東京 / 御茶ノ水界隈
Ochanomizu Area in Tokyo
御茶ノ水はJR中央本線の駅でいうと、神田の次の駅です。
御茶ノ水は、江戸時代は"神田"の一部でした。
神田というと、江戸の下町の代表的な地名ですが
いま御茶ノ水と呼ばれる一帯は、高台にあり、
当時は大名屋敷が軒を連ねていたそうです。
東京・神田の記事はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Kanda.html
御茶ノ水駅は神田駿河台という台地の上に位置し
その北側に神田川が切り立った谷の下を流れ
その向こうは本郷台へと続いています。
現在は、神田川が千代田区(旧神田区)と
文京区(旧本郷区)の境になっていますが、
御茶ノ水駅の東側では、千代田区が
神田川の北側に伸び、ここを外神田と呼んでいます。
ここでは、外神田も含めて紹介しようと思います。
御茶ノ水駅周辺〜ニコライ堂
Jan. 30, '16
駿河台から神田上水
Feb. 03, '16
湯島聖堂
Feb. 07, '16
神田明神
NEW ! Feb. 10, '16
"東京"のTopに戻る
御茶ノ水駅周辺〜ニコライ堂
(Around Ochanomizu Station)
東京駅から2駅目の御茶ノ水。
JR中央東線と総武線との接続駅です。
JR中央東線の乗車記はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Train/Japan/JR/ChuouTou.html
駿河台が神田川へと落ち込む崖の下に位置し、
聖橋とお茶の水橋に挟まれた位置にあります。
南側に高台があるので、いつも日影になっています。
上右側の写真が聖橋で、歌にも歌われています。
聖橋から東を眺めた様子です。
地下鉄・丸ノ内線が神田川を渡り、
そのすぐ上を中央本線のオレンジ色の
快速電車が走って行く構図はつとに有名です。
総武・中央緩行線も合わせ、電車の運転頻度が高く、
いつまで眺めていても飽きる事がありません。
こちらは、お茶の水橋からの眺めです。
神田川の向こう岸は本郷台です。
東京・本郷界隈の散策記はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Hongo.html
神田川は、駿河台と本郷台の間の狭い谷を
流れていますが、この辺りは、自然の地形ではなく、
江戸時代初期に山を切り崩して造られています。
1620年(元和6年)に二代将軍・徳川秀忠の
命を受けた伊達正宗が開削したのでした。
その後、1660年(万治3年)には、4代藩主・
伊達綱村が川幅の拡幅工事をしています。
この光景を眺めると、当時の開削工事が
とてつもない大工事だった事が偲ばれます。
このお茶の水橋から南に向かいました。
JRの御茶ノ水駅からの街並みです。
御茶ノ水駅の南側には明治大学や
日本大学などのキャンパスがひしめいてます。
駅前には飲食店が多く、賑わう街を象徴しているようでした。
駅前の交差点から200m程歩くと、右手に
明治大学のガラス張りの建物が見えてきました。
左手は杏雲堂病院です。
ここに、大久保彦左衛門屋敷跡の石碑がありました。
大久保彦左衛門は、徳川家康の天下取りを古くから
支えた大久保一族の人で、三河物語を著し、
天下のご意見番と云われています。
本名は大久保忠教、今の愛知県岡崎市の生まれです。
大久保忠教の生まれたとされる羽根古城は
出身小学校のすぐ近くにありました。
羽根古城の登城記はこちらです:
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Tokai/HanekoJyo.html
大久保一族の本拠の上和田城の登城記はこちらです:
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Tokai/KamiwadaJyo.html
御茶ノ水界隈は出張で何度も訪れた事があったのですが、
地元出身の大名の御屋敷がここにあると知ったのは
最近の事で、偶然見つけられて驚きました。
この角を左に折れ、東に向かいます。
この通りは雁木坂と呼ばれていました。
今は左程高低差はありませんが、当時は階段状の
雁木を埋め込んで上り下りを楽にしていたそうです。
丁度写真の辺りが法政大学発祥の地の様です。
この先で、正面にニコライ堂が見えて来ました。
このニコライ堂は御茶ノ水駅界隈の
ランドマークになっているようです。
この教会は日本ハリストス正教会の
