名古屋
Nagoya, Japan

名古屋は言わずと知れた日本第四の都市。
人口200万人を擁する大都会です。
その昔から江戸や大阪とは異なる
独自の文化が栄えた都市です。


実際、名古屋の見所というと、名古屋城の他、
東山公園、テレビ塔、名古屋港、熱田神宮、
有松宿、大須観音、徳川美術館などがあります。


有名な観光名所は少ないのですが、
さすがに三英傑を輩出した街だけあり、
市内の至る所に見所があります。

また、食べ物に関してはユニークな
名産が沢山有ります。
食文化に関しては江戸時代の
特色を残しているようです。

そんな名古屋の見どころを紹介しようと思います。


栄・TV塔
(Sakae & TV Tower)
Mar. 05, '13


名古屋城
(Nagoya Castle)
Revised ! Sep. 08, '21


本町通り
(Honmachi Street)
May 23, '20


大須界隈
(Osu Area)
May 20, '20


東別院
(Higashi Betsuin Temple)
May 15, '20


熱田神宮
(Atsuta Shrine)
Mar. 05, '13


熱田湊
(The Port of Atsuta)
May 11, '20


名古屋港
(Nagoya Port)
Mar. 05, '13


東山公園
(Higashiyama Zoo)


中村界隈
(Nakamura Area)
Oct. 18, '19


笠寺界隈
(Kasadera Area)
Mar. 24, '13


有松
(Arimatsu)
Apr. 07, '13

桶狭間古戦場はこちらのページで紹介しています:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Chubu/Okehazama.html

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栄・TV塔

名古屋の中心は栄です。
南北に道幅100メートルの久屋大通りが走り、
その中央にテレビ塔が建っています。


こちらは、久屋通りの東にある
オアシス21からのTV塔の夜景です。


TV塔は1953年(昭和28年)に着工し、
翌1954年(昭和29年)に竣工しています。
高さ180mの日本で最初の集約電波塔という事です。

久屋大通りの真ん中にあるTV塔の下のカフェです。


ここから3Fにあるスカイターミナルまで
エレベーターで上がる事が出来ます。

久屋通りの中央部は公園の様になっており
庭園の様に疏水が流れていました。


久屋大通の下には名古屋市営地下鉄名城線が走り、
久屋大通駅から栄駅にかけて地下街も続いています。


その地下街の出入り口は、ステージの様に
なっており、週末にはイベントも開かれています。

TV塔から南に向かい、名古屋の中心街を
東西に貫く錦通の南には、これまた
名古屋の名物になっている噴水もあります。


噴水越しに眺めるTV塔です。

この噴水の南側には、
いくつものデパートが建ち、
名古屋一の繁華街となっています。

大須は名古屋の繁華街・栄から地下鉄名城線で
二駅南の上前津駅から、鶴舞線の大須観音駅
周辺一帯を地域をさしています。

地下鉄・鶴舞線の大須観音駅から程近い所に
大須観音があります。


夜の帳が下りる頃の栄の様子です。

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本町通り
(Honmachi Street)

