山口
Yamaguchi, Yamaguchi








山口は山口県の県庁所在市の都市です。


南北朝時代に大内氏が、この地に館を構えた事から
山口は発展し、京都を模した町並みが造られました。

幕末には長州藩も藩庁を
萩からこの山口に移しています。

萩の散策記はこちらです。

市内には大内氏や幕末の長州藩
所縁の史跡が多く残っています。




歴史の古い山口ですが、東西を結ぶ
主要な街道からは外れた位置にあり、
県庁所在地とはいえ、静かな佇まいの街です。

この山口を2009年のGWに散策してきました。
その時の様子を中心に紹介します。





山口サビエル記念聖堂他
(Yamaguchi Xavier Memorial Church)
Feb. 03, '12


山口県政資料館 (山口政事堂跡)
(Former Prefecture Office Building)
Feb. 05, '12

山口政事堂跡の様子はこちらです


洞春寺
(Toushu-Ji Temple)
Feb. 09, '12


瑠璃光寺
(Ruriko-Ji Temple)
Feb. 11, '12


八坂神社 (築山館跡)
(Yasaka Shrin)
Feb. 14, '12


龍福寺 (大内氏館跡)
(Ryufuku-Ji Temple)
NEW ! Feb. 17, '12





中国地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る







山口サビエル記念聖堂他
(Yamaguchi Xavier Memorial Church)



山口駅前でレンタサイクルを借りて、
まず向かったのは山口サビエル記念聖堂です。




駅前の道を西北に進むと
山口市役所前の大通りに出ました。



この角を左に向かい、小高い亀山を目指します。
亀山は戦国末期の頃、毛利秀元が、
築城しかかった長山城の跡だそうです。

亀山の麓にあったマリア像です。



サビエル記念聖堂は一段高いところにありました。

このサビエル記念聖堂は、フランシスコ・ザビエルの
来山口400年を記念し、1952年(昭和27年)に建てられました。
1991年(平成3年)に焼失したため、この建物は
1998年(平成10年)に再建された2代目です。



フランシスコ・ザビエルは日本に初めて
キリスト教を伝えたスペインの宣教師です。
初めて日本に来たのは1549年(天文18年)です。

山口での布教活動は来日2年後の1551年(天文18年)に
大内義隆に布教を許可されてからの事だったそうです。

記念聖堂の中に入ってみると広く明るい教会でしたが
厳かな雰囲気が漂っていました。


サビエル記念聖堂の近くには、1552年(天文21年)に
大内義長が与えた裁許状の複製の石碑がありました。



ザビエルが山口で布教活動を始めた後に
一旦、大友宗麟の誘いで豊後を訪れます。

その間に大内義隆が陶隆房に斃されるという
大寧寺の乱が起き、山口に戻ったザビエルは
大友氏から入った大内義長に改めて
布教の許可を得たようです。

ザビエルが豊後に向かう際に通った
日出の様子は
こちらです。


井戸端で説教するザビエルの像です。



ザビエルの山口での布教は、初めの頃は
なかなか上手くいかなかったそうです。

そんな時、ザビエルと共に布教活動を行っていた
修道士が唾を吐きかけられる事件が起きました。

その時、何事も無かったように吐きかけられた唾を
冷静に、手ぬぐいで拭うその修道士の姿に、
心打たれた人がいたという逸話が残されているそうです。


サビエル記念聖堂前の階段を上り、
亀山の山頂にある公園を目指しました。

途中にあった国木田独歩の歌碑です。



「山林に自由存す」という題の歌が刻まれているようです。

階段を上りきった亀山公園の様子です。



亀山の山頂部分に広い平坦な土地が広がっていました。
ここは長山城の本丸になる予定だったのでしょうか。

その一角に騎乗の毛利敬親公の銅像がありました。
毛利敬親公は長州藩第13代藩主です。



彼が藩主になった時、長州藩は幕末に窮乏の極みにあり、
その状態から長州藩を再興し、さらには薩摩藩と共に
討幕の原動力となるまでにした人物です。

この毛利敬親公の綽名は「そうせい公」です。
長州藩を佐幕派が占めていた時も、
討幕派が占めていた時も、いつも家臣のいう事を
「そうせい」と認めていた為についたそうです。

毛利敬親公は、愚公であったのか
賢公であったのか、色々議論があるようです。

家柄に依らず能力のある若い才能を抜擢して
彼らの能力を最大限引き出した事を思うと、
間違いなく賢公であったと思います。


小高い亀山からは山口の市内を眺める事が出来ました。



上の写真左は亀山のほぼ北方向、
大友義弘を弔った瑠璃光寺方面の眺めです。

右の写真は亀山の東方向、大内義弘の館跡に建つ
龍福寺方向を眺めたようすです。



山口のページのTOPに戻る






山口県政資料館

(山口政事堂跡)

