石見銀山
Iwami-Ginzan, Shimane

石見銀山で銀が産出されたのは鎌倉時代の事だったようです。
その後、採掘が中断されていましたが、16世紀の半ばにこの地を
支配していた大内氏が採掘を再開し、その後は大内氏、尼子氏
そして毛利氏の間で石見銀山の所有を争っていました。

石見銀山の採掘量は戦国時代後期から江戸時代前期に
かけて最も多くなり、当時は日本最大の銀山でした。

この時期、日本の銀の産出量は世界の1/3を
占めていたそうですが、この石見銀山が
その主となる鉱山だったようです。

江戸時代に入ると、石見銀山は天領として管理され、
石見銀山の入り口の大森地区に奉行所が置かれていました。

その後、明治に入ると銀が産出されなくなり、
銅の産出を試みますが、それも上手くいかず、
1943年(昭和18年)に完全に閉山されています。

石見銀山には"間歩"と呼ばれる坑道が数多く残り、
その歴史的価値や、自然と調和した鉱山として
評価され、2007年に世界遺産に指定されました。

この石見銀山には2011年7月に訪れています。

代官所周辺
(Magistrate’s Office Area)
Aug. 29, '20

武家・町屋エリア
(Townscape Area)
Sep. 03, '20

銀山エリア
(Silver Mine Area)
Sep. 12, '20

山吹城
(Ruins of Yamabuki Castle)
Sep. 24, '20

龍源寺間歩
(Ryugenji-Mabu Mining Gallery)
NEW! Oct. 11, '20

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代官所周辺
(Magistrate’s Office Area)

大田市駅から25分程バスに乗ると、大森代官所跡に着きます。
石見銀山の入り口にあたる宮ノ前地区には、
江戸時代に代官所が置かれていました。

山陰本線の乗車記はこちらです。


撮影: 2011年7月

バス停近くのお土産物屋さんのある駐車場から
代官所跡に向かうと、西南之役戦死者記念碑がありました。


撮影: 2011年7月

この地に西南の役の碑があるのは少々不思議な
感じがしますが、1887年(明治20年)に当時の島根県
知事・籠手田安定によって建立されたそうです。

石見銀山の代官所跡は、すぐ近くにありました。


撮影: 2011年7月

1815年(文化12年)に建てられた長屋門が残っています。
江戸時代の初めには奉行所でしたが、銀の産出量が
低下したため、代官所に格下げされたそうです。


撮影: 2011年7月

代官所跡には1902年(明治35年)に建てられた
旧邇摩郡役所が移築され資料館になっています。

石見銀山の奉行所と言えば、大久保長安の
疑獄事件に触れなければならないでしょう。

大久保長安 (1545-1613) は、元々は甲斐・武田氏に
仕え、鉱山開発などをしていたそうです。
名も土屋長安と名乗っていました。

武田氏が滅びると家康の家来となり、関ヶ原の戦いで
家康が勝利すると、佐渡や生野そして石見銀山も
幕府の直轄地となりますが、長安は石見奉行や
佐渡奉行、さらには後の勘定奉行となる所務奉行も兼ね
日本全国の金山・銀山の管理を任された形になりました。

徳川氏に仕えた際に、古くからの家康の家臣の大久保忠隣の
与力となり、大久保長安と改姓しています。

権力を得た大久保長安の生活は派手だったようですが、
1613年(慶長18年)に亡くなると、生前に不正に蓄財した
とされ、墓を暴かれ、7人の男の子供はすべて処刑されました。

この事件は、大久保氏と主導権争いをしていた
本多正信の諫言によるものともされています。

大久保長安のお墓は銀山エリアにあります。
銀山エリアの様子は
こちらです。

代官所の北側には城山 (きやま) 神社がありました。


撮影: 2011年7月

城山神社は、平安時代に記された「延喜式」にも
載る古い神社で、1434年(永享6年)に大内氏によって
高山から現在地東側の愛宕山に遷座され、1577年
(天正5年)に毛利氏によって現在地に移されました。