本町通は、名古屋城から熱田神宮や熱田湊に至る、
名古屋の市街地を南北に貫く通りです。

熱田神宮の様子はこちらです。
熱田湊の様子はこちらです。

道幅の広い通りが多い名古屋の街では、片側一車線の
本町通は目立たない道幅の狭い通りで、繁華街も
本町通からは離れた所にあります。

しかし、江戸時代には本町通は名古屋一の目抜き通りで、
大店は競って本町通に面してお店を構えたそうです。


撮影: 2011年7月

現在の本町通は、伏見通と山王通の交差点から
少し北にいった所が南の端になっています。

本町通から西側に少し入った所に日置神社がありました。


撮影: 2011年7月

延喜式にも載る歴史ある神社で、桶狭間の戦いの際に
熱田神宮の前に信長はここでも戦勝祈願しています。


撮影: 2011年7月

尾張藩二代藩主・光友公を祀る橘社がありました。
透かし彫りの葵の御紋が見事です。

光友公は多くの寺社の造営を図ったり、
火災で焼失した藩邸の再建も行った為、
尾張藩の財政が傾いたそうです。

日置神社を出て、本町通を北に向かうと
大須の商店街に入りました。


撮影: 2011年7月

大須は昔ながらの商店街で賑わう街です。

大須の様子はこちらです。

仁王門通りアーケード街を抜けると、
富士浅間神社がありました。


撮影: 2011年7月

1495年(明応4年)に後土御門天皇の命で
駿河の浅間神社から勧請して建立されたそうです。

建物の間にひっそりと古墳がありました。
6世紀に造られた那古野古墳です。


撮影: 2011年7月

大都市の中心部近くに古墳が残っているのも
驚きですが、この近くには他に二基の
古墳があったようです。

大須の一角を抜けると、道幅100mの若宮通を横切り、
白川公園横のオフィス街を抜けていきます。
その先に広小路通との交差点がありました。


撮影: 2011年7月

上の写真は9年前ですが、建物は取り壊されています。
やはり都市の変貌の移り変わりは早いと実感します。

この先で錦通を横切りました。


撮影: 2011年7月

名古屋の中心街は、南から広小路通、錦通、
そして桜通と3つの通りが東西に走っています。

錦通を過ぎた辺りが錦二丁目で、1610年(慶長15年)に、
名古屋城築城に伴い移転するまで、萬松寺があった所です。

萬松寺は、信長の父・織田信秀が建立した
お寺で、信秀の葬儀が行われたお寺です。

信秀の葬儀の際、荒縄を腰に巻き付け、髪を茶筅の
ように束ねた格好で、遅れてやって来た信長が、
抹香を掴んで信秀の位牌に向けて投げつけたのが
この地になります。


撮影: 2011年7月

この先で桜通を渡りました。
桜通の北側は、オフィスとマンションの建ち並びます。

ビル街を抜けると高速道路の高架橋が見えてきました。


撮影: 2011年7月

この通りが外堀通で、通りの北側に外堀が続いています。
深く幅の広い名古屋城の外濠です。


撮影: 2011年7月

名古屋城の登城記はこちらです。

この外濠には、1976年(昭和51年)まで
名鉄瀬戸線の電車が走っていました。

廃止から45年程の年月が経ち、濠は自然に還り、
今ではこの外濠で蛍がみられるそうです。


撮影: 2011年7月

外濠に沿って名古屋城三之丸の西南角に来ました。
ここには御園御門跡の石垣が残っていました。


撮影: 2011年7月

堂々とした石垣で、当時は立派な
櫓門が載っていたと思われます。

名古屋城の外濠の様子は こちら です。

御園御門跡から再び本町通に戻ります。
その途中、外濠の南側に名古屋東照宮がありました。
その境内の南側に明倫堂跡の碑がありました。


撮影: 2011年7月

明倫堂は尾張藩第九代藩主の徳川宗睦が
1783年(天明3年)に建てた藩校です。
この藩校には武士だけでなく、農民や
町人も講義に参加する事が出来たそうです。

そしてこちらが東照宮の社殿です。


撮影: 2011年7月

元々東照宮は名古屋城三之丸にありましたが、
陸軍の名古屋鎮台を名古屋城内に配置する為、
1875年(明治8年)に藩校だった明倫堂跡に
移転されます。

そして1945年(昭和20年)の第二次大戦の
空襲で国宝の社殿は焼失してしまいます。
現在の社殿は、初代藩主の徳川義直公の
正室・嵩原院の霊屋を移築しています。

東照宮の隣には那古野神社がありました。


撮影: 2011年7月

那古野神社は911年(延喜11年)の創建で、
名古屋城築城の際も移転する事無く、
三之丸にあったそうです。

1876年(明治9年)に現在地に移転しています。

本町通と外堀通の交差点の様子です。


撮影: 2011年7月

この先が、多くの官公庁の建物が
建ち並ぶ、名古屋城三之丸です。


撮影: 2011年7月

三之丸跡に入った所に本町門跡の石垣が残っていました。

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大須界隈
(Osu Area)

大須は、大須観音などの門前町として発達した街です。
名古屋の繁華街と言えば、栄や名駅と呼ばれる
名古屋駅周辺ですが、大須は賑わいのある
アーケード街として知られています。

