長篠・設楽原(したらがはら)の戦いは、
武田信玄亡き後、武田家を継いだ武田勝頼が
徳川家康の拠点の城、長篠城を攻めたことから、
織田・徳川連合軍と武田軍との全面戦争になった戦いです。
時は1575年(天正3年)5月21日、
太陽暦では6月29日の事です。
歴史の教科書にも出ていたかと思いますが、
信長が三千挺もの鉄砲を三段構えで撃ち、
武田の騎馬隊を打ち破った戦いとして知られています。
2007年1月23日に野田城を訪れた後、
この長篠・設楽原合戦の跡を訪れました。
野田城の様子はこちらです。
まず戦いの発端となった、長篠城の様子
次に、主戦場となった設楽原、そして
武田勝頼の本陣のあった医王寺をはじめ、
長篠城周辺の史跡を紹介します。
織田・徳川連合軍 |
武田軍 |
@ 織田信長本陣 A 徳川家康 B 佐久間信盛 C 岡崎信康 D 羽柴秀吉 E 織田信忠 |
@ 武田勝頼本陣 A 武田勝頼観戦地 NEW ! B 馬場信房 C 内藤昌豊 NEW ! D 山県昌景 |
激戦地 他 馬防柵 @ 丸山・大宮前激戦地 A 柳田前激戦地 Revised ! B 竹広激戦地 C 勝楽寺前激戦地 D 設楽原歴史博物館 E 鳶ヶ巣山砦 |
設楽原古戦場。
静岡県境に近い愛知県東部を流れる
山間から流れ出た豊川の谷が広がり、
平地が現れだした辺りが設楽原(したらがはら)です。
豊川は河岸段丘を作り、豊川に向かって
北から南に支流がいくつも流れ込んでいます。
その小川の周囲には田圃が広がり、
隣の小川の間には丘陵地が延びています。
この小川の一つが連吾川で、その川を挟んで
織田・徳川連合軍と武田軍の壮絶な戦いが
繰り広げられたのでした。
1575年(天正3年)5月21日のことです。
岡崎信康陣地跡
野田城を訪れた後、151号線を北上し、
新城の街を抜けた「富永新地」の交差点で
左折しました。
設楽原古戦場の詳しい様子が
判っていたわけではなかったので、
当てずっぽうで車を走らせていたのですが、
やがて「岡崎信康本陣跡」の標識が見えてみました。
岡崎信康は、家康の長男です。
本陣の背後には小高い丘が続いていました。
丘の手前には、1月の終わりというのに
梅の花が咲いていました。
近くに木の剪定をしている地元の方が見えました。
この方に、設楽ヶ原の古戦場の跡地を訪ねると、
信長や家康の本陣跡、設楽原歴史資料館の場所など
とても詳しく教えて頂きました。
数多くの史跡を廻る事が出来たのですが、
それはこのひとえに農家の方の教えです。
岡崎信康の本陣は連吾川の一つ南を
流れる大宮川の平地の南端にあります。
大宮川に向かって田圃が広がり、
その向こうに小高い丘がみえています。
田圃に咲いている菜の花畑の、
その向こうの丘が家康の本陣跡です。
家康の本陣跡は後で行く事にして、
まずは織田信長の本陣跡に向かう事にしました。
岡崎信康の本陣跡から、道路一本西に戻って、
その北にある茶臼山に信長の本陣跡がありました。
高い山の手前に見える丘が茶臼山です。
車を走らせていくと、丘に差し掛かったところで
道が細くなり、そこに車を停めて
歩いて本陣跡に向かいました。
雑木林の中の狭く急な坂道を上っていくと
急に開けた空き地に辿り着くと、
そこが織田信長の本陣跡でした。
信長はこの南1km程の極楽寺で軍事会議を開き、
合戦時にここに移動したようです。
周囲には木が生い茂って、
展望が開けていないのですが、
当時は木が切られ、設楽原の合戦の
様子が良く眺められた事と思います。
本陣跡には、信長の句碑と
小さな神社がありました。
"きつねなく 声もうれしく聞こゆなり
松風清き 茶臼山かな"
信長の句はとても珍しいとの事です。
この茶臼山の本陣から、武田軍に大勝した
様子を眺め「天下布武」の大望が確実な
ものになったと悦にいっていた事でしょう。
信長の本陣を訪れた後、先ほど岡崎信康の
本陣から眺めた徳川家康の本陣に向かいました。
家康は東郷中学校のすぐ北側の
弾正山に布陣したようです。
ここは決戦の場となった連吾川から
僅か300mしか離れておらず、