撮影: 2011年7月

1800年(寛政12年)の大火で社殿は焼失しましたが、
1812年(文化9年)に現在の社殿が再建されています。


撮影: 2011年7月

立派な注連縄が飾られた拝殿の天井には
鳴き龍も描かれているようです。

城山神社から代官所跡の前を通り、代官所跡の
西側にある勝源寺に向かいました。


撮影: 2011年7月

代官所跡を過ぎ、角を曲がると
中村ブレイスという会社がありました。
ここは「アイ・ラヴ・ピース」という
映画のロケ地だったそうです。


撮影: 2011年7月

小路には古い民家も建っていました。

この先に勝源寺がありました。


撮影: 2011年7月

勝源寺は、1616年(元和2年)に二代目の奉行・
竹村丹後守道清によって創建されたそうです。


撮影: 2011年7月

境内には、この竹村丹後守をはじめ、
何人かの代官のお墓があります

勝源寺を訪れた後、代官所跡から南に向かう
道に戻り、その道を歩いて行きました。

石見銀山は、代官所ゾーン、武家・町屋ゾーン
そして銀山ゾーンと観光エリアが3つに
分けられています。

観光パンフレットでは代官所ゾーンと武家・町屋ゾーンとの
境は500m程歩いた所の観世音寺になっていますが、代官所跡
からの道の両脇には、古い家並みが続いていました。


撮影: 2011年7月

この先に熊谷家住宅がありました。


撮影: 2011年7月

熊谷家は石見銀山の経営にも携わった商家で、
代官所の御用達を務めた事で知られているそうです。
当主は代々、町役人を務める名家だったようです。


撮影: 2011年7月

熊谷家の主屋は1800年(寛政12年)の大火で焼失し、
その一年後に再建されたものです。


撮影: 2011年7月

広い土間に立派な座敷があります。
熊谷家住宅の主屋は1801年(享和元年)の再建後、
間取りが変更されたりしているそうですが、
奥の間(上右の写真)は建築当初のままです。

熊谷家住宅には幾つか蔵があります。
そこには生活用品をはじめ様々な
ものが展示されています。


撮影: 2011年7月

上の写真は、大正時代に熊谷家に
嫁入りした際の婚礼道具一式です。

蔵の二階が座敷になっていました。
広々とした座敷は開放的な窓があり、
石見瓦の土蔵がいくつも見えていました。


撮影: 2011年7月

庭に出て眺める熊谷家住宅の建物群です。
抜けるような青空の下、石見瓦が
とてもよく生えていました。


撮影: 2011年7月

江戸時代から酒造業も営んでいたようです。
熊谷家住宅は国の重要文化財に指定されています。

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武家・町屋エリア
(Townscape Area)