大須は、名古屋の繁華街・栄から地下鉄名城線で
二駅南に行った上前津から、地下鉄鶴舞線の
大須観音駅一帯の地域を差しています。

大須の発展の礎の一つとなった大須観音は
地下鉄大須観音駅を出てすぐの所にありました。


撮影: 2011年7月

大須観音で知られるこのお寺の正式名称は
北野山真福寺宝生院というそうです。

1324年(元享4年)に後醍醐天皇の勅命で、今の
岐阜県羽島市大須に北野天満宮が造営され、
1333年(元弘3年)に北野天満宮の別当寺として
真福寺として創建されています。


撮影: 2011年7月

名古屋に移転したのは1612年(慶長17年)の事です。
大須観音の堂宇は、1892年(明治25年)の大火で焼失し、
その後再建されますが、1945年(昭和20年)の
第二次大戦の空襲で再び焼失していまいます。

現在の本堂は1970年(昭和45年)に
鉄筋コンクリート製で再建されています。

大須観音の近くから大須商店街の
アーケード街が続いています。


撮影: 2011年7月

アーケード街の入り口近くに、名古屋の
銘菓の外郎の老舗のお店がありました。


撮影: 2011年7月

"くやしかったら言ってみな、
白・黒・抹茶・あずき・
コーヒー・ゆず・桜"

このCMは名古屋の人なら誰もが
知っている曲と思います。

大須のアーケード街の様子です。


撮影: 2011年7月

戦後も賑わっていた大須の商店街ですが、1960年代
半ばには廃れ、シャッター街になっていましたが、
1975年(昭和50年)頃から、地元の名城大学の
助教授や学生の活動で、色々なイベントが
催され、活気を取り戻したそうです。

商店街の脇に、清寿院の柳下水がありました。


撮影: 2011年7月

この柳下水は、名古屋三名水の一つと
言われた井戸水で、将軍家の上洛の際には、
飲用水として用いられたそうです。

清寿院は、江戸時代には広大な敷地を有し、
芝居興行の場所としても賑わったそうですが、
1872年(明治5年)に廃寺になっています。

大須仁王門通のアーケードから
東仁王門通のアーケードに入りました。


撮影: 2011年7月

こちらも多くの人が居て賑わっていました。
地元サッカーチームの名古屋グランパスも
2019年4月に、ここ東仁王門通りに
オフィシャルショップを開店しています。


撮影: 2011年7月

東仁王門通から、大須ふれあい広場を経て
新天地通商店街に入って少し行った
ところに萬松寺がありました。

アーケード街に面した萬松寺です。


撮影: 2011年7月

萬松寺は1540年(天文9年)に信長の父で、当時
古渡城主だった織田信秀が創建したお寺です。

古渡城の登城記はこちらです。

創建当時は、名古屋城の1kmほど南、現在の
中区錦二丁目、三丁目周辺に七堂伽藍を
備えた大きなお寺だったようです。

1610年(慶長15年)に、名古屋城築城に伴い、
現在地に移転されています。
当時の境内は二万三千坪にも及んだそうです。

アーケードに面して、白雪稲荷があります。


撮影: 2011年7月

提灯が沢山飾られた白雪稲荷は、萬松寺が
創建される1000年も前に住んでいた
白狐が祀られていたものだそうです。

こちらは不動堂です。


撮影: 2011年7月

1570年(元亀元年)、織田信長が杉谷善住坊という僧に
狙撃された事がありましたが、その時、弾は信長の
懐にあった餅に当たり、事なきを得たそうです。

これが日頃、信長が信仰を寄せていた不動明王の
ご加護であるということで、この不動明王は
身代わり不動として信仰を集めているそうです。

提灯がいくつも飾られ、他のお寺とは異なる
独特な雰囲気でエキゾチックな萬松寺です。

白雪稲荷の隣に織田信秀公の廟所へと
繋がる通路がありました。


撮影: 2011年7月

この薄暗い通路も、織田家の家紋の木瓜紋が入った
提灯が蝋燭の灯りでほんのりと周囲を照らしていて、
その様子も、またエキゾチックな雰囲気でした。


撮影: 2011年7月

信長の父・信秀の葬式の際、喪主の信長は、荒縄を
腰に巻き付け、髪を茶筅のように束ねた格好で、
遅れてやって来ると、抹香を掴んだかと思えば、
それを信秀の位牌に向けて投げつけた。。。