家康の本陣まさに最前線にありました。
上の写真の右手に見えている丘を
越えると連吾川の谷間に出ます。
車で丘を越えて、合戦の主戦場だった
連吾川沿いの谷に出てみました。
500m程の幅で田畑が南北に広がっています。
その西側に馬防柵が復元されていました。
この馬防柵は、当時最強と言われた武田の
騎馬隊を防ぐ為に設けられたのですが、
連吾川に沿い、南北2kmに渡り3重に築かれ、
更に家康の本陣のあった大宮川沿いにも
予備に1重の馬防柵が築かれていたようです。
連吾川を自然の堀と見立てると、馬防柵の
防御性はかなり高かったように思います。
馬防柵脇に建てられた設楽原の合戦碑です。
織田・徳川連合軍がこの設楽ヶ原に
布陣したのは1575年(天正3年)5月18日。
合戦が行われたのは5月21日なので、
僅か2日間でこの馬防柵を設けた事になります。
合戦の時に築かれた馬防柵に用いられた
木材は7000本と推定されているそうですが、
織田信長は戦いに先立って、この柵を設ける
作戦を練り、かなり早い段階で
その準備をしていた事を示しています。
長篠・設楽原の戦いは、3000挺もの鉄砲により
武田騎馬隊を倒した事で知られていますが、
この馬防柵を見ていると、長篠・設楽原の戦いに
おける織田・徳川連合軍の勝利の真の理由は
この用意周到な作戦にあった様に思いました。
馬防柵の傍らに『土屋右衛門尉昌次
戦死の地』の碑がありました。
土屋昌次は武田信玄の「奥近習六人衆」の
一人で、武田家では重臣だった人です。
驚く事に昌次は一つ目の馬防柵を突破したのですが、
2重目の馬防柵に取り付き、大声を上げているところを
鉄砲隊に撃たれて落命したそうです。
馬防柵から連吾川の方に行って見ました。
写真、右手奥が馬防柵のあったところです。
連吾川はどこの田舎にもあるような小川で、
この、のどかな景色を眺めていると、ここで
ここで戦が行われた事が俄には信じられません。
連吾川に沿って北に歩いていくと
丸山・大宮前激戦地の碑がありました。
写真右手の小山が丸山で、馬防柵の前方に
布陣した佐久間信盛の軍と武田軍右翼の
馬場信房の軍が戦ったところです。
馬場信房はここで佐久間信盛軍を破って
この丸山を占領したそうです。
この辺りから、武田勝頼観戦地も見上げることが出来ます。
連吾川の東側の丘陵地の上、崖の上あたりです。
柳田前激戦地
丸山・大宮前激戦地から連吾川の
東側を走る道を南へと向かいました。
連吾川の狭い谷の向こう側に馬柵が見えています。
馬柵の向こうに整然と並ぶ織田・徳川連合軍の姿を
見た武田方の軍勢は、どのように思った事でしょう。
この馬柵に突撃するのは、まさに
決死の覚悟だったと思います。
この先に、柳田前激戦地の碑と
甘利郷左衛門尉信康の碑がありました。
甘利信康は武田信虎時代の重臣・甘利虎泰の
次男で、当時は甘利氏の家督を継ぎ、
この戦いに参戦していました。
山県昌景と共に戦い、馬防柵を突破する
働きを見せたそうですが、戦況が傾き
武田軍の敗勢がはっきりすると、
この地で無念の切腹を行ったそうです。
設楽原歴史資料館は連吾川の
北側の丘の上にありました。
この辺りは天王山といい、
内藤昌豊が陣を敷いた辺りです。
内藤昌豊の陣地跡はこちらです。
歴史資料館の南には長篠・設楽原の合戦の
死者を弔う信玄塚がありました。
上の写真左が大塚、右が小塚です。
この戦いでは武田軍10,000人、
連合軍6,000人もの死者が出たそうです。
その戦死者を地元の人々は丁寧に葬ったようで。
その霊を弔う「火おんどり」祭りも行われています。
長篠・設楽ヶ原の戦いは快晴の5月21日、
早朝から始まった戦いは昼過ぎには
大勢が決していたという事です。
僅か半日で、とても多くの人が亡くなってしまいました。
特に武田軍は、多くの重臣が命を落としています。
この周囲にも内藤昌豊、山県昌景、
原昌胤らの碑があります。
こちらが原昌胤の墓です。
原昌胤は武田二十四将の一人で
120騎持ちの武将だったようです。
信玄塚から西へ100m程行った所には