石見銀山の入り口、代官所跡から鉱山跡の
間歩へと向かう途中、江戸時代からの
道の両脇に古い町並みが続いています。

国の重要文化財に指定されている
熊谷家住宅の先の様子です。


撮影: 2011年7月

白壁の大きな建物は、村の世話役や農民などが
公用で訪れた際の定宿・田儀屋だった建物です。


撮影: 2011年7月

石見銀山の谷を流れる銀山川を渡り、
さらに町並みの中を歩いて行きました。


撮影: 2011年7月

観光客向けに釜飯などのお食事処もあり、
江戸時代の雰囲気を堪能しながら、
のんびりと散策するにはうってつけです。

この先の岩山の上に、観世音寺がありました。


撮影: 2011年7月

観世音寺は大森代官所が銀山の興隆を
祈願する為の祈願所だったようです。

急な石段を上り、岩山の上の本堂へと向かいました。
この観世音寺の堂宇も、1800年(寛政12年)の大火で
全焼し、1860年(万延元年)に再建されたそうです。


撮影: 2011年7月

観世音寺の境内からは、狭い谷に沿って連なる
石見銀山の集落が手に取るように見えました。


撮影: 2011年7月

観世音寺からも更に石見銀山の間歩を目指して歩きます。
三度、銀山川を渡った所に、高札の様な案内板がありました。


撮影: 2011年7月

石見銀山の集落が重要伝統的建造物群保存地区に
指定されている事を示すものでした。

銀の産出がたけなわだった江戸時代の初めは
銀山のもたらす富で、この辺りの集落も
さぞ賑わっていた事と思います。

この先には石見銀山代官所の地役人だった
旧河島家住宅がありました。


撮影: 2011年7月

河島家初代の三郎右衛門は安芸の国の出身で
1610年(慶長15年)に初代奉行・大久保長安に
召し抱えられこの地に移り、子孫は代々、
石見銀山の支配に携わりました。


撮影: 2011年7月

立派な熊谷家住宅を訪れた後では、幾分庶民的に感じましたが、
この河島家住宅は武家造りの佇まいをよく残しているそうです。

旧河島家住宅から南に進むと、代官所の
同心宅だった柳原家住宅がありました。
下の写真右側の家です。


撮影: 2011年7月

案内版によると同心の仕事は、届け出の取次や
売り物の取締り、徴収金の取り立てなどだそうで、
七石二人扶持の扶持米だったそうです。

この先にも古い町並みが続いています。


撮影: 2011年7月

所々で、代官所の地役人の遺宅が残っています。
下の写真は地役人だった田邊氏の遺家です。


撮影: 2011年7月

初代の彦右衛門は甲斐の国出身との事で、初代奉行の
大久保長安に召し抱えられ、この地に移ったようです。

この先、西側の山の中腹に栄泉寺がありました。


撮影: 2011年7月

栄泉寺は1596年(慶長元年)に開山した曹洞宗のお寺です。
急な石段の先に竜宮門と呼ばれる山門がありました。


撮影: 2011年7月

この栄泉寺も1800年(寛政12年)の大火で焼失し、
本堂は1807年(文化4年)に、竜宮門は1853年
(嘉永6年)に再建されています。

この竜宮門は、徳川家光の廟所の日光・大猷院の
皇嘉門に似ている為、幕府から取り壊しのお達しが
ありましたが、幕末の混乱で事なきを得たそうです。

日光・大猷院の散策記はこちらです。

高台の栄泉寺からの眺めも良かったです。

再び石見銀山の集落を歩きました。
石見銀山の代官所跡からかれこれ
1km程、集落が続いています。


撮影: 2011年7月

白壁の建物は、当時、郷宿の一つだった泉屋跡です。
江戸時代、石見銀山附御料の百五十余村は6つの組に
分けられ、夫々の組毎に郷宿が決められていたようです。

この泉屋は、現在の江津市の一部の地域の郷宿でした。

石見銀山の町並も、下の写真の所で途切れます。


撮影: 2011年7月

この先で道は二手に分かれています。
交差点を左に進み、銀山川を渡ると、
その先に五百羅漢がありました。

五百羅漢は、江戸時代の宝暦年間(1751〜1763年)に
石見銀山の付役人だった中場五郎左衛門定政が、
観世音寺の石像を拝み、五百躰の羅漢を安置する
事を思い立ち、数年後に赴任した代官関忠太夫が
石像を寄進した事から始まりました。

五百羅漢の前には、羅漢寺が建てられています。
羅漢寺で拝観料を払い、五百羅漢を参拝します。


撮影: 2011年7月

五百羅漢は多くの人が羅漢像を寄進し、江戸城からは
大奥の女中も含め三百躰を超える石像の寄進がありました。
こうして、1766年(明和3年)に五百羅漢は完成したそうです。


撮影: 2011年7月

五百羅漢は、羅漢寺の通りを隔てた反対側の
山の中腹に掘られた石窟に安置されています。

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銀山エリア
(Silver Mine Area)

五百羅漢を過ぎると、銀山エリアとなります。
この地域は江戸時代から銀が採掘された、間歩と
呼ばれる鉱山が残り、石見銀山のメインの観光地域です。

銀山エリアには見どころも多いので、銀山エリアの
中ほどにある清水谷精錬所跡で分けて紹介します。

五百羅漢から清水谷精錬所跡
(Raganji Temple to Ruins of Shimizudani Smelting)