(Former Prefecture Office Building)



サビエル記念聖堂のある亀山から北に向かい、
山口の北側を取り囲む一露山の麓の
山口県庁を目指しました。

山口県庁に向かう途中、国道9号線を
越えたところにある山口大神宮の鳥居です。



ここは立ち寄らなかったのですが、後で調べてみると
1520年(永正17年)に大内義興が伊勢神宮を勧請した
由緒ある神社ということでした。


この山口大神宮の右手に広々と敷地が
広がり、山口県庁のビルが見えてきました。



この山口県庁は、幕末の1864年(元治元年)に長州藩が
萩から藩庁を移した山口城(山口政事堂)の跡地です。

山口城の様子はこちらです。





この山口県庁の敷地には大正時代に建てられた
瀟洒な煉瓦造りの旧山口県庁舎が残されていました。



この旧県庁舎は1916年(大正5年)に建てられました。
左右対称の均整のとれた建物です。
柱の一つ一つにも飾り付けがなされています。

立派な車寄せもあり、緩やかなスロープが
格式の高さを示しているように感じます。



今も県政資料館として使われている
館内に入ると、その歴史を感じました。

この旧県庁舎の隣には同じく1916年(大正5年)に
建てられた山口県旧県会議事堂もありました。



こちらの建物も左右対称の均整のとれた建物でした。


この旧山口県庁舎と山口県旧県会議事堂は
どちらも国の重要文化財に指定されています。



山口のページのTOPに戻る






洞春寺
(Toushu-Ji Temple)



山口県庁から更に北をめざし、小高い
香山の麓にある洞春寺に向かいました。




洞春寺は毛利元就公の菩提寺です。
毛利元就は安芸の小さな国人だった毛利氏を
中国地方全体を治めるまでに興隆させ、
戦国最高の知将とも呼ばれています。

毛利元就は1571年(元亀2年)に、吉田郡山城にて
75歳の生涯を閉じ、お墓も吉田郡山城近くにありますが、
関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長二国に移封されると
お墓は萩に移され、藩庁が山口に移されると、
この洞春寺に移されたそうです。


国の重要文化財に指定されている洞春寺の山門です。



洞春寺の敷地は、元々は大内盛見が
1400年頃に創建した国清寺があったそうで、
この山門は、その遺構と言われているそうです。

四脚門という形式の門との事ですが、
格式高いこの形式の門は数少ないそうです。

参道を歩き、本堂へと向かいました。



立派な本堂と、その右手にある鐘楼門です。



いずれも江戸時代に建てられたものだそうです。
本堂の左手には重要文化財の観音堂がありました。
左右の花頭窓が印象的です。



この観音堂は元々は800m程離れた山口市上宇野令に
あった滝の観音寺にあったお堂だそうです。

滝の観音寺は1430年(永享2年)に
大内持盛が開基したものです。

この観音堂も国の重要文化財に
指定されているそうです。


洞春寺の散策を終え、北隣の香山公園に向かいました。
ここには、毛利家墓所や幕末所縁の史跡が残っています。

まず向かったのは枕流亭です。



枕流亭は古びた民家の様な建物ですが、
この建物は長州藩士の安倍家の離れです。

幕末の1867年(慶応3年)には薩摩の西郷隆盛、
大久保利通、小松帯刀らが訪れ、木戸孝充や
広沢真臣、伊藤博文らと討幕の密議を重ねたそうです。



建物の中には、討幕関連の資料が展示されていました。

この枕流亭は元々は、京の鴨川に例えられる
一の坂川の畔に建っていた為、その名が付いたそうです。
風流な丸窓からは、当時は川の流れが見えた事でしょう。


この枕流亭の南側には、ひっそりと茶室がありました。
この茶室は1863年(文久3年)に藩庁を萩から
山口に移した際、一露山麓に設けたもので、
露山堂と名付けられました。



明治維新後は、移築され傷んでいたのを
品川弥二郎が1891年(明治24年)に
現在地に移したそうです。



日本庭園も造られています。

山口城の様子はこちらです。


この近くには「勅撰銅碑」と
名付けられた立派な碑が立っていました。



この碑は明治天皇の命により毛利敬親公の
業績を称える為に建てられたそうです。


この先に毛利家墓所があります。
墓所に向かう途中、「うぐいす張りの石畳」がありました。



丁度、この辺りで手を叩くと、綺麗な音が返ってくると
案内板にあり、試してみたのですが、
それらしい音を聞くことは出来ませんでした。

前方の階段を上ると毛利家墓所です。



長州藩が藩庁を萩から山口に移した後の
墓所と定めたところです。

山口政事堂が築かれたのが幕末の
1864年(元治元年)の事で、ここに葬られているのは
13代藩主・毛利敬親公と、14代藩主・元徳公、
そしてその長男・元昭氏の三代の夫婦です。

