坐の様子を伺い知ることが出来ました。
とても厳かな雰囲気でした。


撮影: 2011年5月

青井阿蘇神社の幣殿と本殿の様子です。
幣殿も拝殿と同じように茅葺屋根になっています。


撮影: 2011年5月

青井阿蘇神社の拝殿、廊、幣殿、本殿
そして楼門は国宝にしていされています。
熊本県では唯一の国宝指定だそうです。

境内の御神木です。


撮影: 2011年5月

樹高21.5mの大クスです。
境内にはこの他にも稲荷神社や
宮地嶽神社などの末社があります。

宮地嶽神社の奥には「むすび廻廊」
という建物がありました。


撮影: 2011年5月

この廻廊の先には、青井阿蘇神社創建以来
1200年に亘り大宮司を務めた青井家の屋敷があり、
主屋や蔵などが公開されているようです。

こちらには足を踏み入れずに、
見逃してしまいました。

人吉のページのTopに戻る


相良家墓地
(Graves of Sagara Clan)

青井阿蘇神社を訪れた後、 人吉の街を東に向かいました。


撮影: 2011年5月

街のすぐ南を流れる球磨川に架かる人吉橋からの眺めです。
街中に温泉旅館も何軒かあり、また球磨川の川沿いの
光景は、のどかで旅情も高まります。


撮影: 2011年5月

対岸に人吉城の石垣も見えていました。

人吉城の登城記はこちらです。

この先、九州山地を超え、隼人へと向かう肥薩線の踏切を超え、
左に折れてしばらく歩いて、今度はくまがわ鉄道の踏切の先に、
人吉の地を670年に亘って治めた相良家一族の墓地があります。

肥薩線の乗車記はこちらです。
くまがわ鉄道の乗車記はこちらです。

通りから入った先に鳥居がありました。


撮影: 2011年5月

この鳥居の奥に、相良家初代の
長頼公の立派なお墓があります。


撮影: 2011年5月

相良家は藤原鎌足の子孫とされ、平安時代の終わりには
今の静岡県、遠江の相良庄の地頭だったようです。

相良長頼は1198年(建久9年)に人吉庄に赴く事になり、
1205年(元久2年)に人吉庄の地頭になっています。

1254年(建長6年)に78歳で亡くなった長頼ですが、
長らく願成寺金堂に葬られていたそうです。
1877年(明治10年)の西南戦争で、その金堂が
焼失し、その後1888年(明治21年)に
このお墓が建てられました。

相良長頼公の立派なお墓の裏には、丘陵地の
中腹に向けて2つの階段が続いていました。


撮影: 2011年5月

右は、相良家の菩提寺・願成寺の歴代住職のお墓、
左の階段が相良家一族のお墓へと続く階段です。

階段を上ったところには墓地が
五か所に分かれてありました。


撮影: 2011年5月

上の写真は第一墓地で、二代・頼親公 (1197 - 1264) から
19代・忠房公
(1572 - 1585) までのお墓が並んでいます。

初代の相良長頼が人吉の地に赴いた後、
人吉城を築き、その後第12代当主・
為続の時に本格的な築城がなされました。

人吉城の登城記はこちらです。

ここに眠る18人は、平安から戦国時代にかけて
人吉の地を治めた人吉城・城主になります。

下の写真は、第一墓地の奥にあった第五墓地です。

ここには何故か石田三成の供養塔もありました。
関ヶ原の戦いの際、当初西軍についていた第20代・
相良頼房
(1574 - 1636) (後の長毎)は籠城していた
大垣城で東軍に寝がえっています。


撮影: 2011年5月

晩年、この寝がえりを悔いたのか、頼房は
石田三成や大垣城で殺した人たちの供養の
為に、この墓地を築いたそうです。

そして、下の写真が第二墓地で、第20代の
頼房(長毎)公から第26代の頼峯公
(1735 - 1758) まで、
第25代の長在公
(1703 - 1738) を除く6人の江戸時代の
人吉藩主とその正室らが葬られています。


