日本の歴史の中で、1467年(応仁元年)に始まった
応仁の乱の以降、100年程続いた戦国時代は、
朝廷が任命する守護大名から、実力で領土を切り拓いた
豪族が戦国大名となり、領土内の土地や人々を支配する
体制へとの変換点になりました。
その行きつく先として、織田信長により天下平定が
ほぼなされ、その後の江戸幕府へと続きます。
その過程で、実に多くの戦いが繰り広げられた事と思いますが、
その中で、日本史上に残る戦の一つが、この桶狭間の戦いです。
桶狭間は、今の名古屋市南東部、
豊明市との境近くの丘陵地帯です。
以前は、この桶狭間の戦いは、天下統一を目指し、
3〜4万とも云われる大軍を率いて上洛中の今川義元を、
僅か数千の織田信長軍が奇襲攻撃を行い
これを打ち破った戦いとして紹介されていたと思います。
しかし、最近ではこの説は否定され、
次の様な戦いだったとされています。
まず、今川義元の侵攻の動機は、
上洛ではなく、織田領内の拠点としていた
大高城・鳴海城周辺の織田勢力の排除か
せいぜい尾張侵略がその目的だったとされています。
また、信長は奇襲攻撃をせず、正面から今川義元軍に
襲いかかったという説が有力になっています。
桶狭間の戦いは、今川義元が永禄3年5月12日
大軍を率いて、西に向かった事から始まります。
永禄3年5月17日、今川軍は沓掛城に入り、
いよいよ織田領へと侵入します。
翌18日の夜には、織田の砦に囲まれていた
大高城に、松平元康と名乗っていた
若き日の徳川家康が兵糧を届けます。
この夜、清州城での評定を早々に切り上げた信長ですが、
19日未明に、今川軍が鷲津砦と丸根砦に攻めかかったとの
報に接すると、飛び起き幸若舞の敦盛を待った後に
数騎のお供を従えただけで、清州城を飛び出しています。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、
夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、
口惜しかりき次第ぞ
そして清州から 熱田神宮に向かい、
朝8時頃に、熱田神宮で戦勝祈願をしています。
清州から直線で7km程の距離の熱田神宮まで
4時間程かけており、この間、どこでどのように
時間を過ごしていたのでしょうか。
熱田神宮の拝殿です。
善照寺砦から桶狭間方面を眺めた様子です。
この時の行軍経路が歴史上の謎になっています。
第二次大戦前の軍参謀本部の研究結果では、
中嶋砦から東に大きく迂回し、今川軍の側面を
突いた奇襲攻撃と結論付けています。
しかし当時の資料としてもっとも信憑性の高い
「信長公記」の記述によると、中嶋砦から
まっすぐに義元本陣を突いたと考えるのが
妥当という事になりつつあるそうです。
義元本陣を攻撃する直前に暴風雨があり
織田軍にとっては僥倖とも言える状況も一因と思いますが、
信長が、出陣した時、どのような成算があったのか、
とても興味が湧いてきます。
そんな桶狭間の戦いの史跡を
紹介しようと思います。
丹下砦 (Tange Fort) |
鳴海城 (Narumi Castle) Mar. 27, '13 |
善照寺砦 (Zenshoji Fort) Mar. 31, '13 |
中嶋砦 (Nakajima Fort) Apr. 04, '13 |
桶狭間古戦場 (豊明市) (Ruin of Okehazama Battle Field in Toyoake) Apr. 14, '13 |
戦人塚 (Sennin Tsuka) Apr. 20, '13 |
高根山 Takane Yama Apr. 24, '13 |
七ッ塚 (Nanatsu Zuka) May 02, '13 |