小幡信貞の墓があります。
小幡信貞も武田方の武将です。
こうしてお墓もあり、設楽原の戦いで戦死した
との風聞もあったようですが、この戦後も
生存していた事が確認されているそうです。
信玄塚の近くには閻魔堂もありました。
閻魔堂は1999年2月に建てられたものですが、
内部に祀られている閻魔像は1757年(宝暦7年)に
当時の領主・諏訪貞根の命で造ったようです。
この後、長篠城に向かいました。
長篠城の様子はこちらです。
その途中で首洗池という小さな池がありました。
この池で戦死者の首を洗ったそうです。
合戦の壮絶な様子が、頭をよぎりました。
多くの人がこの地で戦で命を落としたという
事実が胸に迫ってきました。
首洗い池の西側の丘陵地の上には内藤昌豊、
山県昌景、原昌胤らの碑があります。
山県昌景の碑はこちらです。
また設楽原歴史資料館の北側には
内藤昌豊の陣地跡があります。
山県昌景の碑はこちらです。 竹広激戦地
2011年11月、勝楽寺前激戦地を訪れた後、
北に向かい、竹広激戦地に向かいました。
丘陵地に挟まれた狭い平地に入ると、
竹広激戦地跡がありました。
竹広激戦地は、設楽原の戦いで最も
激しい戦闘になったと伝わっています。
ここは徳川家康の本陣のすぐ東側にあり、
ここを山県昌景隊が攻め込んだようです。
徳川家康の布陣地は こちら です。
戦場は、幅僅か200m程の丘陵地の間の細長い平地です。
その平地の真ん中を流れるのが連吾川です。
連吾川はどこにでも流れている小川です。
織田・徳川連合軍3万8千、武田軍1万5千もの軍勢が
450年前に、この川の両側に対峙していた事は、
この、のどかな景色からは想像もつきません。
連吾川の西側の丘陵地には家康物見の塚がありました。
設楽原の戦いは、僅か半日で雌雄が決してしまいますが、
迫りくる武田騎馬隊を、家康はどのような思いで
ここから眺めていたのでしょうか。
2011年11月、再び設楽原古戦場跡を訪れました。
この時はJR飯田線で三河東郷駅まで乗車しました。
(下の写真は途中駅での様子です)
飯田線の乗車記は こちら です。
三河東郷で下車し、駅の南側に向かいます。
飯田線の南側を国道151号線が並走し、
その向こうに勝楽寺があります。
お寺には"設楽原戦没者霊場"の石碑が建っています。
このお寺は元々は松楽寺と称していましたが、
戦の翌日、織田信長と徳川家康がここで祝杯を
挙げたことから"松"の字を"勝"に変えたそうです。
勝楽寺の本堂の様子です。
この勝楽寺の南側には田圃が広がっていました。
上の写真、左端の杜が勝楽寺です。
北を望むと右手に山が見えていますが、
この左端の峰が鳶ヶ巣山砦があった所と思います。
長篠城を眼下に望む位置にあり、設楽原の戦い前夜は
武田軍の支配下にあり長篠城を包囲していた砦です。
設楽原の戦いでは、徳川家康の重臣・酒井忠次が
鳶ヶ巣山砦を奇襲し、武田軍の背後を断っています。
そして、手前に広がるのどかな田園風景も
設楽原の戦いの戦場となったところで、
勝楽寺前激戦地と呼ばれています。
ここは織田・徳川連合軍の大久保隊が
守っていたところです。
大久保一族は、松平氏がまだ西三河の一豪族だった、
家康の祖父・松平清康の時代から松平氏を支え、
家康が幕府を開いた後は、大久保忠隣が
小田原藩主となっています。
大久保氏の本拠地、岡崎・上和田城の登城記は こちら です。
大久保一族の菩提寺、長福寺の散策記は こちら です。
戦の後、大久保一族の活躍は織田信長から
「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
と称えられたそうです。
この後、竹広激戦地に向かいました。
山県昌景陣地跡
首洗池から丘陵地にのぼると
畑の広がるのどかな景色でした。
首洗池の様子は こちら です。
この畑の中に岡部竹雲斎と、
岩手左馬之助のお墓がありました。
二人とも武田方の武将です。
連吾川を越えて、この地まで攻め込んだ
徳川兵に討ち取られたようです。
上の写真の奥に見える藪の中に
山県昌景陣地跡があります。
