言わずと知れた天下分け目の
戦いが行われた関ケ原。
東海道本線の列車や東海道新幹線で名古屋から
西に向かうと広々とした濃尾平野が尽き、
鈴鹿山脈と伊吹山に挟まれた谷を行くようになります。
関ケ原は、この交通の要衝に位置しています。
時は1600年(慶長5年)9月15日(太陽暦では10月21日)、
徳川家康率いる東軍85,000と石田三成率いる
西軍80,000の軍勢がこの狭い山間で対峙し、
深い霧が晴れると関ヶ原の戦いの幕が
切って落とされました。
西軍は、石田三成が布陣した笹尾山から小西行長が
布陣した天満山、そして小早川秀秋の布陣した松尾山、
さらには毛利秀元の陣のあった南宮山と、関ヶ原の
谷間に陣取った東軍をぐるりと囲む鶴翼の陣を組みます。
上の図でピンクが東軍、青が西軍の陣跡を示しています。
青の西軍が東軍を取り囲んでいる様子がわかります。
しかし、西軍は小早川秀秋らの寝返りが続出し、
半日ほどで勝負が決してしまうのでした。
また関ヶ原には古来から不破の関が置かれ、
もう一つの天下分け目の戦い壬申の乱(672年)では
大海人皇子と大友皇子が戦った所でもあります。
この関ヶ原の様子を紹介します。
(East Kubitsuka) July 03, '11 |
(The Last Posi. of Tokugawa Ieyasu) July 04, '11 |
(Okayama Signal-Fire Place) July 07, '11 |
(Monument of The Battlefield) July 10, '11 |
(The Posi. of Ishida Force) July 12, '11 |
(The Posi. of Shimazu Force) July 14, '11 |
(Monument of The Opening of Battle) July 18, '11 |
(The Posi. of Konishi Force) July 21, '11 |
(The Posi. of Ukita Force) July 24, '11 |
(The Posi. of Ohtani Force) July 26, '11 |
(The gravestone of Tokiwa Gozen) Aug. 02, '11 |
(Ruin of Fuwa Barrier) Aug. 04, '11 |
(The Posi. of Fukushima Force) Aug. 05, '11 |
(The Posi. of Todou & Kyogoku Force) Aug. 09, '11 |
(West Kubitsuka & Sekigahara Stage) Aug. 12, '11 |
(The First Posi. of Tokugawa Ieyasu) NEW ! Aug. 15, '11 |
(The First Posi. of Kobayakawa Force) |
(The First Posi. of Mouri Force) |
首塚のある一角に幟が立っていました。
松平忠吉、井伊直政陣跡の碑です。
赤揃えで知られる井伊家の
赤い幟が印象的です。
松平忠吉・井伊直政の軍勢は合わせて6000。
1600年(慶長5年)9月15日の早朝に出た深い霧が、
ようやく晴れた午前8時頃、この両隊が
宇喜多秀家隊に向かって突き進んだ事から
開戦の幕が切って落とされました。
この陣跡碑の脇に、石柵で囲まれた
クスノキが生える塚がありました。
この首塚は、関ヶ原の戦いの直後に
領主の竹中氏が築いたものだそうです。
その近くに二つの碑が立っていました。
これらの碑は昭和に入り、東首塚が
国指定になった時に建てられたそうです。
石柵の前には古い井戸もありました。
この井戸の水で西軍武将の
首を洗ったそうです。
この東首塚の近くには1940年(昭和15年)に
護国院大日堂とその門が
名古屋から移築されました。
関ヶ原の戦いでは、両軍合わせて6,000人とも
8,000人とも伝わる戦死者が出ています。