桶狭間古戦場 (名古屋市) (Ruin of Okehazama Battle Field in Nagoya) May 07, '13 |
長福寺 (Chofukuji Temple) May 19, '13 |
丸根砦 (Marune Fort) June 01, '13 |
鷲津砦 (Washizu Fort) June 14, '13 |
大高城 (Odaka Castle) NEW ! June 29, '13 |
砦公園と記されたこの小さな公園が善照寺砦跡です。
30m四方程の小さな公園でした。
桶狭間の戦いの当日、熱田神宮で戦勝祈願をした信長は
丹下砦を経由し、午前10時頃にはこの善照寺砦に到着し、
ここで兵を整えたと云われています。
小高い丘陵地にある善照寺砦からは
周囲の景色がよく見えます。
この写真は、桶狭間の方向を眺めた様子です。
今川義元が布陣したと言われる通称"おけはざま山"は
その前にある高根山に隠れてしまうそうですが、
合戦当日、信長もきっとこの砦から
その方向を眺めたに違いありません。
こちらは北の方向です。
この眺めはどこにでもある児童公園です。
善照寺砦の東側は、急な崖になっており、
コンクリートの階段が続いていました。
信長は、まさにこの辺りで兵を整えたそうです。
どこにでもあるような小公園でしたが、
桶狭間の合戦の息吹を感じました。
信長は、この善照寺砦に佐久間信盛と弟の信直
守将として残し、中嶋砦へと向かったのでした。
扇川です。
この小川を名古屋鉄道の鳴海駅の方向に向かうと、
2つの小川が合流している地点がありました。
左の写真が扇川、右が手越川です。
この合流地点から手越川沿いに東側に
入ったところに中嶋砦の碑がありました。
桶狭間の戦いでは、善照寺砦で兵を整えた信長は
1000あまりの守備兵を残し、2000程の兵力で
中嶋砦に向かったと「信長公記」に書かれています。
この低地にある中嶋砦は、鳴海城や桶狭間周辺の
丘陵地に展開する今川軍からは一望出来たようで、
家臣らは善照寺砦から中嶋砦に向かう信長を諌め、
馬の轡を掴んで阻止しようとしたようです。
合流地点から西を眺めた様子です。
この写真の右手に鳴海城があるはずですが、
建物が建て込んでいる現在では、
鳴海城址を見渡す事は出来ませんでした。
信長が、この中嶋砦に入ったのが
1560年(永禄3年)5月19日のお昼過ぎです。
信長は、この中嶋砦から今川義元の
本陣に向かって出撃します。
この時、義元の所在地の情報は
どの程度正確に掴んでいたのでしょうか。
出撃した時には、どの程度の勝算があったのでしょうか。
手越川沿いに歩いていくと
民家の庭先に、中嶋砦の碑がありました。
川と川に挟まれたこの辺り一帯が中嶋砦で、
二つの川は中嶋砦の堀の役割を果たしていたと思います。
この辺りはすっかり建物が建ち並んでしまっており、
よくぞ中嶋砦の場所を比定出来たものだと感心してしまいます。
信長が、この中嶋砦から「おけはざま山」に布陣したという
今川義元の本陣まで、どのルートを辿ったのか
明らかになっていません。
近年では「信長公記」から、桶狭間の
丘陵地に展開していた今川軍に、まっすぐ
突き進んでいったとの説が有力になっていますが、
旧東海道に沿う手越川沿いに進んだのか、
手越川の谷間を突っ切り、対岸の丘陵地を駆け上ったのか、
色々説が分かれているようです。
また「信長公記」によると、信長が善照寺砦に入った際、
この中嶋砦から佐々隼人正と千秋四郎の2武将が
今川義元に向けて出撃し、討ち取られたと書かれています。
この時の今川軍の所在も特定されていないようです。
国道一号線の東を眺めた様子です。
この交差点を右手に折れ、丘陵地を上ると