五百羅漢を過ぎると町並みが途切れ、
山間の長閑な景色になりました。


撮影: 2011年7月

2011年に訪れた際には、空き地で
発掘調査が行われていました。

道の脇に民家が点在していますが、その一つが
石見銀山代官所の地役人の遺宅でした。

今は渡辺家住宅となっていますが、江戸時代には
地役人の坂本氏がこの住宅に住んでいました。


撮影: 2011年7月

屋敷の入り口には式台が設けられ、六間ある間取り
には書斎も備えられ、綺麗に飾られていました。

渡辺家住宅からは、代官所跡から歩いてきた
道を離れ、谷の東側の山の脇の小路を歩きました。


撮影: 2011年7月

木々が深く生い茂り、心細くなるような細道です。
途中に妙正寺の小さなお堂がありました。


撮影: 2011年7月

妙正寺は元々清水谷にあったお寺をこの場所に移し、
1514年(永正11年)に再興された、日蓮宗のお寺です。

この石見銀山の地では、日蓮宗は商工業者の
信仰が篤く、五つの寺があったそうです。


撮影: 2011年7月

妙正寺からも細く草の生い茂った道を歩き、
やがて山に登る階段が現れました。
この階段を上った所に、石見銀山の初代の
奉行だった大久保長安のお墓があります。


撮影: 2011年7月

大久保長安は、徳川家康がこの石見銀山の
支配権を得た時に石見奉行に任命されています。
死後になって、生前の収賄事件が明らかになり、
墓が暴かれ遺体が晒されたとされていますが、
それはこのお墓だったのでしょうか。

大久保長安の事は、代官所跡の
ページで詳しく述べています。
こちらです。

大久保長安の墓所から銀山川の谷に下ると、
そこには下川原吹屋跡がありました。

下川原吹屋は1991年(平成3年)の発掘調査で発見された
との事で、江戸時代初期の銀精錬所跡だそうです。


撮影: 2011年7月

銀の精錬は、掘り出した鉱石を砕き、銀の含有量の高い石を
精錬するのですが、銀の精錬には16世紀初めに日本に来た、
宗丹と桂樹という二人の中国人の功績が大きいそうです。

宗丹と桂樹は、灰を詰め込んだ灰床に銀を含む鉱石を入れ、
炭火で加熱し、不純物の鉛を灰に吸収させる灰吹法という
製法を導入し、銀の生産量が飛躍的に増加したそうです。

当時は活気のあった筈の下川原吹屋の跡も空き地が広がる
ばかりでしたが、地道な発掘調査の結果が石見銀山の
世界遺産登録に繋がったように思います。

下川原吹屋跡からは近くの西本寺の伽藍が見えました。
長閑で、綺麗な山里の景色です。


撮影: 2011年7月

西本寺の南には長安寺跡に創建された
豊栄神社があります。


撮影: 2011年7月

豊栄神社は毛利元就を祀る神社です。
石見銀山は戦国時代の末期に、一時期毛利氏が
支配下に治めていましたが、その際に近くの
山吹城に元就の木像を安置していたそうです。