東京復活大聖堂というのが正式名です。
日本ハリストス正教会はキリスト教の旧教(東宝正教会)で、
このニコライ堂の他に函館や豊橋に重要文化財に
指定されている聖堂を有しています。
函館の復活聖堂の様子はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Hokkaido/Hakodate.html#Motomachi
西側は白い壁に緑のラインが入った
ファザードが清楚な印象を与えます。
ニコライ堂の西側は本郷通りが走り、
こちらからはドームが綺麗に見えていました。
ニコライ堂から御茶ノ水駅に戻り、中央線の
線路に沿って東京駅方面に向かってみました。
御茶ノ水駅の東南に高いビルがあります。
御茶ノ水ソラシティという建物です。
調べてみて初めて知ったのですが、
以前ここが日立製作所の本社だったようです。
中央本線に沿って、急な下り坂になっていました。
駿河台の高台から、下町の平地へと下る淡路坂です。
鈴木淡路守の屋敷があった事から名付けられたそうです。
御茶ノ水ソラシティの裏側の坂道の様子です。
かなりの勾配という事が判ります。
台地にある御茶ノ水周辺には、
いくつもの古い坂道があります。
御茶ノ水周辺の坂道マップが
明治大学関連のサイトにありました。
http://www.jazzsai.com/event_info/modules/bulletin0/index.php?page=article&storyid=4
駿河台から神田上水
(Surugadai Area near Ochanomizu)
江戸城内堀の北、靖国通りと白山通りの
交差点辺りを神保町といいます。
地下鉄でいえば、東京メトロ・半蔵門線と
都営地下鉄・新宿線、三田線の接続駅です。
この神保町駅の南側に学士会館があります。
この学士会館の場所には1877年(明治10年)に、
東京開成学校と東京医学校が合併した東京大学が
置かれたそうで、日本の大学発祥の地とされています。
東京大学のある東京・本郷の散策記はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Hongo.html
ここはまた、同志社大学の創設者・
新島襄の生誕の地とありました。
安中藩士の子であった新島襄は、この地にあった
安中藩の江戸上屋敷で生まれたそうです。
この神保町から靖国通りを越えて
北に向かうと小さな公園がありました。
錦華公園というそうです。
この錦華公園は低地にあり、高台の上に建つ
明治大学の校舎がはっきりと見え、
駿河台の地形がよく判るところです。
この公園の北側に駿河台へと登る坂道がありました。
錦華坂です。
こうした坂の名は江戸時代からのものと
思いがちですが、この坂道が造られたのは
1924年(大正13年)の事で、坂の名前も
坂の下にあった小学校に由来するそうです。
この坂を上りきった辺りに「山の上ホテル」があります。
進駐軍が接収した建物を戦後にホテルとして開業したもので
接収中に"Hil Top Hotel"と呼ばれていた為、
この名前のホテルになったそうです。
麓の神保町一帯は出版社が多かったそうで
かつては締め切り間際の作家が
このホテルによく缶詰めになっていたそうです。
壇一雄の「家宅の人」の元となった愛人との同棲先が、
このホテルだったと知ってびっくりしました。
2013年に、上右の写真の別館が火災になり、
いまは明治大学の建物になっているそうです。
この先で坂道を登り切り、駿河台の上となります。
多くのビルが建ち並んでいますが、その中に
出版社のビルもありました。
調べてみると、今はこの出版社も
文京区に移転しているようです。
東京では、さすがに物事の動きが
目まぐるしいようです。
駿河台を北に向かうと、視界が開け
仙台藩が開削した仙台掘が見えてきます。
左手には水道橋の高層ホテルが聳えていました。
崖の手前を中央本線が走り、オレンジの帯を巻いた
快速電車や黄色の帯の中央・総務緩行線の
普通電車がひっきりなしに走っていきます。
その向こうには順天堂大学の建物が聳えていました。
この周囲には本当に多くの大学が集まっています。
中央線の線路に沿って、坂道となっていて
西に向かってこの坂道を下って行きました。
坂を下ったところから振り返って写した写真です。
この坂道も意外に急でした。
この坂道は皀角(サイカチ)坂といいます。
江戸時代にはサイカチの木が自生していたそうです。
皀角坂を下った辺りで、T字路の交差点がありました。
