小山駅から愛宕神社
(from Oyama St. to Atago Shirine)
小山の街は、小山駅の西に500m程離れた
思川との間に広がっています。
まずは駅から一本西側の通りに面した
小山まちの駅というところに向かいました。
古い石蔵の建物の隣に小山の
物産店が造られています。
ここでレンタサイクルをして、
小山の街の散策の開始です。
まず現聲寺を目指します。
その手前で、明治天皇小山
行宮所跡の石碑がありました。
交通の要衝の小山には、江戸時代には
日光街道が通り、宿場町も置かれていました。
この小山行宮所跡が、当時の脇本陣だったそうです。
小山の中心部はすっかり都市化されてしまい
宿場の面影は殆ど残っていませんでした。
その隣に現聲寺がありました。
城門の様な冠木門が印象的でした。
この現聲寺から更に南に向かい、
次に目指したのは須賀神社です。
須賀神社は940年(天慶3年)に、
藤原秀郷によって創建された神社で、
牛頭天王社とも祇園社とも呼ばれていたそうです。
小山城が築城されると1159年頃の
平治年間にこの地に遷座されたそうです。
下野国小山城の登城記はこちらです。
この須賀神社へはケヤキや公孫樹の並木が続く
とても趣のある参道が続いていました。
境内の入り口に石碑が立っていました。
案内板に昌木晴雄の碑とあります。
昌木晴雄は幕末の頃に、この須賀神社宮司の
沼部家に養子となった人ですが、その後に
天狗党に身を投じ、斬首された志士だそうです。
色々なところに様々な人の
営みがあったものだと思います。
参道の脇には石鳥居もありました。
江戸時代初期の1653年(承応2年)に
建てられた鳥居で栃木県内では
日光東照宮の鳥居に次ぐ古さだそうです。
日光東照宮の様子はこちらです。
須賀神社は拝殿の手前に門があり、
雷神門から眺める拝殿はいい雰囲気でした。
由緒によると、この須賀神社で徳川家康は
小山評定を開き、戦勝祈願をしたそうです。
小山市役所に評定跡の碑が立っていますが
この評定跡は特定されているのでしょうか。
須賀神社を後に、すぐ北側の
妙建寺に向かいました。
妙建寺は日蓮宗のお寺で1334年
(建武元年)に創建されています。
本堂は1717年(享保2年)に再建されています。
本堂の格天井には百人一首が
描かれているそうです。
山門の周辺には枝垂れ桜が綺麗でした。
この枝垂れ桜がお目当てだったのでしょうか、
10人程のグループ客が訪れていて
賑やかな妙建寺でした。
妙建寺から更に北隣の愛宕神社です。
小さな神社の脇に大きな欅が立っていました。
愛宕神社は1379年(康暦元年)に
小山義政が愛宕神社を勧進したと言われ
この欅はその時に植えられたそうです。
樹齢600年を超える堂々とした欅でした。
愛宕神社の境内の北側の
道の脇に庚申塚がありました。
この道は、佐野へ至る道と栃木に至る道の追分で、
この庚申塚が当時の人々の道案内になっていたそうです。
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小山評定跡
(The Ruin of Oyama Hyoujyou)
愛宕神社の北側の清水坂を行くと
小山市役所に辿り着きました。
この小山市役所が小山評定跡とされています。
1600年(慶長5年)7月24日、謀反の疑いをかけた
上杉景勝征伐の為に豊臣秀頼軍を率いて
会津に向かっていた家康が、小山に到着します。
徳川家康が大阪を不在にした隙を突き、
石田三成が挙兵したという知らせが
家康の下に知らされます。
三成を討つ絶好の機会を得た家康ですが
石田三成との戦いは私闘となるため、
この時家康には、自分の家臣団以外の
軍隊を勝手に動かす権限はありません。
小山に到着した翌日の25日、
家康はこの地に仮の御殿を築き、
諸将を集め評定を行ったそうです。
これが小山評定です。
小山市役所前の駐車場の脇に
小山評定跡の碑が立っていました。
この小山評定では、家康は三成の挙兵を武将らに伝え、
去就はそれぞれの勝手に任せると言いますが、
福島正則が三成との戦いに参戦する事を誓うと
他の武将らもそれに続いたそうです。
この小山評定の結果、石田三成との間で
雌雄を決した関ヶ原の戦いが行われ、
その戦いに勝利した家康は
天下を握る事になります。
関ヶ原古戦場巡りの散策記はこちらです。
評定跡と伝わる小山市役所を
西側から眺めた様子です。
高台状になっている様子がわかります。
この高台状の地形を利用し、後年に
小山御殿が造られたのでしょうか。
小山市役所の前に立ち寄った須賀神社の由緒にも
境内で小山評定が開かれたとの記載があり、
本当の場所はまだ比定されていない様ですが、
この付近だった事は間違いなさそうです。
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小山御殿跡<
(The Ruin of Oyama Pavilion)
小山市役所の北隣に小山御殿跡がありました。
この小山御殿は徳川将軍家の日光参拝の際の
休息・宿泊用として造られたものだそうです。
日光東照宮の様子はこちらです。
門の跡を抜けて周囲より数メートル程
高くなっている所が御殿跡の様です。
御殿跡に建っていた建物は撤去され
史跡としての整備が着手されてました。
小山御殿の造りは厳重で、周囲に堀を巡らせ、
二重土塁で囲まれていたそうです。
現地案内版での当時の想像図です。
この敷地の西側には空堀があり、
馬出のような地形が認められました。
現地案内版では小山御殿は方形館なので
これは小山城(祇園城)の遺構かも知れません。
小山城(祇園城)の登城記はこちらです。
小山御殿跡の西側から眺めてみました。
先ほどの馬出のような地形の様子です。
櫓台だったのかも知れません。
そしてこちらは、小山御殿跡の様子です。
小山市役所にかけての高台の様子がよく判ります。
立派だった小山御殿ですが、幕府の財政難の為
日光参拝は1633年(寛文3年)に家綱が行って以来
100年近くに亘って中断してしまいます。
その間に、大風で御殿の一部が壊された為、
1682年(天和2年)に解体されてしまったそうです。
思川堤防から鷲城の方向を眺めてみました。
小山にはこの鷲城の他にも中久喜城や、
小山氏の菩提寺・天翁院もあり、
またいつの日か再訪してみたいです。
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