関ヶ原の戦の後、木像は萩に移され、毛利氏は代わりに
元就の画像を長安寺に寄贈しますが、地元の人達は
納得せずに毛利氏は新たな木像を安置したそうです。

時は下り、幕末に第二次長州征伐の際に、石見へと攻め込んだ
長州軍が、毛利元就の像がここに安置されているのを知り
豊栄神社を創建したのがその謂れだそうです。

しばらく銀山川に沿う道を南に向かうと
清水谷精錬所跡への入り口がありました。


撮影: 2011年7月

近くには銀山大盛祈願道場碑がありました。
石見銀山では佐毘売山神社、この奥にある龍昌寺、
そして観世音寺の三か所が祈願所になっていました。

清水谷精錬所跡への道は、山奥に入って行くような
周囲には何もない所を行きます。


撮影: 2011年7月

心細くなりそうな道ですが、前方に
家族連れの方が歩いていてホッとします。

しばらく歩くと何段もの石垣が見えて来ました。
ここが清水谷精錬所跡です。


撮影: 2011年7月

石見銀山は江戸時代の後半になると採掘量も減少し、
明治になってからは既存の坑道から細々と
銀の発掘が行われている程度だったようです。

しかし、大阪の藤田組(現・DOWAホールディングス)が
1894年(明治27年)にここに洗練所を新設しました。
山一つ隔てた福石鉱床で採掘した鉱石をトロッコで
運搬し、この山の上で選鉱していたそうです。


撮影: 2011年7月

山腹の石垣には所々、洞窟の様な窪みが設けられています。
それがどのような役割を果たしていたかは分かりませんが、
この遺構には圧倒されました。

この大規模な清水谷精錬所は現在の価値に換算して数十億円もの
投資をしたにも拘わらず、期待した生産量が得られずに
僅か1年半で操業取りやめとなったようです。

精錬所跡の脇から、木製の階段が山の上に整備されていました。
階段を上ると精錬所に鉱石を運んでいたトロッコ道跡に出ました。


撮影: 2011年7月

竹林が生い茂り、狭い山道を進みます。
ここにかつて鉱石を運んだトロッコが
走っていたとは信じられない景色です。

トロッコ道は山の中腹を横切るように続いています。
勾配のない道を歩いていましたが、やがて山の中腹を
上るようになり、城門のような石垣が現れました。


撮影: 2011年7月

この石垣の門跡を抜けると、広い敷地がありました。
ここが選鉱場跡です。


撮影: 2011年7月

採掘された鉱石は蔵之丞坑道を通りここまで運ばれ
ここで銀の含有量の多い鉱石を選んでいたようです。

丁度、お昼となり、この選鉱場跡で
山の景色を眺めながらお昼を摂りました。

選鉱場の左手には清水寺跡がありました。


撮影: 2011年7月

選鉱場からは再び山の中腹にトロッコ道跡が続いています。


撮影: 2011年7月

トロッコ道跡は蔵之丞坑跡に続いています。

かつてはここも銀の坑道でしたが、明治期には
大久保間歩で産出された鉱石を、この坑道を
通って、トロッコで運ばれていました。


撮影: 2011年7月

手掘りと思われる坑道の壁には
ノミの跡も残っているようでした。

この後、石見銀山防御の為に築かれた
山吹城に登城しました。 その散策記はこちらです。

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龍源寺間歩
(Ryugenji-Mabu Mining Gallery)

石見銀山の護りとして築城された山吹城から
麓に戻り、龍源寺間歩に向かいました。

その手前にあった甘南備鉱です。
この辺りは、石見銀山の主要な銀鉱脈があり、
いくつもの間歩と呼ばれる坑道が掘られました。


撮影: 2011年7月

この先に龍源寺間歩の入り口がありました。
小さな川を渡り坑道へと向かいます。


撮影: 2011年7月

龍源寺間歩は、石見銀山の主要な坑道の一つで、
江戸時代中期以降に開発されたそうです。

石見銀山では、坑内に入れる間歩は、谷を隔てた
大久保間歩と、この龍源寺間歩と二箇所だけです。

大久保間歩は、予約の上、グループでの入鉱となります。
途中での散策や、山吹城の登城を考えると、時間の制約が
ない方が好ましく、この龍源寺間歩を訪れる事にしました。

龍源寺間歩では入口から一方通行で、出口に抜けます。


撮影: 2011年7月

間歩に入って暫くは、木の枠に囲まれていましたが、
やがて素掘りの坑道になりました。


撮影: 2011年7月

江戸時代のノミの跡も残っています。
所々、照明はありますが、暗い坑道では
写真はブレてしまっていました。

坑道の中は、一年を通して13℃ほどに保たれています。
龍源寺間歩を訪れる前に、標高414mの山吹城に
登城し、大汗を掻いた後だったので、
身体が冷えてしまう程でした。