名古屋市の桶狭間古戦場へと至ります。
この写真の奥、坂道を上ると下り坂となり
豊明市の古戦場に辿り着きます。
豊明市の桶狭間古戦場は、丘陵地の狭間にあります。
この古戦場は、谷間の低地に布陣し、休憩中だった
今川義元の本陣を、信長軍が奇襲攻撃したとする
従来の定説には合致する地形や位置にあります。
戦前の陸軍参謀本部の研究でもこの豊明の古戦場を
桶狭間の戦いの場所としているようです。
古戦場に掲げられた桶狭間合戦当日の
織田軍・今川軍の進撃経路を描いた図です。
信長の迂回奇襲説に基づいています。
この豊明市の古戦場の地名が田楽狭間と呼ばれており、
桶狭間の戦いを「田楽狭間の戦い」と称する事もあるようです。
1560年(永禄3年)に今川義元が陣を敷き、
そして戦士した地と記されています。
近年の研究では、この迂回奇襲攻撃は否定されています。
また谷間で、敵に襲われ易い狭間の地に、今川義元が陣を敷く事に
否定的な見解も多く、この田楽狭間の古戦場は、"分"が悪くなっています。
しかしこの古戦場には、1771年(明和8年)に建てられた
七石表や今川義元の墓なども建てられています。
これは、今川義元の戦死した地を示している七石表です。
桶狭間の戦いから120年程経ってから建てられていますが
戦死地を示す最も古い塚だそうです。
こちらは、今川義元の霊を祀るお墓です。
楠の大木が茂る古戦場跡には、この他にも
桶狭間古戦場碑と1809年(文化6年)に
津島の神官氷室豊長が建てた弔古碑がありました。
このような古い碑や今川義元の墓を見ると、この地が、
桶狭間の戦いと何の関係も無かったとは思えません。
この桶狭間古戦場の道路を挟んで西側には
丘陵地の高台に高徳院というお寺がありました。
810年(弘仁元年)に開創された古い寺院ですが、
1884年(明治27年)に高野山からこの地に移されたそうです。
石段を上った境内には今川義元本陣跡の碑もありました。
今川義元が襲撃されやすい谷間に本陣を敷いたと
考えるのは疑問が残りますが、展望の効く
この高台であれば、本陣を敷いた可能性もあります。
高徳院の奥にある斎場に行ってみました。
鳴海城や大高城の方向が見渡せるかなと
思ったのですが、木々に遮られて、
それは出来ませんでした。
この一画だけ、丘陵地を削り残して
公園にしたといった感じでした。
周囲の道路よりも一段と高い戦人塚に
階段を上っていきました。
桶狭間の戦いの戦死者は、今川方2,500名、
織田方は800名を超えると言われています。
その戦死者を葬る為に、
曹源寺快翁和尚が作ったと
現地案内板に書かれています。
蝉しぐれの中、塚の碑に向かいました。
豊明市にある桶狭間古戦場伝承地から
更に東に向かった所に、多くの戦死者を
葬った塚がある事は、隠された真実を
告げているのかも知れません。
戦人塚から桶狭間方向を眺めてみました。
今は住宅で埋め尽くされていますが
当時はどのような眺めだったのでしょうか。
この交差点の西側は鳴海へと続く下り坂ですが、
東側は丘陵地の切り通しとなっています。
当時は、比高20m程の丘陵地が
有松の集落の方に延びていたと思います。
高根山は、この丘陵地の南にあります。
その丘陵地の西側に切り通しの道がありました。
南に向かって少し急な坂道になっています。
この坂道を上り、左手の有松中学校を過ぎると
左手の高根山に向かう、更に急な道がありました。
この道はかなりの急坂で、舗装してあるので
上れそうですが、もし元の地形のままであれば
軍勢が登れる事は出来ないと思います。
この道は行き止まりのようでしたので、
一本南の道を上って、高根山頂にある
有松神社に向かいました。
有松神社に向かう途中の坂道からの眺めです。