上右の写真は毛利敬親公のお墓です。

立派な墓所ですが、他に人もおらず
ひっそりとしていました。



山口のページのTOPに戻る






瑠璃光寺
(Ruriko-Ji Temple)



毛利家墓所の北には瑠璃光寺があります。
瑠璃光寺は大内氏の筆頭家老・陶弘房の菩提寺です。

元々は、津和野に近い仁保にあったそうです。




現在の瑠璃光寺の場所には大内義弘の菩提寺・
香積寺がありましたが香積寺が萩に移った為に、
瑠璃光寺が仁保からこの地に移ったそうです。


よく整備された瑠璃光寺の山門前に出ると
正面に国宝の五重塔が見えてきました。



この五重塔は後ほど訪れる事として
まずは、左手にある瑠璃光寺の境内に向かいました。

山門の前には大内弘世公の騎馬像がありました。



大内弘世は南北朝時代の武将で、
大内義弘の父で、防長二国の守護となり
大内氏繁栄の基礎を築いた人です。

こうして山口の史跡巡りをしていると
600年以上も昔の大内氏所縁の足跡が
市内のあちらこちらに残されている事がわかります。

その騎馬像の先にある瑠璃光寺の山門です。



瑠璃光寺には回廊があり、
その途中には鐘楼もありました。

石段を上ったところに本堂があります。



瑠璃光寺は1690年(元禄3年)に
現在の地に移されたそうです。

この本堂も、その時のものでしょうか。
本尊は、薬師如来だそうです。

珍しく仏足石がありました。



この仏足石は奈良・薬師寺の
ものを写したものだそうです。

山門から一段高い本堂前からの眺めです。

山門との間に方丈池があり、
その畔に石造りの五重塔がありました。



五月の明るい光を浴びて
方丈池は輝いているようでした。

それとは対照的に、ひんやりとして
暗い回廊がその周囲を巡っていました。


瑠璃光寺の境内を訪れた後に
五重塔に向かいました。

この五重塔は瑠璃光寺の前身、香積寺時代の
1442年(嘉吉2年)に建立されたものです。



新緑の緑に五重塔が照らされているようです。
家の畔に建つその姿は奈良の興福寺の
五重塔を彷彿とさせるような綺麗な姿でした。



山口のページのTOPに戻る






八坂神社 (築山館跡)
(Yasaka Shrin)



瑠璃光寺を訪れた後は、大内氏の
居館のあった龍福寺を目指しました。



一の坂川を渡ります。

市内には、趣のある米屋さんもありました。



龍福寺に向かう前に、途中にある
築山跡に立ち寄ってみました。




築山跡は、大内氏28代の教弘の
住まいだった築山館の跡で、現在では、
築山神社や八坂神社の境内になっています。



神社の境内の前の広場の様なところも
築山館跡のようです。

築山神社の隣には八坂神社もありました。
八坂神社は600年ほど前に大内弘世が
京都から勧請したものだそうです。



1519年(永正16年)に高峰山麓に移され、
江戸時代末期に現在地に移されたそうですが、
本殿は、1519年(永正16年)に建立されたもので
国の重要文化財にしていされています。

八坂神社の一画には、盃状穴と呼ばれる
穴がいくつも空いた岩がありました。



この、岩に幾つも空いた穴は、性のシンボルで、
死者を甦らせたり、豊作を祈願する刻印と
されてきたそうです。
八坂神社の境内には、石垣もありました。



江戸時代末期に八坂神社が
この地に移された際のものでしょうか。


八坂神社を出ると由緒ありそうな
建物が目につきました。



1886年(明治19年)に建てられた野村酒屋跡です。
敷地面積が3,600平米もあるそうです。

この野村酒屋跡の前の道です。



何気ない住宅街の道ですが、
この道は萩から山口を通り、
防府に向かう萩往還です。

大内氏が栄えていた時代から
この街道の周りは栄えていたそうです。


そして、山口駅に戻る途中に渡った
一の坂川の様子です。



小さな流れですが、流れは澄み、
黄色い綺麗な花も咲いていて、
風情ある川でした。



山口のページのTOPに戻る


"日本全国お城巡りの旅"に戻る


中国地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る