400年の時を超えて尚、この戦いでの
命を落とした人の霊が彷徨って
いるような気がしました。
関ヶ原の合戦の大パノラマや有名な屏風を眺め
パンフレットを入手した後に、このすぐ西隣にある
徳川家康・最終陣跡に向かいました。
道路を渡ったところにあった御霊神社です。
1980年(昭和55年)に創建された新しい神社です。
この隣にあった貴船神社です。
こちらの創建の由来は判りませんでした。
これらの神社の南側が陣場野公園で、
徳川家康が最後に陣を敷いたところです。
家康が最初に陣を敷いたのは、
ここから2qも東の桃配山でした。
家康は戦いもたけなわの午前11時に
この場所に移り、采配を振るい
戦いの後の首実検も行いました。
ここは石田三成が陣を敷いた
笹尾山から僅か1kmのところにあります。
公園の中ほどに立つ碑です。
幕末の1841年(天保12年)に幕命により
領主・竹中氏が土塁や石垣を築いています。
この床几場には家康の首実検の
様子が案内板に描かれていました。
首実検は勝者と敗者の差が
一番際立つ儀式と思います。
またこの陣場野公園は、開戦時に
田中吉政が陣を敷いたところです。
田中吉政は元々は豊臣方の武将で、
時の岡崎城主です。
決戦当日、朝の深い霧が晴れた後、
関ヶ原で死闘を繰り広げていた兵士達には、
この綺麗な山を見る余裕などは無かった事と思います。
田畑を抜け、国道を渡ると、関ヶ原の
北側の山の麓の集落へと分け入りました。
この集落を抜けたところに、開戦の合図の
烽火が挙げられた烽火台があります。
集落を抜けたところで、道の左側へと続く
竹藪の中へ分け入って行くと、
景色が開け、岡山烽火台に出ました。
青空に白い幟がはためく様がとても印象的です。
幟が風に煽られる度に、竹竿が「ギィギィ」と
物悲しげな音を出していました。
高台にある岡山烽火台からの
眺望は良く開けていました。
写真左は関ヶ原駅方面です。
この左手に、家康が最初に陣を敷いた桃配山があり、
その背後に毛利秀元が布陣した南宮山があります。
写真中央は、家康最終陣跡の辺りです。
中央やや左に小早川秀秋が陣取った
松尾山が見えています。
右の写真は、宇喜多秀家・小西行長が
陣取った天満山です。
石田三成が陣を敷いた笹尾山は
この写真の右手にありました。
岡山烽火台に鎮座している金比羅神社です。
この岡山烽火台には、黒田長政と
竹中重門の軍勢が陣を敷いていました。
黒田長政は、小早川秀秋や毛利家・
家老の吉川広家などを東軍に寝返らせ、
東軍大勝利の布石を打っただけでなく、
戦場に於いては石田三成軍に猛攻を
仕掛けるなど関ヶ原の戦いの勲一等を授かり、
福岡藩52万石の初代藩主になっています。
岡山烽火台から山間を抜け、
再び関ヶ原盆地に戻りました。
国道21号線のバイパスを渡ると、
田圃の中に幟が立っているのを見つけました。
その幟が立っているところに
「関ヶ原決戦の地」の碑がありました。
はためいていた幟は、徳川氏の「三つ葉葵」と
石田三成の「大一大万大吉」の旗指物です。
午前8時に始まった戦いは、西軍の
優勢のまま推移したそうです。
午前11時を回り、それまで静観していた
松尾山の小早川秀秋が東軍に内応し、
西軍主力の大谷隊・宇喜多隊に襲いかかると
西軍は崩れ、最後に残った石田三成の軍勢に
東軍部隊が襲いかかったようです。
この決戦の碑は、家康の最終陣跡から
800m程北にありますが、石田三成が陣を敷いた
笹尾山までは、わずか200m程の距離です。
関ヶ原決戦の地の碑から眺める
石田三成陣地跡の様子です。
この碑の周囲にはのどかな田圃が広がっていました。
決戦の際には、この田畑を、多くの軍勢が
石田三成の陣地を目指して殺到したことでしょう。
こののどかな景色からは、その当時の様子を
思い浮かべる事は出来ませんでした。
ちなみに、石田三成が旗指物に用いた
「大一大万大吉」の意味するところは、
"一人が万民のために、万民は一人のために
尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる"
