川崎宿
(Kawasaki Shuku Posting Station)
川崎は江戸時代に川崎宿が置かれていました。
川崎に宿が置かれたのは、1622年(元和9年)で、
東海道の他の宿場よりも遅れて設置されたそうです。
当時の東海道は、町の南部を斜めに横切る
東海道本線の東500m程の所を通っていたようで、
現在の小川町から六郷川にかけての
辺りが当時の川崎宿だったそうです。
JR川崎駅は、駅前広場の中央を
京浜急行の高架橋が横切っています。
どことなく鉄道模型の
レイアウトの様な光景です。
この川崎駅前広場の南側から東に向かう
大通りの小土呂橋交差点の様子です。
今は周囲はビルが建ち並んでいますが
江戸時代には、この辺りに橋があり、
その名が交差点に残っているようです。
かつてここに川が流れていたとは
想像も出来ません。
この交差点を横切る小道が
当時の東海道だったそうです。
旧東海道沿いには雑居ビルが建ち並び
歓楽街になっているようでした。
東海道は六郷川まで続いていますが、
川崎市内の史跡は、六郷川に沿って
川崎大師へと至る道の途中に続いているようです。
この石碑は東海道と川崎大師への
分岐に立てられていたそうです。
「此是弘法大師江之道」と刻まれています。
雑居ビルが建ち並ぶ川崎駅の東側とは対照的に
西側には新しいオフィスビルが建ち並んでいます。
このオフィスビルの前の道路沿いは
桜並木が綺麗でした。
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川崎大師(平間寺)
(Kawasaki-Daishi Temple)
川崎大師は、1128年に建立された真言宗のお寺です。
正式名称は平間寺(へいけんじ)と言います。
創建の謂れは、平間兼乗が海中から弘法大師像を引き上げ、
供養していたところ、諸国遊化していた高野山の尊賢上人が
この仏像の事を知り、平間兼乗と共に平間寺を建てたそうです。
撮影: 2011年9月
川崎大師への参拝客の為、1899年(明治32年)に
京浜急行が大師線を開業させています。
京浜急行大師線の乗車記はこちらです。
この開業によって川崎大師への参拝客が増え、
特に初詣に訪れる参拝客が増えたそうです。
例年、川崎大師への初詣の参拝客数は
全国でもTop 3に入るほどです。
京浜急行川崎大師駅から駅前のアーケードの
道を西に真っすぐ7分程進み、下の写真の
ゲートの先の交差点を右に曲がります。
撮影: 2011年9月
この先で再び右に曲がると、
狭い仲見世の路地に入りました。
撮影: 2011年9月
路地の向こうに川崎大師の大山門の屋根が見えていました。
初詣の際には、この狭い路地は多くの参拝客で
埋め尽くされるのでしょうか。
川崎大師駅から10分程で到着した川崎大師の大山門です。
撮影: 2011年9月
大山門は東に向いていますが、川崎大師の西側にある
川崎大師駅からは、ぐるりと大回りする形になります。
大山門は1977年(昭和52年)に再建されています。
大山門には大きな提灯が吊るされていました。
撮影: 2011年9月
川崎の中心街や沿岸部の工業地帯は1945年
(昭和20年)4月15日に200機のB-29によって
空襲を受け壊滅的な被害が生じたそうです。
大山門から真っすぐ進むと1964年(昭和39年)に
建てられた大本堂がありました。
撮影: 2011年9月
大本堂にはご本尊の弘法大師像や不動明王、
愛染明王像などが安置されているそうです。
大本堂に行く手前左手には経蔵がありました。
経蔵は2004年(平成16年)に建てられました。
撮影: 2011年9月
大本堂からは、半時計方向に
境内を一周してみる事にしました。
大本堂の左手には、稲荷堂を挟んで、
右に中書院、左に不動堂がありました。
撮影: 2011年9月
中書院には庭園と2つの茶室があるそうです。
1966年(昭和41年)に落成しています。
不動堂は1964年(昭和39年)に落成しています。