この逸話をご存知の方も多いかと思いますが、
信秀の葬儀はこの萬松寺で行われています。

場所は移転前の、名古屋市中区錦二丁目辺りでしたが、
この有名な出来事が萬松寺で起きたとは知りませんでした。

通路を抜けた先にあった織田信秀公の墓碑です。


撮影: 2011年7月

織田信秀公の墓所は千種の桃巌寺にもあるそうです。

信秀は、尾張の守護代織田家の庶流の立場から
尾張一国を統治するまでに勢力を伸ばしています。

「大うつけ」と呼ばれた信長を終始後継者としており、
二人の間には信頼関係があったのではないでしょうか。

萬松寺の本堂です。


撮影: 2011年7月

鉄筋コンクリートの本堂は少々味気ないですが、
玄関の2階にはからくり人形が登場する扉があります。

からくり人形は織田信長で、父・信秀の
葬儀の場で抹香を投げつけるシーンと、
桶狭間の戦の際、清洲城から出陣する前に
踊った幸若舞が演じられるそうです。

人間50年 下天の内をくらぶれば
夢幻の如く成 一度生を得て
滅せぬ者の有るべきか

信長が本能寺で命を落としたのは、
50歳になる一年前の事でした。

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東別院

東別院は、名古屋の中心・栄から
大津通を南に下った所にあります。

東別院は真宗大谷派のお寺ですが、名古屋の人には
地下鉄名城線の駅名として広く知られています。

地下鉄の東別院駅から名古屋都市高速の高架橋のある
山王通を少し西に行くと東別院があります。


撮影: 2011年7月

境内の前には立派な山門(左手前)と中門(右奥)がありました。

東別院の正式名は真宗大谷派名古屋別院というそうです。
創建は1690年(元禄3年)に東本願寺の一如上人によるものです。


撮影: 2011年7月

創建時の立派な伽藍は第二次大戦まで残っていた
そうですが、戦禍で焼失してしまっているそうです。
現在見る建物は1962年(昭和37年)に建てられています。

広い境内に堂々とした本堂や対面所の
建物が建つ様子はとても壮大でした。

この境内の一角に古渡城の案内板がありました。

東別院は、信長の父・信秀が1534年(天文3年)に
築城した古渡城の城址に建立されたようです。


撮影: 2011年7月

古渡城は東西140m、南北100mもの広さがあり、
館城としてはかなりの規模と思います。

信秀は、1548年(天文17年)に末森城を築城すると
そちらに居城を移し、古渡城は廃城となりました。

古渡城は、尾張の古城のページでも紹介しています。
古渡城の登城記はこちらです。

境内の鐘楼です。


撮影: 2011年7月

鐘楼は第二次大戦で焼失し、戦後に再建されていますが、
梵鐘は江戸時代の1692年(元禄5年)に鋳造されたものです。

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熱田神宮
(Atsuta Shrine)

熱田神宮は、113年(景行天皇43年)に
創建されたと伝わる歴史の古い神社です。
熱田大神を主祭神とし、三種の神器の一つ、
草薙の剣をご神体としています。

熱田神宮は名古屋市南部にあり、
JR東海熱田駅と名古屋鉄道神宮前駅から
歩いて5分程の所に位置しています。

今は周囲は住宅やビルで囲まれていてよくは
判らないのですが、熱田神宮はJR東海道本線や
名鉄名古屋本線と比較すると微高地にあり、
古代は伊勢湾に突き出た半島にあったようです。