撮影: 2011年7月

石見銀山は、戦国時代に銀の産出が始まった
際には、仙ノ山の東側の地表付近に広がって
いた福石鉱床が採掘の中心でした。

この福石鉱床からの産出量が減少した江戸時代中期に
新たに仙ノ山の西側の地下にある永久鉱床からの
産出を図るべくこの龍源寺間歩を築き、更にその
地下奥深くまで永久坑道が何段にも掘られました。

龍源寺間歩はやがて人一人がやっと
通れるほどに狭くなっていきました。


撮影: 2011年7月

所々、岩の割れ目に沿って、横にも坑道が伸びています。
こうした岩の割れ目は熱水が通った後で、銀などの
貴金属の含有割合が高いのだそうです。

狭かった龍源寺間歩も途中からコンクリートで
囲われた坑道になりました。


撮影: 2011年7月

これは1988年(昭和63年)に出来た新坑道で、
龍源寺間歩の入口とは山一つ隔てた
栃畑谷に抜ける事が出来ます。


撮影: 2011年7月

入口から約12分程の龍源寺間歩の散策でしたが、
これはとても貴重な体験をする事が出来ました。

龍源寺間歩の出口から緩やかな坂道を下って
行くと、左手に佐毘売山神社があります。


撮影: 2011年7月

佐毘売山神社は、二つの小さな谷の間の丘陵地の端に
建てられ、急で長い階段を上って境内に向かいました。


撮影: 2011年7月

この佐毘売山神社は鉱山の神とされる金山彦神を祀り、
1434年(永享6年)に大内氏が石見銀山を支配した際に
創建されたそうです。


撮影: 2011年7月

境内から登ってきた階段を見下ろした様子です。
その急で長い階段を上から眺めていると、
吸い込まれそうになりました。

この先で、代官所から龍源寺間歩へと向かう
石見銀山のメインストリートへと出ました。

メインストリートとはいっても、
この辺りは山間の遊歩道です。


撮影: 2011年7月

メインストリートに合流し、少し戻ると
町年寄山組頭だった高橋家住宅がありました。


撮影: 2011年7月

山組頭は、代官所と鉱山経営者の銀山師との間を
取り次ぐ役職で、銀山師の中から選ばれたそうです。

高橋家住宅から代官所に向かって下っていくと、
吉岡出雲の墓がありました。


撮影: 2011年7月

吉岡出雲は、元の名を吉岡隼人といい、
毛利家の家臣で銀山の付役人だったそうです。
江戸時代になると、徳川家康の命により、
石見銀山の奉行・大久保長安の元で銀山の
採掘を任される事になったそうです。

旧極楽寺の境内にある吉岡出雲の墓は、
283段ものの急な階段を上るそうです。
歩き回って体力も消耗していたので
諦める事にしました。

この先には新切間歩の坑道がありました。


撮影: 2011年7月

新切間歩は1715年(正徳5年)に開発されています。
石見銀山では、江戸時代初期の1691年(元禄4年)には
94箇所だった坑道が、江戸末期の1823年(文政6年)に
279箇所と大幅に増加しています。

新切間歩は、奥行520mまで掘り進められたそうです。
新切間歩の小さな坑道の入り口を見ていると、
龍源寺間歩での、狭く細い坑道が思い浮かびます。

数多くの坑道では、落盤事故なども
発生していたのではないでしょうか。
この周辺には極楽寺をはじめ、
いくつもの廃寺跡があります。

新切間歩から歩いて行くと、集落が現れました。


撮影: 2011年7月

ここから東側の沢沿いに入っていくと
清水寺の山門がありました。


撮影: 2011年7月

清水寺の山門は、元々は佐毘売山神社の別当寺の
元神宮寺の山門でしたが、元神宮寺と清水寺が
昭和に入って合併し、この地に移築されました。

ここの先で山吹城への登城道入口があり、
石見銀山を一通り散策した形になります。

石見銀山は戦国時代からの銀山の遺構が
数多くあり、また江戸時代の町並みも
残り、充実した散策が楽しめました。

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