大高緑地公園のある丘陵地と
その向こうにある大高城方面の眺めです。
この右手が鳴海城や善照寺砦の方向ですが
そちらは家が建っていてカメラを向ける事は
出来ませんでした。
急な坂道を上り、辿り着いた有松神社です
境内は30m四方程の広さでした。
案内板には、約1000人の松井宗信軍が
布陣したと記されています。
山頂の広さからは、とても1000人もの
軍勢を収容出来ないと思うので、
この山の麓にかけて陣を敷いたのでしょうか。
有松神社から鳴海城や
善照寺砦を眺めてみました。
中嶋砦は、いまは住宅などが建ち込めていますが、
当時は、ここからは信長軍の動きが
手に取るように眺められたと思います。
こちらは高根山の西側の眺めです。
高根山の西側も切れ込んだ谷があり、
その向こうに桶狭間の丘陵地が広がっています。
この谷へと下りる道も急坂でした。
この谷が釜ヶ谷と呼ばれた谷と思います。
名古屋市にある桶狭間の戦い伝承地の
方向を、この谷間から眺めた様子です。
この谷間は、一説には、桶狭間の戦いがあった
1560年(永禄3年) 5月19日正午過ぎ、激しい風雨が有った際に
信長軍が風雨を凌いでいた場所と伝わるところです。
松井宗信がこの右手すぐの高根山に陣を敷いていたとすると
ここに入ってきた信長軍はすぐに攻め込まれてしまった筈です。
これも、個人的には謎に思えます。
高根山の麓では谷間でしたが、この辺りまで来ると
東の丘陵地へと向かう道はなだらかな上り道になっています。
このなだらかな坂の向こうには桜花学院大や
名古屋短大のキャンパスがあり、その東側に
高徳院や豊明市の古戦場伝承地があります。
再び、有松から南に向かう道に戻り、
更に南に向かいました。
なだらかなサミットを越え、池が見えてきました。
池の北の端に佇む小さな祠です。
この池は愛知用水の調整池で、池の東側には
住宅地を流れる愛知用水を見る事も出来ました。
愛知用水を過ぎると、南向きの斜面となります。
この周囲も一面に住宅が建ち並んでいますが
その一角に七ツ塚がありました。
桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取った織田信長は、
この付近に織田軍の全軍を集め、首実検を行い、
その後、戦死者を葬るように村人に命じ、
清州城に戻ったそうです。
地元の古戦場保存会の方が差した
旗指物が無ければこの地を探す事は
不可能だったことでしょう。
唯一残る七ッ塚へは、民家の
庭の中に入っていくようでした。
この通路の先を曲がったところに
七ッ塚がありました。
この古戦場址は、近年になって、それまで定説だった
信長の奇襲攻撃が否定されるようになると、
今川義元戦死の地として脚光を浴びるようになりました。
公園内には今川義元が馬を繋いだと
伝わる杜松の木がありました。
その隣には「駿公墓碣」と記された石碑がありました。
この碑は、杜松の木があった塚の中に埋もれて
いたものが偶然に見つかったものだそうです。
こうした謂れのある碑などを見ると、ここも
今川義元最期の地という感じもしてきます。
この桶狭間公園の南側は近年整備されています。
織田信長と今川義元の銅像です。
桶狭間の戦いに関連するお城や史跡なども、
公園内に模式的に展示されていました。
公園内に掲げられていた
桶狭間古戦場の案内図です。
地元の保存会の方の研究に基づいた
織田軍・今川軍の行軍経路が描かれています。
この図では、名古屋市にあるこの
桶狭間古戦場が主戦場となっています。
今川義元は沓掛城から西に軍を進め
この地に布陣しています。
一方の織田信長は中嶋砦から丘陵地を迂回し、
有松の東にある大将ヶ根から一気に南下し
今川義元を襲った事になっています。