木々の間を抜け、丘陵の西側斜面を下りました。
この斜面の途中に幾つかのお墓がありました。
山県昌景、山県昌次、従士の名取又右エ門道忠、
高坂又八郎助宣らのお墓です。
鶴翼の陣を敷いた武田軍の左翼を担った山県昌景は
徳川勢に対し、激しく戦っていましたが、
鉄砲に倒れ、落命しています。
山県昌景の戦った勝楽寺前激戦地は こちら です。
竹広の散策記は こちら です。
この奥に山県昌景の陣地跡があります。
山県昌景は、開戦当時、連吾川の谷を挟んで、
家康陣地と向かいあう位置に布陣していたようです。
2011年11月、設楽原歴史資料館を訪れた後、
その北側の東郷中学校こども園の裏にある
内藤昌豊、横田綱松のお墓を訪れました。
上の写真はこども園の裏の様子です。
まず目についたのが武田勝頼陣指揮の地の碑です。
その碑文には、設楽原の戦いよりも、その7年後、
田野で自刃した際の事を中心に書かれていました。
滅んでしまった武田勝頼への慈しみを感じました。
その近くにあった横田綱松のお墓がありました。
横田綱松は横田康景ともいい、甲陽軍鑑では
騎馬30騎・足軽100人が支配下だったそうです。
横田綱松のお墓の近くに、内藤昌豊の
お墓と陣地跡の碑があります。
内藤昌豊は元々、工藤祐長を名乗り、松本深志城や
上野国の箕輪城の城代を務めた、武田氏の重臣です。
設楽原の合戦では、内藤昌豊は武田軍の左翼に
布陣したと伝わっているそうですが、この位置は
武田軍のほぼ中央に近い位置と思います。
東郷中学校こども園から更に北に向かいました。
新城市立東郷東小学校の前を過ぎました。
小学校の先で景色が開け、丘陵地を切り開いて
新しく出来た道を左にまがります。
切通の崖のところに階段が続いていて、
ここを上ると武田勝頼観戦地があります。
武田勝頼は、設楽原の戦いの前哨戦となる長篠城を
攻略した際には長篠城の北約1kmにある医王寺を
本陣としていましたが、織田・徳川連合軍が
連吾川の西側に陣を敷くと、豊川を渡って東に進み、
設楽原合戦場の約1.5km程東の永観寺を本陣とします。
しかしその地は、合戦場からは離れているので、
戦いの様子を探りに、戦場が俯瞰できる所まで
陣を進めていたようです。
階段を上ると藪に分け入り、そこに
五味与三兵衛貞氏の墓がありました。
五味貞氏は、設楽原の合戦場から3km離れた
鳶ヶ巣砦を守り、そこで命を落としたそうです。
五味与三兵衛貞氏の墓から緩やかな起伏の
丘陵地の上の藪の中を歩きました。
この先に武田勝頼観戦地の碑がありました。
今は雑木林の中で展望はありませんが、
当時はここから連吾川を挟んで戦う両軍の
様子が手に取るように分かった事でしょう。
前日の軍議で、多くの家臣が決戦を回避するように
進言したそうですが、それを拒み大決戦に臨んだ勝頼。
この地から見たであろう武田軍の敗勢は、勝頼には
どのように映り、そして何を思った事でしょうか。
織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍を破った
設楽原の戦いの前哨戦が長篠の戦いです。
設楽原の戦いの約二週間前の1575年(天正3年)
5月8日、1万5千の武田軍は、長篠城を囲みます。
わずか21歳の奥平貞昌が500人の兵で守る
長篠城は、堕ちずに持ちこたえます。
しかし、13日には兵糧庫が奪われ、
14日には総攻撃を受けたようです。
そのさなか、奥平方の鳥居強衛門が決死の
脱出を図り、岡崎の徳川家康に援軍を頼みます。
こうして、両軍は設楽原での決戦に
臨む事になったのでした。
設楽原古戦場跡を訪れた後、長篠城を訪れ、
その後長篠城周辺の史跡を訪れました。
まず訪れたのは、武田勝頼の本陣となった医王寺です。
勝頼は、長篠城攻略戦の際にこの医王寺を本陣とし、
設楽ヶ原での合戦の際には、南に2km程の
ところに本陣を移しましています。
長篠城を訪れた後、医王寺を目指しました。
長篠城の様子はこちらです。
地元のおばさんに聞くと、「ちょっと先の角を
右に曲がって」という説明だったので、