という事だそうです。
小さいときに秀吉に取り立てられた
石田三成は、それ以降秀吉に仕え、
豊臣政権の樹立に大きな功績を遺しました。
有能な行政官僚だった、石田三成。
結果的に三成は、醜悪な晩年の秀吉の
片棒を担いでしまっていますが、
この旗指物に三成の志が現れているように思います。
笹尾山の石田三成の陣の手前には
左に蒲生郷舎、右に島 左近が布陣していました。
島左近は、三成が知行の半分もの
俸禄を出して召し抱えています。
"治部少(三成)に過ぎたるものが
二つあり、島の左近と佐和山の城"
島左近は、この関ヶ原でも黒田長政や
田中吉政軍相手に勇猛果敢な戦いをし、
東軍兵士達は、その姿に恐れ戦いたそうです。
麓から眺める笹尾山方面の眺めです。
山の中腹には竹矢来という
防御柵が復元されていました。
二重に巡らされた竹矢来の様子です。
頑丈な陣地のように見えますが、
竹や丸太で組んだ竹矢来は、
臨時の囲いだったそうです。
笹尾山の上の石田三成陣跡を目指しました。
比高50m程ですが、ちょっとした
山城攻略気分になります。
山腹の木々の間を上って行くと、
見晴らしのいい丘の上に出ました。
三成が戦況を眺めたと思われる
その場所に展望台がありました。
笹尾山・石田三成陣跡からの眺めです。
正面、遠くに見えるのが南宮山、
その麓の右側の丘が桃配山です。
桃配山は徳川家康が最初に陣を敷いた場所です。
正面の工場の辺りが、井伊直政や松平忠吉らが
布陣した場所で、その手前が家康の最終陣跡です。
石田三成が布陣したこの場所は、
鶴翼の陣を敷いた西軍の最も左に位置し、
大将格の武将のいる場所ではありませんが
戦場となった関ヶ原を一望できる絶好の地にありました。
家康軍の背後の南宮山に布陣しながら
結局参戦しなかった毛利軍や、小早川秀秋の
内応で総崩れとなった西軍を追撃する東軍も
ここからは良く見えた事と思います。
戦いの一部始終を眺めながら、
石田三成はどんな思いでいた事でしょうか。
展望台の背後に立つ石田三成陣跡の碑です。
展望台から陣跡の碑を眺めた様子です。
東軍に攻められ、敗戦を悟り、
伊吹山の麓を彷徨いますが、
陣を去る時にこの光景を眺めた事でしょう。
武運つたなく戦いに敗れた石田三成。
敗戦の後、一週間ほど伊吹山中を彷徨った後、
田中吉政の軍勢に捕えられ、最後は
京都・六条河原で斬首されてしまいます。
"筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり"
石田三成の辞世です。
小池と呼ばれる集落に入ると神明神社があり、
その裏に塚があり、碑が立っていました。
ここが島津義弘が布陣したところです。
石田三成の陣から500m程南、
小西行長や宇喜多秀家が布陣した
所からは目と鼻の先の位置です。
島津軍の総勢は約1500人。
西軍のほぼ中央に布陣しています。
島津義弘陣跡の碑と幟です。
島津義弘は島津本隊の軍を指揮する立場にはなく
この関ヶ原の戦いに臨んだのは、大坂近郊の
島津家の軍勢であったといいます。
島津義弘は、関ヶ原の戦いに先立つ戦で
石田三成の采配と意見が合わず、
関ヶ原の戦いでは軍を動かしませんでした。
島津義弘陣跡の杜を抜け西側に出ると、
小西行長が布陣した北天満山が
すぐ近くに見えていました。
上左写真の左端の山懐が開戦地跡の碑です。
距離にして100m程で、本当に目と鼻の先です。
小西行長は、西軍の主力として戦っており、
この近くでは激戦が繰り広げられていた事と思います。
そんな中、島津軍はよくも沈黙を保って
いられたものだ、と思いました。
開戦地碑に向かう途中、振り返って
眺めた島津義弘の陣跡の杜です。
戦いの最中、軍を動かさなかった島津義弘ですが
西軍が敗れたのを知ると、東軍の真っただ中を
伊勢街道を抜け桑名方面へと退却していきました。
この退却戦は「島津の退き口」として知られています。
この退却戦を生き延び、薩摩に帰った兵は
わずか80だったそうです。
島津義弘陣跡から小西行長陣跡に向かう途中、
伊吹山が綺麗に見えていました。
