東京 / 両国
Ryogoku in Tokyo
両国は、日本橋の東、隅田川に架かる
両国橋を渡ったあたりです。
両国橋は1659年(万治2年)に架橋され、
当初は大橋といのが正式名称でした。
当時、隅田川の東側は下総国だったので、
武蔵と下総の二つの国をまたぐ橋ということで
両国橋と通称されたようです。
当初、隅田川には千住にしか架橋されていませんでたが、
1657年(明暦3年)の大火の際に、逃げ場を失った
多くの江戸市民が命を落としたため、
両国橋が架けられたそうです。
両国橋から程近いところに回向院があります。
お寺の建物は近代的なものですが、
この回向院は、この明暦の大火の
犠牲者を葬ったのが始まりです。
関東大震災の犠牲者もこの
回向院に葬られているそうです。
鼠小僧次郎吉のお墓が
回向院の一角にはありました。
黄葉した公孫樹の木の下にある
鼠小僧次郎吉のお墓。
なかなか捕まらなかった次郎吉の運にあやかろうと、
お墓を削る人が後を断たなかったそうで、
今では、削りとられる身代わりの
石が墓前に置いてありました。
今は差ほど広くはない回向院の境内ですが
1768(明和五年)には勧進相撲が行われ、
寛政から文政年間に至る50年程は
回向院で勧進相撲が行われていたそうです。
回向院から西に向かい、細い路地に入りました。
向かった先は、本所松阪町公園です。
公園に近づくと、得も言われぬような
不思議な感覚に陥りました。
この本所松阪公園は、江戸時代には
広大な吉良邸の敷地だったところです。
1703年1月30日(元禄15年12月14日)に
47名の赤穂浪士が討ち入った、あの吉良邸です。
当時は8,400平方メートルもの広大な屋敷でしたが、
都市化の波に洗われ、当時の様子を残そうと、
地元の方が旧邸の一角を購入し、当時の
東京市に寄付したものだそうです。
格式高い高家だった吉良氏に相応しく
公園の石壁は海鼠壁長屋門を
模した造りになっています。
公園内には当時も吉良邸にあった
稲荷神社が祀られていました。
300年前にこの地で激闘が行われたかと思うと
感慨も深くなりました。
その日、主君の仇を討ち、
吉良上野介の首を挙げた浪士達は
主君・浅野内匠頭の眠る
泉岳寺に向かったそうです。
泉岳寺の様子はこちらです。
吉良氏の地元の吉良の様子はこちらです。
1701年(元禄14年))、江戸城松之廊下で
浅野内匠頭が吉良上野介に切り掛かった
刃傷事件が元になっているこの討ち入り。
吉良上野介が悪役になってしまっていますが
事の発端の刃傷事件の背景は
永遠の闇に葬られてしまっています。
この本所松阪公園の更に西には
両国公園がありました。
ここは勝海舟の生誕地です。
勝海舟(麟太郎)は1823年(文政6年)に
この地に生まれています。
1860年(万延元年)に幕府軍艦
咸臨丸艦長として太平洋横断を果たし、
幕末には幕府の軍事総裁となり、
高輪・薩摩藩邸で官軍参謀・西郷隆盛との
会談で江戸城無血開城を行っています。
江戸の下町には、日本の歴史に
大きく関わる史跡が残っていました。
両国公園から北に向かい、
両国駅を隔てて反対側に
江戸東京博物館があります。
館内には江戸当時の東京の様子を復元してあり、
江戸時代の東京を詳しく知ることが出来ます。
この江戸東京博物館の北側には
徳川家康の銅像があります。
どういう謂れかはわからないのですが、
亀の甲羅に乗った家康の像は
ちょっとユニークです。
徳川家康の銅像は、居城としていた岡崎城、浜松城
そして駿府城にもあり、この江戸東京博物館の
像をあわせて4箇所すべて見ることが出来ました。
岡崎城の様子はこちらです。
浜松城の様子はこちらです。
駿府城の様子はこちらです。
江戸東京博物館の近くには、
葛飾北斎、生誕の地の碑もありました。
葛飾北斎の生誕地は、北斎通りに面していて
そこには北斎の浮世絵が通りに飾られていました。