長篠城の駐車場に車を置いて歩き出したのですが、
医王寺に辿り着くまでは1km以上の道のりでした。
でも、この散策は気持ちのいいものでした。
医王寺はこの写真の右手奥の方向にあります。
長篠城址から15分程で医王寺に着きました。
堂々とした山門です。
門には「長篠山」と記されていました。
山門をくぐり本堂へと向かいます。
医王寺は1514年(永正11年)に
創立された曹洞宗のお寺です。
武田勝頼は1575年(天正3年)5月8日から、
織田・徳川軍が設楽ヶ原に布陣を敷いた
18日までこの医王寺に本陣を置いたと思います。
医王寺山門の左手に弥陀が池という小さな池があります。
この池に生えていた葦が勝頼の設楽ヶ原進軍を諌め、
勝頼に切りつけられ、片葉になったそうです。
実際、信玄以来の重臣達は、信長が参戦した事を知り
戦いを避け、退くことを進言したそうです。
しかし、この進言は聞き入れられず、
死を覚悟した武田の重臣達は、今生の別れの
水盃を交わして戦に臨んだそうです。
医王寺を訪れた後、長篠城に戻る時、
道端に山県三郎兵衛(昌景)息継ぎの井戸
と伝わる小さな窪みを見つけました。
山県昌景は設楽ヶ原で戦死しているので
医王寺から戦場に向かう途中、ここで
喉の渇きを潤したのでしょうか。
大通寺は長篠城の北側の小高い丘にあるお寺です。
1575年(天正3年)5月、武田軍は長篠城を攻撃
するにあたって、この地に陣地を築いています。
山の斜面の階段を上って本堂に向かいました。
大通寺は平安時代の1411年(応永18年)に
創建されたと伝わりますが、戦国時代の
戦乱で寺の記録が失われているそうです。
本堂前から眺める長篠城の方向です。
手前の杜の向こう側に長篠城の本丸があります。
杜が無ければ本丸は手に取るように眺められ、
そうでなくても低地にある小さな長篠城は
あっという間に攻め落とせそうです。
本堂の裏手には城藪稲荷がありました。
この神社は元々、長篠城の本丸にあったのですが、
長篠城が文化財として整備される事になったため、
2006年(平成18年)にここに移されました。
更に山の斜面を登ると、大通禅寺杯井があります。
1575年(天正3年)5月19日に武田軍は
本陣の医王寺で軍議を開きます。
長篠城を攻め始め10日以上経っても落とせず、
その間、織田信長、徳川家康の軍勢が長篠に近い
設楽原に布陣し始めたのが前日の18日の事です。
この時の軍議で、信玄の時代から武田家に仕えていた
馬場信房らの旧臣らは、織田軍との戦を避けるように
進言しますが、武田勝頼はこれを受け入れず
翌日の開戦が決まります。
軍議を終え、各武将達は夫々の陣に戻るのですが、
馬場信房は、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次を誘い
この日の軍議を嘆き、永らく共に戦った事を謝し、
翌日の戦いが最期の戦いになるであろうと、
この泉で別れの盃を交わしたそうです。
軍議の翌々日、5月21日の設楽原の戦いでは、
この四人はいずれも戦死しています。
大通寺盃井は、いまも水を湛えていました。
大通禅寺杯井から更に坂道を上ると、
大通寺の墓地がありました。
この墓地の裏手に、大通寺陣地跡があります。
この陣地には馬場信春の他に、武田信豊、
小山田昌行らが布陣していたそうです。
医王寺の次に、長篠城近くにある
馬場美濃守信房のお墓を訪れました。
設楽ヶ原の合戦で敗れた勝頼は旗本に
守られ信濃へと落ち延びて行くのですが、
その殿(しんがり)軍を務めたのが馬場信房でした。
殿は、軍が退却する時に一番後方で
追撃してくる相手を防ぐという役割で、
最も犠牲者が多く出ると言われています。
設楽ヶ原でも激戦を戦った馬場信房の隊は、
寒狭川に辿り着く頃には、僅か数騎の
供回りしかいなかったそうです。
武田勝頼が落ち延びていくのを確認した馬場信房は、
織田軍に反転し、名乗りをあげ「首を刎ねて手柄とせい」と
叫び、敵に討たれ最期を遂げたそうです。。
享年61歳。