開戦碑は小西行長陣跡のすぐ近くにありましたが
元々はもう少し南にあったそうです。
関ヶ原の戦いは、松平忠吉・井伊直政の軍勢が
宇喜多秀家隊に向かって突き進み、
家康から先陣を授かっていた福島正則隊が
その動きを察知して、宇喜多隊に猛攻撃を加え
開戦の火ぶたが切って落とされています。
この事から考えると、本来の開戦地は天満山の東、
ここから200m程南だったのではないかと思います。
先ほどの島津義弘の陣跡が
すぐ近くに見えていました。
開戦地はここよりも南であったとしても、
この辺りでは激しい戦いが行われていたのは
間違いなく、本当に、よくも島津軍は戦闘に
巻き込まれずにいたものだと思います。
開戦地碑の東側から遠望した様子です。
背後の山が小西行長隊が
布陣していた北天満山です。
そして、写真右手の杜が
島津義弘の陣跡です。
この幟のところに小西行長陣跡の碑がありました。
小西行長の軍勢は6,000。
田中吉政や筒井定次らの部隊と
交戦したそうです。
この小西行長陣跡にも
竹矢来が復元されていました。
東軍相手に奮戦していた小西行長隊ですが、
小早川秀秋の裏切りにより、右翼の大谷隊、
宇喜多隊が崩れると、小西隊もその影響を受け、
本多隊の襲撃で崩れていったそうです。
小早川秀秋の裏切りが開戦から3時間程経った午前11時頃、
小西行長隊が敗れたのが午後1時頃だったそうです。
小西隊が布陣地の背後にある北天満山です。
小西行長も、軍勢が崩れると伊吹山の山中に逃れますが、
4日後の9月19日に捕えられ、石田三成らと共に
斬首され、その首を晒されることになりました。
敬虔なクリスチャンだった、小西行長は
この時、切腹を拒否したと伝えられています。
ここは宇喜多秀家陣跡に建てられた
天満神社の入り口にあたります。
ここから鬱蒼とした森の中の参道を進みました。
良く晴れたこの日でも、深い森の中は暗く
心細い程でした。
やがて、天満神社の提灯が掲げられており、
その先の山の中腹に拝殿がありました。
入り口の碑から200m程入ったところです。
ここに宇喜多秀家陣跡の碑がありました。
岡山城主・宇喜多秀家は58万石の領土を持ち、
五大老の一人に任ぜられています
この天満山に布陣した宇喜多秀家隊は
17,000程で西軍最強の部隊だったようです。
この宇喜多隊に、井伊直政や福島正則らの
東軍主力が襲い掛かっており、最も激しい
戦闘が繰り広げられていた事と思います。
宇喜多秀家陣跡碑から眺める神社の灯篭です。
鬱蒼とした参道の歩いて来たせいか、
宇喜多秀家の陣跡は、かなり
奥まった位置にあるように思えました。
東軍に寝返った小早川秀秋は、宇喜多隊を襲い、
この攻撃で、宇喜多隊は壊滅し、
秀家は伊吹山中へと落延びます。
宇喜多秀家は、その後も身を隠し続け、
1603年(慶長8年)に家康に身柄を引き渡されますが、
死罪は免れ、八丈島への流刑となります。
宇喜多秀家の正室・お豪は、八丈島に
流された夫に援助を続け、お豪の実家である
加賀前田家も幕末まで宇喜多秀家の
子孫に援助を続けたそうです。
陣地碑から更に急な石段を上った
ところに神社の祠がありました。
若き日の宮本武蔵も関ヶ原の戦いに参戦していますが
武蔵が戦ったのは、この天満山辺りだったそうです。
藤古川は、それまでの関ヶ原の長閑な景色から
想像できない程、切り立った峡谷を流れていました。
古来、藤古川は要害の地になっていたようです。
堰を渡り終え、対岸の崖を上ると
藤川台と呼ばれる台地の上に出ました。
思いがけず、綺麗に舗装された道路が走り、
この脇に梅が綺麗に咲いていました。
この舗装道路を南に走って行くと、
大谷吉継陣跡の案内表示がありました。
カメラを構えていると、家族連れの方が
脇道へと入って行きました。
この脇道の先に大谷吉継陣跡があります。
大谷吉継の陣跡は、この道から
450m程、山に入ったところです。
大谷隊が布陣した所は、
中山道に向いた山の南斜面です。
宇喜多秀家隊から1km近くも西にあり、
しかも、大谷隊は東軍の本隊の方向ではなく