ご本尊の不動明王尊像は、成田山新勝寺から
分躰したものだそうです。
不動堂の左側には奥に通路が伸び、
その先に西解脱門がありました。
撮影: 2011年9月
川崎大師に来ていた時は気が付いていませんでしたが、
この西解脱門は川崎大師駅にほど近く、大山門までは
ぐるりと10分程掛かりましたが、ここからなら
川崎大師駅へは4分程で行く事が出来ます。
西解脱門から境内へと戻り、西に向かいます。
不動堂を過ぎると、左手に大本坊があります。
撮影: 2011年9月
この大本坊は1928年(昭和3年)に建立され、
1945年(昭和20年)の空襲で大きな被害を
受けたものの、改修したものです。
大本堂の先には、八角五重塔がありました。
撮影: 2011年9月
1984年(昭和59年)に落慶しています。
川崎大師の伽藍は全て第二次大戦後に
再建あるいは新規に建てられたものです。
当時の建築様式とは異なり、鉄筋コンクリートで
建てられた建物も多いようですが、戦前は木造の
大きな伽藍が並んでいた筈で、それが一夜の
空襲で灰塵に帰してしまったのは残念です。
八角五重塔から更に西に向かうと不動門がありました。
1948年(昭和23年)に建立されました。
撮影: 2011年9月
元々は、今の大山門の位置に建てられましたが、
1977年(昭和52年)に現在地に移されています。
撮影: 2011年9月
戦後に建てられた門ですが、木造の門の
柱や梁には多くのお札が貼られ、
年月を感じさせてくれました。
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武蔵小杉界隈
(Musashi Kosugi Area)
渋谷から東急東横線で横浜に向かうと
途中で多摩川を渡り、神奈川県に入ります。
多摩川を渡った最初の駅・新丸子駅の
北側を東西に走る街道があります。
この街道が中原街道で、
江戸と平塚を結んでいました。
今も狭い街道の脇に商店が並んでいます。
江戸時代初期、東海道が整備される以前には
この中原街道が江戸への物資の輸送に
大きな役割を果たしていたそうです。
この中原街道に、醤油造り跡の蔵が残っていました。
「キッコーマン文山」という商標だった
石橋醤油店の跡の様です。
この東には名主の安藤家の
長屋門が残っているそうです。
またの機会に訪れようと思います。
西に向かうと、中原街道が
クランク状に折れ曲がっています。
この折れ曲がりは、街道の防御性を
高めるために設けられたといいます。
先日('11年8月)に、ここを通りかかった際、
このクランク状の通りの一部の家が取り壊され、
斜めにショートカット出来るように
空き地が続いていました。
高度成長期も壊されずに残っていた歴史の証人が
今の時代に消えていくのはとても残念です。
ちなみに、このすぐ近くに小杉陣屋がありました。
小杉陣屋の様子はこちらです。
このクランク状の道を真っ直ぐ西に
向かうと西明寺の参道へと続きます。
参道には小杉御殿跡の碑がありました。
小杉御殿は徳川将軍家が中原街道の往来や
この周辺への鷹狩を行う際の宿泊施設として
1608年(慶長13年)に築いたものです。
現地の絵図では、小杉御殿はこの参道の
北側に建てられていたようです。
敷地は約4万平米にも及んでいたそうです。
家康もこの小杉御殿に滞在した事があるようですが
1660年(万治3年)には廃止されたそうです。
東海道が整備され、この中原街道を
行き来する事が無くなった為でしょうか。
現在、この御殿跡は古い住宅街になっていて
町名にその名を残しています。
住宅街の中に御殿の中心だった御主殿の
跡があり、小さな社が建っていました。
参道を進んでいくと西明寺の
山門や本堂がありました。
この西明寺は、空海が唐から戻った後に
この地に逗留し、寺院の建立を命じたそうです。
その後、鎌倉幕府の第五代執権・
北条時頼も篤く信仰したそうです。
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