津和野
Tsuwano, Shimane

津和野は、津和野藩亀井氏の城下町です。
山間の津和野は、小京都として知られ、
山口県の萩と共に人気のある町です。

萩の散策記はこちらです。

津和野を通る山口線には、1979年(昭和54年)から
「SLやまぐち号」が運行され、それも津和野の
人気を高めている事と思います。

山口線の乗車記はこちらです。

津和野は、津和野川の作る細長い盆地に集落が発達しています。

谷の西側の山の上には津和野城があります。
津和野城からは津和野の町が一望出来ます。

この津和野城からの眺めは、さだまさしさんの
「案山子」という曲で、次の様に謡われています。
城跡から見下せば 蒼く細い河
橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突

萩には何度か訪れた事があったのですが、
この津和野を訪れる機会はなく、2011年
7月が初めての事でした。

その際の様子を紹介します。

殿町通り
("Tonomachi" Avenue)
Dec. 10, '20

森鴎外・西周旧居
(Residences of MORI Ogai and NISHI Amane)
Dec. 11, '20

津和野城
(Ruins of Tsuwano Castle)
NEW! Dec. 18, '20

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殿町通り
("Tonomachi" Avenue)

津和野の集落の北端に位置する津和野駅から
殿町通りという通りが南に伸びています。

当時はこの通りに沿って家老の屋敷や藩校などが
建ち並び、今も当時の面影が残っています。

殿町通りの南端は津和野川に行きつきます。
その南端に近い所に、津和野藩家老だった
多胡家表門がありました。


撮影: 2011年7月

多胡氏は津和野藩の筆頭家老を務めた
家柄で、この門は幕末の安政年間
(1854〜1860) に建てられました。

通りを隔てた反対側には、津和野藩の
藩校だった養老館がありました。


撮影: 2011年7月

養老館は八代藩主・亀井矩賢 (1766〜1821)
1786年(天明6年)に創設しています。
その後、大火で焼失し、1853年(嘉永6年)に
現在地に再建されています。

養老館の前の殿町通りの道端には疎水が流れ、
そこには、何匹もの鯉が泳いでいました。


撮影: 2011年7月

陽が最も長い頃、夕暮れが迫る殿町通には
観光客の姿はなく、ひっそりしています。
そんな佇まいの中、泳ぐ鯉の姿を眺めるのは
心淋しくもあり、豊かな時間を感じる
ひと時でもありました。

養老館から白壁が続き、その先に
重厚な門が建っていました。


撮影: 2011年7月

その門の所に、人力車の人が物思いに
耽った様子で佇んでいました。
とても絵になる光景でした。

その向かいには大岡家老門がありました。


撮影: 2011年7月

多胡家と同じく、大岡家も津和野藩の
家老職を務めた家柄で、門の大きさも
多胡家の門とほぼ同じ大きさでした。


撮影: 2011年7月

大岡家の遺構は残っていませんが、
門を抜けると津和野役場がありました。


撮影: 2011年7月

大正時代に建てられた役場の建物は
どことなく江戸時代の陣屋跡の様に見えます。

この先に、カトリック津和野教会があります。


撮影: 2011年7月

町年寄を務めた堀氏邸跡に1931年(昭和6年)に
建てられたゴシック風建築の教会です。


撮影: 2011年7月

教会の中に入ってみると、質素な造りでした。
ステンドグラスの灯りが綺麗でした。

カトリック津和野教会の先に四つ角があります。
殿町はこの四つ角までで、当時はこの四つ角に
大木戸があり、その先は町人の居住地でした。
通りの名前も、この先は本町通と変わります。


撮影: 2011年7月

殿町に近い辺りは大きな商店が並んでいたようで、
四つ角の左奥に、旧河田家具店があります。

明治中期の建築で、明治から大正にかけて
質屋や家具屋を営んでいたようです。

四つ角の右奥には財間家住宅がありました。
明治中期の建築で、酒屋を営んでいたそうです。

四つ角を左に折れた山根丁通りの様子です。
ここも趣のある通りでした。


撮影: 2011年7月

通りの右側は、旧河田家具店で、
左側は田中家店舗兼住宅です。
田中邸も明治中期の建物です。

津和野の殿町や本町通界隈は、2013年(平成25年)に
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

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森鴎外・西周旧居
(Residences of MORI Ogai and NISHI Amane)

津和野の中心部に近い殿町の
南端は、津和野川に面しています。


撮影: 2011年7月

津和野川を渡ると、郊外の景色となりました。
道沿いに白壁の蔵や立派な門で囲われた
古い屋敷が現れました。


撮影: 2011年7月

江戸時代の筆頭庄屋の屋敷を
復元した杜塾美術館です。

この先で山口線のガードをくぐると、
集落の西側の霊亀山が見えてきました。


撮影: 2011年7月

この山の上に、津和野城址があります。

津和野城の登城記はこちらです。

杜塾美術館から10分ちょっと歩くと、
森鴎外
(1862-1922) の生家跡がありました。


撮影: 2011年7月

森鴎外は、明治に活躍した文豪で、
津和野藩の典医の嫡男として生まれています。

幼い頃から勉学に優れ、9歳で藩校の
養老館で四書五経を読んだそうです。
鴎外は、この家で10歳まで過ごし、
その後父と共に上京しています。


撮影: 2011年7月

この建物は1854年(嘉永6年)の大火の後に建てられ、
一旦、移築されましたが、1954年(昭和29年)に
津和野町に寄付され、現在地に戻されています。


撮影: 2011年7月

書斎には森鴎外と鴎外の父母の写真が飾られていました。

森鴎外の生家から、西に向かい津和野川を渡ります。
傾きかけた陽が、津和野城址に掛かりそうです。


撮影: 2011年7月

森鴎外の生家跡から津和野川の対岸に、
西周
(1829-1897) の生家がありました。

西周は、幕末から明治にかけての啓蒙家です。
西の家も津和野藩の御典医の家柄で、
森鴎外は従甥にあたるそうです。


撮影: 2011年7月

西周は子供の頃、蔵に籠って勉強していた
という逸話が残っているそうです。


撮影: 2011年7月

哲学、芸術、科学、技術、心理学、意識など
数多くの訳語は西周が考案したそうです。

再び津和野川を渡り、津和野川の右岸を
殿町通りに向かって歩きました。