寝返った小早川秀秋隊が布陣した
松尾山の方角を向いています。
大谷吉継陣跡へと向かう道は
険しい山道となりました。
途中で道端に自転車を置き、
山道を登っていきました。
途中で、東海自然歩道との三叉路を通りました。
この三叉路を左に向かうと、大谷吉継陣跡ですが
まず、ここからほど近い、大谷吉継の墓に向かいました。
大谷吉継の墓は、深い森の中にひっそりと佇んでいました。
先ほどの通りの入り口から10分程の所にありました。
辺りはしーんと静まり返っていて、
思わず丁重に手を合わせました。
大谷吉継は、越前・敦賀城主です。
彼自身は東軍の勝利を予想していた様ですが、
石田三成との親交が篤く、西軍に加わったと
伝えられています。
大谷隊は、ハンセン氏病を患い、輿に乗って
采配を振るったと言われています。
藤堂高虎や京極高知隊と戦っていましたが、
寝返った小早川秀家が大谷隊の横を突き、
その後、更に脇坂安治、朽木元綱らが東軍に寝返り
大谷隊に突入した為に、壊滅したそうです。
大谷吉継は、この地で自害し、
その首は地中深く埋められたそうです。
大谷吉継のお墓をお参りした後に、
陣跡へと向かいました。
先ほどの三叉路まで戻り、
そこから南に向かいます。
細い道が続き、心細くなる頃に
大谷吉継陣跡の碑がありました。
この地に布陣した大谷隊は
総勢5,700だったそうです。
大谷吉継陣跡のすぐ先に、
若宮八幡神社が見えていました。
この神社は旧中山道に面しています。
大谷吉継は、内応の疑いのあった
小早川秀秋に備え600人の直属の部隊を配置し、
15,000もの小早川隊を何度となく退けたそうです。
この山間でも、激しい戦いが行われた事と思います。
快適な舗装道路を下っていくと、
カーブしている道の脇に碑が見えてきました。
平塚為広の碑です。
平塚為広は、この時垂井城主で
大谷吉継と親しかったことから
大谷吉継と共に西軍に加わっていました。
藤川台に布陣し、東軍と激しい戦いを
繰り広げていたそうですが、小早川秀秋に
続いて内応した脇坂安治隊に襲われ、
平塚隊は壊滅したそうです。
平塚為広は、自軍の壊滅を見届けると
辞世の句を大谷吉継に送り、
ここで自害しています。
後に、子孫の方がこの碑を立てたそうです。
平塚為広の碑から坂道を下り、
JR東海道本線をくぐると
国道21号線に出ました。
この交差点の右手を見ると
中山道の碑が立っていました。
ここから西に、旧中山道が残されているようです。
関ヶ原古戦場巡りの旅からは離れますが
こちらを辿ってみる事にしました。
この辺りは宿場だったわけではないと思いますが
旧中山道に沿って、集落が続いています。
和宮姫も江戸に向かう途中にこの道を
通ったと思うと感慨もひとしおです。
途中で、大谷吉継墓の案内碑がありました。
この碑から北に向かうと、若宮八幡宮の裏山に
先ほど訪れた大谷吉継の墓があります。
街道沿いの鄙びた集落も、山が迫ると
一旦途切れてしまいました。
山の中腹を、JR東海道本線の
普通列車が通って行きました。
この先で、東海道新幹線の下をくぐります。
(ちなみに、東海道新幹線は、このすぐ左手で
東海道本線の下をくぐります。)
東京と新大阪を結び日本の大動脈と
なっている新幹線が、こんな山間を
走っているのは似つかわしい光景です。
静かな山間に、10分毎ぐらいに
新幹線の走行音が響いていました。
新幹線をくぐると、小さな集落が現れました。
道路に沿って小川が流れ、
古い小屋が趣があります。
この心和む集落の一角、
大きな杉や松のの木立がありました。
この写真は東海道本線の車中から撮ったものです。
名古屋から大阪方面に向かう信仰左手、
東海道新幹線をオーバークロスしてすぐの所です。
この木立の所に小さな五輪の塔がありました。
この五輪の塔が常盤御前の墓と伝わっています。
常盤御前は平安時代末期の人です。
都一の美女と言われ、源義朝の愛妾となり、
今若、乙若、牛若の三児をもうけます。
牛若は後の源義経です。
この下り坂に差し掛かるところに
矢尻の池(井)という史跡がありました。