南から皀角坂へと突き当たる道も緩やかながら坂です。
この坂は小栗坂です。
旗本・小栗信友の屋敷があった
事から名付けられたそうです。
皀角坂を下りきると白山通りに突き当たり
ここで神田川を渡りました。
駅間距離が短い東京の事、
ここはもう次の水道橋駅です。
白山通りに架かる橋からの神田川の眺めです。
神田川を渡り、北側の外堀通りを東に向かいました。
外堀通りも御茶ノ水方面に向かう上り坂です。
この坂の名前はお茶の水坂です。
この坂道を上り始めたところに
神田上水の案内板がありました。
関口という所で、神田川から分流した上水路を
この辺りで、神田川の上を渡し、南側の
日本橋方面に水を流していたそうです。
水道橋方面を眺めた様子です。
丁度夕暮れで、夕陽に景色が輝いているようでした。
湯島聖堂
(Yushima Seido)
水道橋から外堀通りを歩き、お茶の水坂を上り、
聖橋の東側の袂に湯島聖堂があります。
湯島聖堂は第五代将軍・徳川綱吉が1690年(元禄3年)に
儒学振興の為に孔子を祀る大成殿などを建立したものです。
元は林羅山が建てた孔子廟だったようです。
綱吉は、この地で論語の講釈を行ったそうで、
儒教の学問を奨励したそうです。
湯島聖堂の正門にあたる入徳門です。
入徳門は1704年(宝永元年)に建てられたものです。
湯島聖堂には、その後1797年(寛政9年)に
幕府によって昌平坂学問所が併設されました。
昌平坂とは孔子の生まれ故郷の地名です。
入徳門を抜けると階段を上り、杏壇門に至ります。
湯島聖堂は入場料も無く、ここまで
あっさり入って来ることが出来ました。
杏壇門の左右には回廊が巡らされ、
正面に大成殿が建っていました。
大成殿は江戸の大火で4度も焼失を繰り返し、
関東大震災でも焼けてしまったとの事です。
今の建物は1935年(昭和10年)に再建されたものです。
黒塗りの建物が威厳を感じさせます。
孔子を祀るお堂との事ですが、ここで
儒教の勉学もしていたのでしょうか。
週末には内部も公開されているそうですが
訪れたのは平日で、見る事は出来ませんでした。
この大成殿を訪れた後に、
東隣の講堂の方に行ってみました。
その途中に孔子像がありました。
この木陰の向こうに孔子像があります。
世界で最も大きな孔子像という事です。
江戸時代には大成殿の東側のこの敷地に、
昌平坂学問所があったと思います。
幕末の長州藩で活躍した高杉晋作も
この昌平坂学問所で学んでいます。
こうして仰高門をくぐりました。
門の向こう側は斯文会館という建物です。
正門を出て聖橋方向を眺めた様子です。
この坂道は、相生坂と呼ばれていましたが
いつからか昌平坂という名になったようです。
神田明神
(Kanda Myojin Shrine)
湯島聖堂から少し北に行くと
神田明神がありました。
神田は下町の代表的な地名で、
この神田明神はその神田を代表する
神社ですが、場所は本郷台の高台にあります。
外神田と呼ばれる地域です。
本郷通りに面して立つ神田明神の大鳥居です。
神田明神は元々は江戸幕府が開かれる900年も昔、
730年(天平2年)に創建されだそうです。
"神田"という地名の起こりは、この辺りにあった
伊勢神宮の御田から付いたそうです。
銭型平次もこの辺りに住んでいた
設定になっていたようです。
門前の店を眺めながら歩いて行くと
立派な隨神門がありました。
神田明神は元々は今の大手町辺りにあったそうです。
現在の場所に鎮座したのは1616年(元和2年)の事です。
江戸城の表鬼門を護る役割があったそうです。
神田明神を訪れた時、神田駅から離れた高台に
あったのがちょっと不思議な感じがしましたが、
そういう謂れだったかと納得しました。
神田明神のご神殿です。
現在の社殿は1934年(昭和9年)に竣工しています。
堂々とした造りですが、鉄筋コンクリート製になっています。
訪れた日は平日でしたが、都心にある名の知れた
神社だけあり、何人もの人が参拝していました。
神田明神の境内にはいくつもの別宮がありました。
別宮の大伝馬町八雲神社です。
社殿の横には天水桶がありました。
1839年(天保10年)に奉納されたものです。
こちらは小舟町八雲神社です。
元々、江戸城内にあったそうですが
神田明神と共に、この地に移されたそうです。
境内にはこの他にも碑なども幾つかありました。
上の写真左は獅子山です。
木陰になっていますが、岩山の上と
岩の真ん中あたりに2頭の獅子がいます。
これらの獅子は江戸時代からのものです。
写真右は小唄の碑でした。
"東京"のTopに戻る