「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と
信長公記にも記された馬場信房。
信玄以来の重臣をまた一人失っていまいました。
このページでは馬場美濃守信房の最期の地も紹介しています。
馬場美濃守信房の最期の地は こちら です。
最後に、鳥居強右衛門磔の地に行きました。
その途中にも武田の武将達のお墓がありました。
左が、伝小山田五郎兵衛昌晟のお墓、
右が横田十郎兵衛康景のお墓です。
こうして、設楽ヶ原や長篠城周辺に散在している
武田の武将達のお墓を見ていると、
胸に迫ってくるものがあります。
武田は、多くの武将を失いすぎました・・・
勝頼は何故、設楽ヶ原の合戦を決意したのでしょうか。
何故、織田・徳川連合軍が馬防柵を築いて
いるのをそのまま見過ごしていたのでしょうか。
何故、快晴の5月21日に合戦を行ったのでしょうか。
色々な思いが頭を過ぎりますが、
歴史が変わる事はありません。
この戦いで大損害を蒙った武田家が
天目山の戦いで滅亡するのは、これより
7年後の1582年(天正10年)の事です。
小山田昌晟、横田康景のお墓の少し東に
入ったところに鳥居強右衛門磔の地があります。
途中、新昌寺に鳥居強右衛門のお墓がありました。
長篠・設楽ヶ原で命を落とした武田の武将達の
お墓とは比べ物にならない程、立派なお墓です。
武田軍が長篠城を取り囲み落城の危機に瀕した時、
鳥居強右衛門は40km程離れた岡崎城にいる徳川家康に
援軍を乞いに長篠城を脱出します。
岡崎城の登城記は こちら
です。
その後、鳥居強右衛門は援軍の知らせを伝える為に
長篠城に引き返す際に武田軍に捕まってしまいます。
武田勝頼に、「援軍は来ない」と寒狭川の
川原から城兵に伝えるように命令されますが、
鳥居強右衛門はその命令に反し、援軍が来る
事を告げ、逆さ磔にされてしまいます。
逆さ磔にされた鳥居強右衛門の絵です。
命を賭して長篠城を救った鳥居強右衛門は
この長篠・設楽ヶ原の戦いの最大の功労者でしょう。
鳥居強右衛門は長篠城のページでも触れています。
長篠城の様子はこちらです。
雑木林を抜けると、鳥居強右衛門
磔死跡の碑が見えてきました。
のどかな茶畑の端にある磔死跡の碑。
周囲ののどかな景色が、より一層
当時の凄惨な戦いとの対比を
なしているようでした。
長篠から寒狭川に沿って設楽町の方向へと
通じる国道257号線を進み、山間に入ってすぐ、
寒狭川を渡る国道と別れ、右岸に沿う旧道を
進むと馬場美濃守信房・最期の地があります。
馬場美濃守信房は武田信玄の父・信虎
以来、武田氏に仕えたそうです。
設楽原の戦いでは武田軍右翼に兵700で配置され、
織田方の佐久間信盛の6,000の軍と戦い、
丸山を奪っています。
設楽原古戦場の丸山の様子は こちら です。
しかしその後武田軍は陣形が崩れ、
武田勝頼は退却を始めます。
馬場美濃守信房は殿を務めこの地
まで勝頼を守りながら退却します。
馬場美濃守信房最期の地の案内板が
上の写真の道路の傍らにありました。
馬場美濃守信房最期の地は、ここから
山肌を少し登ったところにあります。
馬場美濃守信房は、寒狭川を遡って退却する
武田勝頼の一行をここで見送ると、追いすがる
織田軍の兵に首を刎ねて手柄とせい」と
向かっていき、討ち取られたそうです。
馬場美濃守信房最期の地の脇には
寒狭川が流れその上流部が見渡せます。
これが馬場美濃守信房が見た
生涯最後の景色でしょうか。
長篠・設楽原の戦いは、武田方は多くの武将が
命を落としていますが、織田・徳川方の
武将には殆ど戦死者がありませんでした。
その中で唯一の武将級の戦死者が
深溝城主だった松平伊忠でした。
馬場美濃守信房最期の地を訪れた後、国道257号線を
南に進むと、国道151号線との交差点の少し手前に
松平伊忠最期の地がありました。
松平伊忠は5月20日の夜に酒井忠次率いる別働隊として、
武田方の長篠城攻撃の拠点・鳶ヶ巣山を攻め、
翌21日の設楽原の決戦で雌雄が決した後
落ち延びる武田方の掃討戦で深入りしすぎ
小山田昌行から猛反撃を受けて戦死しました。