撮影: 2011年5月

第25代長在公と第27代・頼央公 (1737 - 1759) 以降の
江戸時代の藩主は第三墓地に眠っています。

第27代・相良頼央公は藩主になって一か月後に
暗殺されたと言われ、以降、相良家の家柄は
残りますが、平安末期から続く相良氏の
血統は途絶える事になります。

人吉のページのTopに戻る


願成寺
(Ganjyoji Temple)

相良家墓所の北側に、相良氏の菩提寺・願成寺があります。


撮影: 2011年5月

願成寺は1233年(天福元年)に、
相良氏初代の長頼が創建しています。

願成寺は人吉城の東北、鬼門に位置しています。
相良長頼は、鬼門を鎮める為に築いたのでしょうか。

願成寺の本堂です。


撮影: 2011年5月

願成寺は創建以来何度も火災に遭っており、
今の本堂も、1877年(明治10年)の西南の役の
戦禍に遭い、大正時代に再建されたそうです。

境内にはいくつか石塔がありました。


撮影: 2011年5月

写真は三重塔ですが、背後には七重塔があります。
鎌倉時代に造られたと考えられているそうです。

かつては、6つも末寺があり、威勢を誇った願成寺も
いまはひっそりとしていました。

願成寺を辞し、球磨川に沿って人吉の街に戻りました。
球磨川に架かる肥薩線の鉄橋です。

肥薩線の乗車記はこちらです。


撮影: 2011年5月

対岸には人吉城があります。

人吉城の登城記はこちらです。

球磨川に沿って下っていくと堤防に碑がありました。
球磨川下りの碑です。


撮影: 2011年5月

ゆったりと流れている球磨川ですが、最上川、
富士川と並び日本三大急流として知られています。

江戸時代初めの1662年(寛文2年)に林正盛という人物が
八代への舟運を可能にするため、藩の許可を得て、
球磨川を開削し、船の航行を可能にしたそうです。


撮影: 2011年5月

今は、この舟乗り場から温泉町まで
50分程の川下りが楽しめます。

人吉のページのTopに戻る


永国寺
(Eikokuji Temple)

球磨川下りの乗船場を過ぎ、町の中心部に近い
大橋で球磨川を渡り、左岸に向かいました。


撮影: 2011年5月

時刻は夕方の5時を回っています。
この日の昼過ぎに、青井阿蘇神社を訪れてからこの橋を渡り、
人吉城に向かったのですが、それから4時間近い時間が経っています。

支流の胸川に沿って進み、最初の信号を右に折れると
武家屋敷がありました。


撮影: 2011年5月

その隣の古風な門は、人吉城の移築門の堀合門でした。
人吉城御館の水の手側にあった門で、人吉城の
唯一の現存建造物だそうです。

人吉城の登城記はこちらです。

この道を進んでいくと、永国寺に突き当たりました。


撮影: 2011年5月

永国寺は曹洞宗のお寺で、相良氏第九代の相良前続公が
1408年(応永15年)に建立したと伝わっているそうです。


撮影: 2011年5月

永国寺は1877年(明治10年)の西南の役の際に、
西郷軍の本営が敷かれたところだそうです。


撮影: 2011年5月

境内にその碑がありました。

熊本から人吉に逃れた西郷軍は、この地に
約一か月程留まり、政府軍の追撃の手が迫ると、
山を越え宮崎県の小林を目指して行ったそうです。

境内には他にも古い石塔がありました。
この石塔は銘文に、1227年(嘉禄3年)に、相良家初代・
相良長頼の弟・宗頼の子・頼重の名が刻まれているそうです。


撮影: 2011年5月

そしてこちらは千人塚の石塔です。


撮影: 2011年5月

秀吉の朝鮮出兵で、秀吉は現地で捕えた捕虜の耳と鼻を削ぐように命じます。
さらに手柄の証明として削いだ耳と鼻を塩漬けにして伏見に送る様に命じ、
相良氏もこれに従い、捕虜としていた1800人の命が失われました。

この石塔はその霊を慰める為に建てられたそうです。

こうして人吉での一日が終わりました。
5時間近くも散策し、とても充実した一日になりました。


撮影: 2011年5月

三度、大橋を超えました。
既に夕暮れの状況です。

血なまぐさい出来事もあった人吉ですが、
球磨川の清流が全てを流し清めているようでした。

人吉のページのTopに戻る

九州・沖縄地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る