この図は桶狭間公園が義元の本陣との前提に
描かれていると思いますが、信長公記にある
風雨が上がり今川軍に襲いかかった信長軍が
東に向って掛かっていったとする記述とは矛盾しています。
桶狭間公園の南端にも古い石碑がありました。
この近くを流れる鞍流瀬川から発見されたもので、
1816年(文化13年)に建てられたものです。
鞍流瀬川は、桶狭間の戦いで血に染まり
多くの鞍が流された事でその名が付いたそうです。
この名古屋の古戦場公園の近くにある
通称"おけはざま山"に行ってみました。
『信長公記』に、今川義元が布陣した
場所と書かれている山です。
戦国時代以来、おけはざま山と称する山は無く、
この山がどの山かも明確になっていません。
高根山を"おけはざま山"とする説もあるようですが
一般的には、名古屋市の桶狭間古戦場の東にある
標高40m程の山を"おかはざま山"とする説が有力のようです。
桶狭間公園を出て東に向かうと
かなり急な坂が続くようになりました。
この坂を登ると豊明市に入り
丘陵の頂点に立ったようです。
この丘陵地は南北に走り、北に500m程行った
東側に豊明市の桶狭間古戦場があります。
通称"おけはざま山"から、鳴海城や
善照寺砦の方向を眺めた様子です。
高根山から釜ヶ谷を南下した際に感じたように
その方面の展望は途中の尾根によって遮られています。
またこの辺りの斜面は南西の方向を向いています。
この近くには今川義元本陣跡があるというので
その地を探してみました。
桶狭間公園を出た所に地図があったのですが
なかなかその場所が判らずにウロウロと探し歩きました。
今川義元本陣跡は、住宅地の中に有りました。
よほど気が付いていないと通り過ぎてしまいそうです。
この地がどのようにして義元の本陣跡と
比定されたのかは判りませんが、
先ほど記したように、この斜面は南西に向いており
織田軍が兵力を集めていた善照寺砦方面には
やや背を向ける布陣になってしまいそうです。
桶狭間の戦いの2日前の1560年(永楽3年)
5月17日に、今川軍の先発隊として瀬名氏俊
率いる200名が着陣し陣所を築いたとされています。
案内板には、この時2日後の19日の昼食時の
本陣を設定したと書かれていますが、
これはどうでしょうか?
この瀬名陣所跡の南西に大池があります。
この辺りは、丘陵地なのですが
この辺りの田楽坪と呼ばれる一帯は
当時も湿地が多かったようです。
この大池の対岸には、江戸時代に
深夜に大池の畔を通りかかった村人が
今川義元の霊をみたとされています。
大池の東に長福寺の参道がありました。
創建は1537年(天文7年)との事で、
桶狭間の戦いの際には存在していたお寺です。
長福寺の立派な山門です。
この長福寺を創建した善空南立上人は
桶狭間の戦いの際、今川義元がこの地に
着いたと聞き、その労をねぎらい、率先して
食事や酒を提供したと伝わっているそうです。
この長福寺には、今川義元と松井宗信の
木像が安置されているそうです。
また合戦記も納められているという事です。
この合戦記にはどんな事が書かれているのか、
是非読んでみたい気がします。
境内にある杉の木です。
この杉の木の根元のところで、
今川義元の首実検が行われたそうです。
その場所に、供養のために杉が植えられ、
いまは二代目の杉が育っていました。
この奥にあった弁天池です。
江戸時代には「血刀濯ぎの池」と呼ばれていたそうで、
ここで戦いを終えた織田軍の兵士が集まったいたのでしょうか。
桶狭間の戦いに関わる逸話の残る長福寺ですが、
戦いの際には、この長福寺は焼けなかったそうです。
という事は、戦場は長福寺からは離れていたのでしょうか。
そんな疑問を抱えながら、長福寺を辞し、
