鬼怒川温泉
Kinugawa Onsen, Japan
鬼怒川温泉は東京から鉄道で2時間程で来る事が出来、
関東の奥座敷として、賑わった温泉街です。
この鬼怒川温泉の歴史は比較的浅く、
温泉が発見されたのは1691年(元禄4年)の事です。
その後、日光奉行と所有権を巡る争いが生じ、
1751年(宝暦元年)以降は、一般の人の
入浴は制限されていたそうです。
その後、明治時代には、一般の人の入浴が許され、
1919年(大正8年)に下滝駅(現・鬼怒川温泉)まで
鉄道が開業すると、大いに賑わったようです。
その鬼怒川温泉に、2006年12月、
南東北に旅にでた際に立ち寄ってみました。
新宿からの特急「スペーシア鬼怒川号」の乗車記はこちらです。
スペーシア鬼怒川3号」で鬼怒川温泉駅に着き、
広々とした駅前広場に出ると、その片隅に
コミューターバスが停まっていました。
今では多くの人が車で訪れるのでしょう。
旅館が鬼怒川沿いに点在しているのですが、
コミューターバスの本数は少なく
駅に着いてからの足が少々不便なようです。
鬼怒川温泉にはロープウェーがあるというので、
それに乗ってみる事にしました。
僅かばかりの乗客を乗せ、ホテルを巡ったバスを
ロープウェー乗り場の近くで下車します。
運転手さんが丁寧にロープウェー乗り場
までの道のりを教えて下さいました。
鬼怒川ロープウェーは温泉山麓から
丸山山頂まで、2分で結んでいます。
冬のシーズンオフの為か運転間隔が
20分か30分程あり、次の発車まで間があったので、
近くの神社を訪れていました。
どんよりと曇って寒く、生憎の天気です。
ロープウェーの乗客も少なく、
外の景色も枯れた山肌が見えるのみで
寒々とした感じです。
終点の丸山山頂に着く頃には
雪も舞いだしました。
谷底に、鬼怒川温泉の旅館街が見えています。
遠くの山々は、北風に流されていく
雲の隙間から覗く日の光に、
幾重にも折り重なるような山並みが
逆光に浮き上がっていました。
谷間を走る東武の特急・スペーシアも
眺める事が出来ました。
雪の舞う中、山頂で何とすることもなく、
帰りのロープウェーを待つ間に、
近くにある温泉神社に行きました。
赤い鳥居が並ぶ小道の先に
小さな祠がありました。
小さな祠ですが、鬼怒川温泉の
守り神の様な存在なのでしょうか。
八月には盛大なお祭りが行われるそうです。
ロープウェーで麓まで下り、
市営の温泉に入る事にしました。
これも鬼怒川駅から乗ったバスの運転手さんに
教えてもらって、行く事にしたのです。
ロープウェー乗り場から、少し北に歩き、
鬼怒川に架かる吊り橋を渡ります。
比較的しっかりとした吊橋なのですが、
やはり高所恐怖症なので、橋の
真ん中をゆっくり歩きました。
深く切れ込んだ鬼怒川の両脇に
温泉旅館が建ち並んでいました。
吊橋を渡った後、しばらく国道に沿って歩くのですが、
教えられたとおり、すぐに右手の小道に入っていきます。
小道に入ると不意に門を模した柱が立っていて、
説明版もありました。
この小道は、江戸時代の会津西街道だったそうです。
会津西街道は、会津若松から江戸へ抜ける
脇街道として、1643年(寛永20年)に会津藩主となった
保科正之が整備したそうです。
観光地となっている大内宿もこの会津西街道沿いの
宿場町として栄えたところです。
大内宿の様子はこちらです。
現代のルートで言うと、浅草から新藤原までの東武鉄道、
会津高原までの野岩鉄道、そして会津高原から
西会津までの会津鉄道を乗り継ぐルートに当たり、
今日はこのルートで会津若松に向かう予定です。
そして、この会津西街道は戊辰戦争の時には
会津に攻め上る政府軍と会津藩との激戦になったそうです。
この写真にある小原沢周辺でも激戦が行われたそうです。
1868年(慶応4年)の閏4月から8月に掛けての事でした。
思いがけず、この様な発見があるのは嬉しいことですが、
この場所で、多くの人たちが命を落としたと思うと
胸が痛みました。
市営の岩風呂は、すぐ隣の鬼怒川公園内にありました。
のんびり湯に浸かり、露天風呂で冷たい外気に
触れながらの温泉は気分がすっきりしました。
温泉に浸かった後は、鬼怒川温泉発
15:13の列車で会津若松に向かいます。
鬼怒川公園駅に向かう途中、
公園内には、会津西街道の旅籠の建物が
移築・保存されていました。
会津西街道では仲附輸送という
特殊な輸送法で賑わっていて、
この旅籠もその一つだったようです。
鬼怒川温泉でゆっくりした後、
「AIZUマウントエクスプレス」という列車で
会津若松に向かいました。
「AIZUマウントエクスプレス」の乗車記はこちらです。