上の地図で、堀川や新堀川が入り江だったと
考えると判りやすいかも知れません。


熱田神宮の広い境内には、別宮やいくつもの
摂社があり、歴史と格式の高さを感じます。

まずは正門である第一鳥居のある
南側からアプローチしました。


歴史を感じる素朴な鳥居です。

この鳥居の左手に
上知我麻神社がありました。


祭神は尾張国造「乎止與命(おとよのみこと)」で、
知恵の文殊様として知られているようです。

こちらが、別宮の八剣宮です。


708年(和同元年)に宝剣を新たに
鋳造した際に創祀されたそうです。

この上知我麻神社や八剣宮のある一画は
参拝客は少なく、ひっそりとした佇まいでしたが、
熱心にお参りしている人の姿も見かけました。

第一鳥居から北に真っ直ぐに続く
参道を歩いていくと、左右からの
参道との交差点に出ます。


右に折れると東門に至り、
左に折れると西門に至ります。

この近くに高さ8.25mの大きな燈籠がありました。


今の名古屋市昭和区にあった
御器所城・城主の佐久間盛次の
四男・大善亮勝之が寄進したものです。

大善亮勝之は海上で台風に遭った際に
熱田神宮の守護を祈り難を逃れたという事です。

この近くには二十五丁橋と呼ばれる石橋もありました。


名古屋最古の石橋です。
平安末期に、西行法師もこの
石橋の上で休んだと伝わっています。

この先にあった第二鳥居をくぐっていきます。


このすぐ近くにあった大楠です。


樹齢千年、弘法大師のお手植えと伝わっているそうです。
信長も家康も、この楠を目にしたのでしょうか。

大楠の北側には、古びた
土塀が参道の左右にありました。

他の参拝客の人は気に留めていないようでしたが、
この土塀は織田信長寄進の「信長塀」です。


1560年(永禄3年)5月19日未明、今川義元の軍勢が
織田領に迫っているとの知らせを受けた信長は
僅かなお供を連れて清州城を出陣し、
この熱田神宮で戦勝祈願を行っています。

その後、桶狭間で今川義元の首級を挙げた信長は
この塀を寄進し、そのお礼を行ったという事です。

この塀は日本三大塀の一つとも言われています。

この信長塀の裏側に西楽所
という古い建物がありました。


1686年(貞享3年)に、五代将軍綱吉公が
再建したもので、5月1日の舞楽神事の際に
ここで楽を奏するという事です。

この先にある第三鳥居です。


ここを抜けるといよいよ
本宮の拝殿が見えてきます。

2009年に再建された本殿と拝殿です。


年始には多くの参拝客で、ごった返す拝殿前。
早朝にここを訪れると、静まり返り
厳かな雰囲気を感じる事が出来ます。

歴史の古い熱田神宮には、桶狭間の戦いの際の信長の
逸話だけでなく、それ以前には、今川に送られる
筈だった家康が渥美半島の戸田氏によって攫われ、
このすぐ近くで2年間の人質生活を送ったことなど、
あまり知られていない史実にも関連しています。

また源頼朝は、この熱田神宮の近くで生まれています。

頼朝の父は、源義朝ですが、母は熱田神宮の
大宮司藤原季範の娘の由良御前とされています。

頼朝が生まれたところとされる誓願寺門です。


由良御前は、頼朝を身ごもり、実家に戻り
1147年(久安3年)に頼朝を出産しています。

調べてみると、頼朝は源氏の
後継者ですが義朝の三男です。

母の位が他の兄妹に比べ高かった為に源氏の
後継者となり、後に鎌倉幕府を開く事になったようです。

名古屋というと、信長・秀吉・家康の三英傑が有名ですが、
源頼朝も、加えた四英傑とした方がいいかもしれないです。

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熱田湊

熱田湊は、熱田神宮から南に500m程った所にあります。

今は、埋め立てられて、周囲やその南にも住宅地や
工場地帯が広がっていますが、江戸時代は海岸に
なっていて、当時の東海道はここから桑名まで、
渡し船で往来していました。

熱田神宮の第一鳥居から熱田湊を目指しました。
第一鳥居を出てすぐに、ひつまぶしで有名な
蓬莱軒のお店がありました。

熱田神宮の散策記子はこちらです。


撮影: 2011年7月

ここから伏見通を南に下り、
内田橋北で西に折れると熱田湊です。


撮影: 2011年7月

当時の波止場は小公園として整備されています。
今の熱田湊は、堀川と新堀川という二つの運河が
東西から合流し、南の名古屋港に流れるという
T字状の合流地点にあります。