大池の畔から南へと向かいました。
大池から左程遠くないところにあった桶狭間神明社です。
創建は1340年代の南北朝時代だそうです。
ここは瀬名氏俊が戦勝祈願をしたと伝わります。
神明社の立派な社殿です。
ここは元禄年間には尾張藩四代藩主の
徳川吉通公が参拝し、杉を植えたそうです。
見上げるような急坂を上っていきました。
この急坂を上り、住宅地の向こうに
見えてきた杜が丸根砦跡です。
丸根砦の麓には案内板が掲げられていました。
この丸根砦の位置は、沓掛城と大高城を
結ぶ街道を見下ろす位置にあるようです。
雑木林に覆われた丸根砦の中に入っていくと
視界が広がり、大高緑地公園方面が見えてきました。
この丘陵地の向こうに桶狭間の戦いの際に
今川義元が陣を敷いたというおけはざま山があります。
雑木林の中の階段を上り、丸根砦の頂上を目指します。
上りつめたところは、20m四方程の平らな土地があり、
そこに「丸根砦戦殉難烈古之碑」が立っていました。
当時この丸根砦には佐久間盛重を守将とした
500程の兵が詰めていたようです。
三河物語によると、桶狭間の戦いの前日の
1560年(永禄3年)5月18日に、今川義元は
この丸根砦と鷲津砦を物見し、軍議を開いて
砦攻略の決断をしたとされています。
翌、5月19日の未明、今川軍は攻略を開始し、
朝8時ごろまでには、この丸根砦は陥落し
守兵はすべて討たれようです。
丸根砦の石碑です。
丸根砦を守る佐久間盛重は、5月18日の夕刻に
今川軍の攻撃があると、清州城の織田信長に
知らせを出しますが、援軍が来ないまま
滅びてしまっています。
信長にとっては、華やかな戦果の得られた桶狭間の戦いですが
その陰で、犠牲となっていった多くの命があった事は
あまり知られていないかもしれません。
丸根砦を訪れた後、鷲津砦に向かう途中、
遠く熱田神宮の方向を眺めた様子です。
この右手の丘陵地の向こうに
鳴海城があります。
この地には桶狭間の戦いの当時は
真言宗・長祐寺というお寺があったそうです。
そのお寺が、今川軍の鷲津砦攻撃の際に焼失し、
江戸に入ってから黄檗宗のお寺が建立され、
それが後に、臨済宗に改宗されたようです。
鐘楼を兼ねた立派な門の奥に
静かに本堂が佇んでいました。
この長寿寺の先に小さな公園がありました。
鷲津砦公園とあります。
砦は、この奥の丘陵地にあったに違いなく、
雑木林の中の丘陵地に分け入ってみました。
周辺の丘陵地は軒並み住宅が建ち並んでいて
この辺りだけ雑木林が残されていると、
鷲津砦の遺構も残っているのでは、
と期待も高まります。
しかし、丘陵地の斜面を登るだけで
砦の遺構が残っているようには思えませんでした。
ここは虎口?と思わせるような個所でした。
これ以外には、空堀と思えるような
小さな窪みが目についた程度です。
丘陵地の勾配も緩やかになり
木々も疎になり、周囲も明るくなってきました。
この先にあった表忠碑です。
詳しい表示は無かったのですが
桶狭間の戦いとは関係のない碑の様です。
その近くに、ひっそりと鷲津砦の
碑が立っていました。
碑は丘陵地の斜面の途中といった所にあり、
位置としてはちょっと中途半端な様な気がします。
しばらく歩いていくと、雑木林を
抜け小さな公園に出ました。
ここに鷲津砦の案内板が立っていました。
それによると、桶狭間の戦い当時、ここには
飯尾定宗らが立て籠もっていましたが、
今川義元の家臣・朝比奈泰能の軍に攻められ
全滅したといわれているそうです。
この案内板にも、鷲津砦の境は明確でないと
書かれていますが、実際には丘陵の頂上近い
この地よりも少し東にあったような気がします。
でも、この周辺に砦が築かれ、今川軍によって
攻め滅ぼされたのは確かな事でしょう。