輪島は、能登半島北部の日本海側に位置する街です。
戦国時代には温井氏の城下町として栄えそうです。
この輪島には2011年10月と2015年9月に訪れました。
2011年10月、能登金剛を訪れた後、
能登金剛の先の琴が浜から日本海沿いの国道を
この集落が黒島です。
集落は、黒板の家で統一されています。
上右の写真は、元廻船問屋の浜岡屋跡です。
この先の三叉路の民家の所には「八千代川常松」
大相撲の力士かな、と思いますが
この石碑で来た道を戻り、今度は
上の建物は、黒島のほぼ中央に
旧角海家のすぐ東側の山の中腹に
若宮八幡神社の境内からは、
黒い屋根瓦と黒板塀の集落が続き、
旧角海家から北側の集落へも足を伸ばしました。
若宮八幡神社の境内から眺めた集落です。
集落の散策を切り上げ、旧角海家に向かいました。
1871年(明治4年)の大火の後に、建物の
敷地は日本海に向かって低くなっていて、
主屋から一段低い位置に、3つの蔵や
明治時代の後期には、北前船も低迷し、
角海家に入ってすぐの店の間には、
蔵の内部も歴史を感じさせるものでした。
黒島地区は2009年(平成21年)に重要伝統的
總持寺は、元々は諸岡寺と呼ばれた行基が
1321年(元亨元年)に当時の住持・定賢が、
その後、地元の国人・長谷部氏や能登国守護の
永平寺との間で、曹洞宗大本山の地位を争っていましたが、
能登半島の西側の海岸を羽咋から北上してきた
参道には白壁の塀が続いていました。
三松関から總持寺別院の境内となり、
参拝受付を過ぎ、左手に経蔵がありました。
経蔵の内部には八角形の輪蔵がありました。
この輪蔵は回転式になっており、輪蔵を
輪蔵の先には立派な山門が建っていました。
山門の両側には廻廊が伸び、中庭の周囲に建つ
總持寺の堂宇は1570年(元亀元年)の信長侵攻による戦乱で
1898年(明治31年)には大火により多くの堂宇が焼失し、
1911年(明治44年)に總持寺は横浜に移転してしまい、
山門を抜けて眺める大祖堂の様子です。
廻廊に囲まれた總持寺祖院の伽藍は、
こちらは仏殿です。
仏殿には山岡鉄舟の書の襖があります。
中庭から見上げる山門の様子です。
夕暮れも迫り、境内には他に訪れる人もいません。
總持寺祖院が、曹洞宗の大本山だった頃には、
静かな境内で、その当時の様子を思い描いていました。
坐禅堂の更に右側に伝燈院があります。
この伝燈院は開山・瑩山紹瑾の霊廟です。
伝燈院の右側にある放光堂です。
放光堂は納骨堂として1911年(明治44年)に再建されています。
人のいない總持寺祖院の境内も、西日が
山門を過ぎ、経蔵の道路を隔てた反対側に
輪島
Wajima in Ishikawa
朝市や輪島塗で知られ、能登半島北部の中心都市です。
江戸時代には北前船の寄港地として栄えました。
その時の様子を紹介します。
白米千枚田
(Hakumai Senmaida)
曽々木海岸
(Sosogi Seashore)
天領黒島地区
車で能登半島を更に北上しました。
8km程走ると、行政区域も輪島市に変わり、
黒い板塀の家が続く光景となりました。
撮影: 2011年10月
かつて天領だったところで、江戸時代の
後期から明治にかけて北前船の船主や
船頭の居住地として栄えたところです。
北前船の資料館に車を停めて、まずは
集落の南側に向かってみました。
撮影: 2011年10月
大正時代に嘉門家がこの建物を取得し、1999年
(平成11年)に当時の門前町に寄付されたそうです。
と書かれた石碑がありました。
撮影: 2011年10月
調べてもわかりませんでした。
北前船の資料館を通り過ぎて
集落の北側に向かいました。
撮影: 2011年10月
位置する旧角海家です。
若宮八幡神社があります。
撮影: 2011年10月
黒島の集落が一望出来ました。
撮影: 2011年10月
日本海の眺めと対照的な光景でした。
撮影: 2011年10月
黒板で統一した町並みは、とても
落ち着いた佇まいでした。
旧角海家は、黒島地区で最大の廻船問屋で、
重要文化財に指定されています。
撮影: 2011年10月
配置や構造は元通りに復元されたそうです。
主屋は一段高い所に建てられています。
撮影: 2011年10月
船大工小屋などの建物が、敷地の
周囲に建ち並んでいます。
角海家は不動産業や金融業も
手がけたそうです。
撮影: 2011年10月
金融業をしていた当時の帳場の
様子が復元されていました。
撮影: 2011年10月
建造物群保存地区に指定されています。
創建したと伝わる密教系のお寺だそうです。
現在の羽咋市にある永光寺の瑩山紹瑾に
寺を譲った事に始まります。
畠山氏、室町幕府の庇護を受けています。
1615年(元和元年)に、江戸幕府が總持寺と永平寺の両寺を
曹洞宗の大本山とし、幕府祈願所にも定めています。
国道249号線は、天領黒島地区を過ぎると、
内陸部を走るようになり、黒島から10分程で
總持寺の門前町に着きました。
撮影: 2011年10月
参道の端にある三松関です。
撮影: 2011年10月
その先に拝願受付がありました。
1743年(寛保3年)に加賀藩6代藩主・前田吉徳が建立しています。
この経蔵の建設にあたっては、加賀騒動の主犯とされる
大槻伝蔵が奉行として携わっていました。
撮影: 2011年10月
各面に3列×7段の経筥があり、合計で
約600ものお経が収められています。
回転させると、収められているお経を全て
読んだのと同じ功徳が得られるそうです。
総檜造りで、1932年(昭和7年)に建てられています。
撮影: 2011年10月
大祖堂や仏殿などの七堂伽藍のお堂を繋いでいます。
撮影: 2011年10月
焼失し、1581年(天正9年)に前田利家が再興しています。
その後1610年(慶長15年)に利家の正室・芳春院が山門を、
1743年(寛保3年)に前田吉徳が経蔵を建てています。
1905年(明治38年)に再建されますが、この大火を機に
總持寺移転の検討がなされました。
能登の總持寺は、總持寺祖院としてこの地に残りました。
大祖堂は大正時代に再建されています。
撮影: 2011年10月
実に堂々とした雰囲気です。
1912年(大正元年)に再建されています。
撮影: 2011年10月
撮影: 2011年10月
その右手には鐘楼があり、北側の
坐禅堂へと廻廊が繋がっています。
撮影: 2011年10月
迫力ある堂宇に囲まれ、圧倒される思いがしていました。
今の永平寺と同じように、多くの修行僧が
この境内で修行に励んでいた事と思います。
撮影: 2011年10月
明治31年の大火で焼失を免れた現存の建物で、
1693年(元禄6年)に建てられています。
撮影: 2011年10月
装飾が施されたお堂に夕日が差し込み、とても印象的でした。
傾くとともに気温も下がってきました。
一通り、お堂を眺めて七堂伽藍を辞し、
帰路に就きました。
芳春院様菩提所がありました。