672年(天武天皇元年)の壬申の乱の際に、
大友皇子軍の兵士が水を求め、
矢尻で掘った井戸と伝えられています。
ここから下り勾配を一気に下ると
藤吉川を渡りました。
日本三大古関の一つ不破の関の
すぐ横を流れ、「関の藤川」とも呼ばれ
枕詞にもなっている川だそうです。
この藤吉川は、関ヶ原の戦いの際も、
東軍と西軍を分ける軍事境界線になっていましたが
壬申の乱の際も、この川を挟んで戦いが行われました。
壬申の乱は、天智天皇の後継者と大友皇子に
天皇の弟・大海人皇子が反乱を起こし、
反乱者の大海人皇子が勝利したという戦いです。
大海人皇子(後の天武天皇)が東側、
大友皇子軍が西側に布陣しています。
この藤吉川の上流には黒血川という支流があります。
写真は旧中山道からJR東海道本線
方面を眺めた辺りの様子です。
この黒血川という名前は、両軍の
兵士の血で黒く染まった事から
その名が付いたそうです。
藤吉川の対岸は急な崖になっており、
公園のように整備されていました。
藤吉川の東側は不破関が置かれていた所です。
この公園は不破関の土塁を復元したもののようです。
土塁の上から振り返って旧中山道を眺めた様子です。
中央左手の杜は不破関西城門があったところです。
近くには大木戸という地名も残されているそうです。
藤吉川の崖を急勾配の坂で上ると、
古い民家に不破関の案内板がありました。
この不破関は、伊勢・鈴鹿関、越前・愛発関と共に
三関の一つに数えられ、762年(天武天皇元年)の
壬申の乱の後に設置されたものです。
元々はこの関の東が"関東"と呼ばれていたようです。
不破関は789年(延暦8年)に廃止になり、
それ以降は関守が置かれていたといいます。
この関跡の東側には旧中山道に沿って集落が
広がっていますが、少し東に行ったところで
不破関関庁跡がありました。
当時は、東山道が通り、その北側に約一町
(約108m)四方の庁舎が設けられていたそうです。
当時は瓦屋根の建物が並んでいた関庁後も
今では、のどかな畑が広がっていました。
この畑の一角に、壬申の乱の際、
大海人皇子が兜を掛けたという
兜石が祀られていました。
そのすぐ近くには沓掛石も残されていました。
この先に、東城門跡の案内標がありました。
この東城跡は、南に天武天皇を祀る
井上神社へ向かう三叉路にありました。
旧中山道からこの碑の角を南に向かっていくと
井上神社の手前に、春日神社がありました。
ここが福島正則隊6,000の陣跡でした。
福島正則は秀吉子飼いの武将ですが
家康方の東軍の主力として戦っています。
後世の私たちから見ると、勝利した家康が
天下を掌握し江戸幕府を開いたという"史実"から、
関ヶ原の戦いは、秀吉亡き後に天下を狙った徳川家康と、
豊臣家存続を図った石田三成との戦いという図式が
すんなりと理解出来ます。
しかし、当時この図式が理解出来なかった
武将も少なからず居たようです。
その筆頭が福島正則だったのではないでしょうか。
樹齢800年と言われる 大杉がありました。
|
現地で主に戦闘に携わった武将達(武断派)と 兵站などを担当した文治派との間で大きな 溝が出来ていたようです。 武断派の旗頭が、この福島正則や加藤清正、 文治派の旗頭が石田三成です。 特に福島正則は、朝鮮出兵の際の 石田三成に対する恨みが深かったようで、 関ヶ原の戦いに先立つこと2年前の 1598年(慶長3年)には石田三成を襲おうと、 一触即発の状況になっていました。 関ヶ原の合戦は、石田三成が上杉征伐に向かった 徳川家康への挙兵を直接のきっかけにしていますが 背後には豊臣恩顧のこれら武将同士の 争いという側面もあったのでした。 この関ヶ原の戦いでも、福島正則は 石田三成憎しの一念から東軍に参画し、 先陣となって西軍に襲いかかっています。 実際には井伊直政隊が、福島隊に先立って 宇喜多隊に鉄砲を撃ちかけた為、 福島正則は激怒して西軍に 突っかかっていったそうです。 |
長閑な集落で、その昔、この周辺で
大きな戦があったとは、思えない程でした。
藤堂高虎と京極高知陣跡は福島正則陣跡から
