日出
Hiji, Japan








日出は、大分県の別府湾の北側に位置する町です。

関ケ原の戦いの後の1601年(慶長6年)に
木下延俊が日出城を築き町並みが作られました。




それに先立つ1551年には山口に居た
フランシスコ・ザビエルが大友宗麟の招きに応じ
大分に向かう際、国東半島を西鹿鳴越して
日出の海岸に辿り着いたそうです。

また日出城からの別府湾の眺めは
「城下海岸」と呼ばれ眺望絶佳として
知られているそうです。


日出の町には、武家屋敷や藩主だった
木下家関連の史跡が残っています。



この日出に2008年12月に訪れました。
その時の様子を紹介します。





致道館から城下海岸へ



JR日豊本線の電車を暘谷駅で下車し、
日出城に向かう途中で、致道館を見つけました。

日出城の登城記はこちらです。

致道館は幕末の1858年(安政5年)に、
時の藩主・木下俊程の命によって
創立された日出藩の藩校です。



致道館は、元々は日出城の東側の
日出中学校の位置にあったのですが、
1951年(昭和26年)に現在地に移転しています。

堂々とした門がありましたが、致道館の建物は、
一見、古い民家のような建物でした。

致道館の内部には帆足萬里の像がありました。



帆足萬里
(ほあしばんり) は、1778年(安永7年)生まれの
日出藩の藩士で、致道館が創られる前の藩校、
「稽古堂」の教授を長らく務めた人です。
「稽古堂」の教授を務める傍ら、
自費で私学校を創立したそうです。

帆足萬里はその後家老となり、
日出藩の財政を立て直しています。

帆足萬里は清廉潔白な人だったようで、
日出の人々に慕われているようです。
町中には彼にまつわる史跡がいくつもありました。

致道館から眺める別府湾の様子です。



12月の冬の海ですが、穏やかに晴れ
暖かな日差しに海も輝いていました。

致道館の方は親切に色々案内して頂き
おまけに、ミカンまで頂いてしまいました。


致道館から石垣に沿って坂道を下っていくと
別府湾が見えてきました。



別府湾の様子です。
冬の日差しを浴び、明るく輝いていました。

別府の街から対岸の高崎山にかけて
一望できる素晴らしい光景です。



この日出城からの別府湾の眺めは
「城下海岸」と呼ばれ眺望絶佳として
知られているそうです。

この近くの海中で、真水が湧く一帯があり
ここに生息しているマコガレイは
「城下かれい」という名で知られているそうです。


この海岸を背にした高台に日出城址がありました。

日出城の登城記はこちらです。





日出武家屋敷



日出城の散策を終え、日出の町中に残る
武家屋敷の散策を始めました。

その前に、日出城址北側にある
観光案内所で資料を入手しました。

色々お話を伺い、この時にフランシスコ・ザビエルが
大友宗麟の招きで大分に向かった際に、
日出を訪れたという話を聞きました。


情報入手し、日出の町の散策です。
まずは、日出城北側の二の丸に残る
いくつかの武家屋敷を見て回りました。



武家屋敷は建物は残っていないようですが
土塀や屋敷門は残っているようです。

日出城址北側の道を東に向かって歩きました。
日出藩評定所だった屋敷の門構えです。



この先で、道は日出中学校の敷地内に入って
しまうのですが、そこに大サザンカがありました。



このサザンカの樹齢は400年以上だそうです。
日出城の初代城主・木下延俊が
築城に取り掛かったのが1601年(慶長6年)。

この大サザンカはその頃から
この地に生えていたそうです。


この大サザンカを過ぎると道路は
クランク状に曲がって行きます。



この辺りは二の丸と三の丸の境にあたり
当時は中門という城門があったようです。
道路のクランクは枡形の跡でしょうか。

このクランクを曲がり、少し歩くと古びた塀が続き、
細い道一つ隔てて幼稚園がありました。



古い塀のお屋敷が、帆足萬里の生家跡、
そして幼稚園が滝廉太郎の滝家住居跡です。

滝廉太郎の祖父・平之進はこの地で生まれ、
帆足萬里と共に幕末期に家老を務めています。


この向かいには的山荘がありました。
この的山荘は隣町の杵築で巨万の
富を築いた成清博愛の別荘でした。



3,670坪の敷地に約300坪の邸宅。
1915年(大正4年)に完成した的山荘の工事費は
今の金額で7億円近くにも及んだそうです。



一時は城下かれいを供する料亭として
全国的に知られていたそうですが、
1991年(平成3年)に日出町の
有形文化財に指定されているそうです。


的山荘からさらに東に向かうと
道が下り坂になり、日出港が見えてきました。



小さな日出の町もここで尽きたようです。

この後、杵築に向かう電車の
時間がそろそろ迫って来たので、
ここで折り返して、観光案内所で勧められた
松屋寺を目指すことにしました。




松屋寺と木下家墓所



日出港をわずかに眺め、来た道を戻り、
日出城を過ぎてまっすぐ行くと、突き当りに
旧木下家居所がありました。



ここは現在では宗教団体の教会になっています。
このすぐ左手が致道館です。

ここを右に折れ、JR日豊本線の暘谷駅を過ぎ
国道10号線で左に折れると、松屋寺の入り口です。



松屋寺は720年頃の養老年間に創建された古刹で、
江戸時代には日出藩主の木下氏の菩提寺でした。

山門をくぐり、方生池を眺めながら参道を歩くと
本堂とその前に生えている大蘇鉄が見えてきました。

樹齢は600年とも言われ、大きさは日本一だそうです。



この大蘇鉄は、大友宗麟が南国より取り寄せ、
大分古国府にて育てていたものを
1597年(慶長2年)に府内城の築城記念に
同城内に移植してあったものを、1657年(明暦3年)
時の府内城主日根野吉明公が歿した際、
府内城の留守を預かっていた日出城主・木下俊治公が
松屋寺に持ち帰ってしまったそうです。

本堂の脇には雪舟が作った庭がありました。



1470年(文明2年)、明より帰国した雪舟が
大分の万寿寺の桂庵玄樹を訪れた際
この庭を造ったそうです。

池は"心"の字を表しているそうですが、
それは読み取れませんでした。


この松屋寺には木下家のお墓所があります。
木下家墓所に向かう途中、古いお墓が柔らかな
冬の日差しを浴びているのを見かけました。



木下家墓所は1630年頃に創設されたと言われ
当初は、初代日出藩主・木下延俊公の祖母で
秀吉の正室・北の政所の母・朝日の方と
延俊公の正室、そして延俊公の両親の
4人のお墓を祀っていたそうです。

その後、13代と16代を除いた木下家
藩主代々のお墓が祀られています。



上の写真左の一番左は、延俊公父の家定公のお墓、
そして写真右の右側のお墓は、延俊公のお墓です。

藩主は江戸に詰めていた時に亡くなったことも
幾度とあったそうですが、そういう場合でも
遺骸を日出まで運んで葬ったそうです。

初代日出藩主・木下延俊公の祖母
朝日の方のお墓です。



北の政所の母でもあった朝日の方のお墓が
この日出にあるとは思いませんでした。

この木下家墓所の近くには
帆足萬里のお墓もありました。



お墓は柵の中に囲まれていました。

豊後三賢と称えられた帆足萬里にあやかり
学業向上を願う人によって
墓碑が削られた為でしょうか。

帆足萬里のお墓は、時の藩主・
木下俊方の命で建立され、
日出城に向いて立てられています。



お墓からのある高台からは別府湾の、
のどかで綺麗な眺めが一望出来ました。


日出での散策は、とても素晴らしいひと時でした。



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