それ程遠くはないのですが、がどこにあるのか
よく判らず、少し迷ってしまいました。
結局、関ケ原中学校の校庭内に
その陣跡を見つけました。
この近くに、藤堂高虎軍2,500、
京極高知軍3,000が布陣しました。
藤堂高虎は元々は浅井長政の家臣でしたが
浅井長政が織田信長に滅ぼされると、
旧浅井氏家臣の阿閉貞征、磯野員昌
信長の甥の織田信澄に仕えた後、
羽柴秀長(秀吉の弟)の下で頭角を現します。
京極高知は秀吉に仕え、10万石もの
大名に取り立てられていました。
福島正則陣も、この藤堂高虎や
京極高知の陣跡も、平野にあります。
山中に築かれた石田三成、小西行長
宇喜多秀家や
大谷吉継らの陣が防御を固めやすい
山の斜面に築かれていたのとは対照的です。
陣形だけでなく、布陣した場所も
西軍に利があったと思います。
この陣跡では幟の赤色が印象的でした。
赤に四つの枡は京極高知、
赤い丸が3つ連なった旗指物は
藤堂高虎の「三つ餅」です。
藤堂高虎の「三つ餅」の旗指物には
阿閉氏の元を去って浪人中の藤堂高虎が
三河吉田城下の吉田屋で餅を無銭飲食した際、
主人の吉田屋彦兵衛に諭され、故郷に帰る路銀も
持たされたという逸話があるそうです。
身を成し大名となった藤堂高虎は
後に、参勤交代の途中で吉田屋を訪れ、
餅代を返したという話が伝わっているそうです。
ここに関ヶ原の戦いで命を落とした
数千もの戦死者の首級が葬られています。
塚の上には大きな公孫樹の木が育ち、
江戸時代に建てられた十一面観音と
馬頭観音が祠に祀られていました。
数千という戦死者の多さに改めて
戦いの激しさとその重みを感じました。
ここは東首塚と同じように
手を合わせずにはいられませんでした。
西首塚から国道21号線を東に進みました。
この辺りは旧中山道の関ヶ原宿でした。
しかし、旧中山道が拡幅されて国道となり、
車の往来が激しなってしまい、
昔の面影が無くなっているのが、残念でした。
そんな国道21号線の関ヶ原駅近くの道路脇に
脇本陣跡の門が残っていました。
この脇本陣は江戸時代初期の僧・
至道無難禅師の生誕地だそうです。
至道無難禅師の事は知りませんでしたが、
調べてみると臨済宗妙心寺派の僧侶で、
臨済宗の中興の祖と言われる人だそうです。
江戸(今の東京)渋谷にあった東北寺に
お墓があったそうですが、今は墓所は
小石川茗荷谷に移されているそうです。
ここは、関ヶ原の戦いの激戦地となった
場所からは2km近くも離れたところにあります。
この桃配山は、壬申の乱の際、大海人皇子が
この地で、全軍の兵士に山桃を配り、英気を養った
兵士達が力を発揮し大友皇子軍を打ち破ったという
故事にちなんで名付けられたそうです。
桃配山の北側をJR東海道本線が走っていて、
丁度普通列車が通っていきました。
この家康最初の陣の位置は、
西軍の毛利秀元軍や長宗我部盛親らが
陣を敷いた南宮山の北麓にあります。
敵陣からは離れていますが、
これ以上西に近づくと、相手陣に周囲を
ぐるりと囲まれた袋の鼠状態になってしまう為、
この位置に陣を敷いたのでしょうか。
徳川家康の陣跡の麓の案内板には、
家康が大海人皇子の故事に依って
ここに布陣したと書かれていました。
国道21号線から家康の陣跡へと向かう階段です。
笹尾山の石田三成陣跡には
何人も訪れる人がいましたが
ここはひっそりとしていました。
家康はここに陣を敷き、大馬印を掲げ
作戦会議を練ったそうです。
家康の本陣跡には、その際に家康が腰を下ろした石や
テーブルとして使った石と伝わる石がありました。
この家康最初の陣からの眺めです。
上左の写真は、関ヶ原の戦いの激戦地だった
天満山方面を眺めた様子です。
山々の間に遥か遠くに戦場を眺めるような感じで、
家康もなかなか戦況を掴めなかった事でしょう。
家康は、合戦の火ぶたが落とされると
関ヶ原付近に陣を移し、午前11時頃に
最終陣跡へと軍を進めたそうです。
家康陣跡にたなびく、三つ葉葵の旗印。
この旗の下に多くの武将が従い、僅か半日の
戦いで、見事な東軍勝利を挙げたのも
この旗印に重みがあったからでしょう。