下の写真は熱田湊の東側、新堀川に
架かる内田橋からの眺めです。


撮影: 2011年7月

この日は、気持ちよく晴れた夏の日で
青い空と川面が気持ち良かったです。

熱田湊の跡には当時の常夜灯が残されていました。
1625年(寛永2年)に犬山城主・成瀬正房が
建立したものだそうです。


撮影: 2011年7月

犬山城の登城記はこちらです。

この常夜灯からは堀川が南に真っすぐに伸びています。
常夜灯の右手が七里の渡しの波止場跡の様です。
堀川の先には、東海道新幹線の鉄橋も見えています。


撮影: 2011年7月

東海道新幹線の車内からこの熱田湊の
様子も遠くに見る事が出来ます。

常夜灯の近くには鐘楼もありました。


撮影: 2011年7月

元々は1676年(延宝4年)に建てられたものだそうで、
鐘楼は第二次大戦の際に焼失しているようです。
鐘は近くの蔵福寺に残っているようです。

熱田湊の公園には1959年(昭和34年)に東海地方を襲った
伊勢湾台風の浸水被害を示した図も掲げられていました。


撮影: 2011年7月

肌色から赤色まで段階的に色付けされた
部分が当時の浸水した深さを示していますが、
この界隈でも2.5m程の水が浸かったようです。

この図の浸水地域を見て気が付いたのですが、
浸水した所は江戸時代以前には埋め立てられて
おらず、海だった所とほぼ一致しているようです。

熱田神宮は、半島状に南に突き出した
台地の先端にあったことがうかがえます。

桶狭間の戦いの際、今川軍が大高城に進軍したとの
知らせを受け、織田信長は居城の清洲城を飛び出し、
戦地に向かう前に熱田神宮に先勝祈願をしています。

熱田神宮から大高城までは海を隔てて6km程の
距離ですので、信長はその際にこの辺りから、
大高城の戦況を伺った事と思います。

桶狭間古戦場の様子はこちらです。

近くに熱田湊の碑があり、そこに
当時の湊の様子が描かれていました。


撮影: 2011年7月

熱田湊には宮宿もありました。
宮宿は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒もあった
東海道最大の宿場で、七里の渡しの船待ち客だけで
なく、美濃街道や佐屋街道との分岐点だった為、
多くの旅人が集まっていた事でしょう。

熱田湊の公園から道を隔てた反対側に、
当時の脇本陣が残っています。
下の写真右側の建物がそれです。


撮影: 2011年7月

いつ建てられたのは不明だそうですが、
幕末に発行された尾張名所図会には
この建物が描かれているそうです。

その左隣の建物は、熱田荘という建物です。
こちらは明治になって料亭として建てられましたが、
江戸時代の町屋の形式を備えたものだそうです。

熱田湊から熱田神宮に戻る際に、宝勝寺に立ち寄りました。
熱田湊の常夜灯の管理を尾張藩から任されていたお寺です。


撮影: 2011年7月

伏見通の近くには円福寺があります。


撮影: 2011年7月

ここは1319年(元応元年)に足利氏一族の
厳阿上人が開基と伝わります。

足利氏と所縁の深いお寺だったのか、
1432年(永享4年)に時の将軍・足利義教が
富士遊覧の際に三日間逗留したそうです。

この近くには、今川氏に人質になる筈だった
6歳の家康が、駿府に向かう途中で渥美半島の
戸田氏に攫われ、その後、信長の父・織田信秀に
引き渡され、2年間幽閉された屋敷跡があります。

この時には立ち寄らなかったので、
いつか訪れてみたいです。

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名古屋港界隈

名古屋の中心、栄から地下鉄に乗り、
南に向かった終点が名古屋港です。

この界隈には水族館などの観光施設があります。


名古屋港水族館のシャチの様子です。

こちらはポートビルです。


その近くに停留している南極観測船「ふじ」です。


南極観測船「ふじ」は、1965年(昭和40年)から
1983年(昭和58年)まで活躍し、1985年(昭和60年)から
このガーデンふ頭で係留されています。

ちなみに、「ふじ」は二代目の南極観測船です。
初代の「宗谷」は東京・お台場で展示されています。

東京・お台場の様子はこちらです。

名古屋港から眺める名港大橋です。


この日は、陽が良く差し込み
海も輝くような眺めでした。

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中村界隈

名古屋の地下鉄東山線を西に向かうと、
名古屋駅から4つ目の駅が中村公園です。


撮影: 2011年5月

中村公園で下車し、地上に出ると
大きな鳥居が立っていました。
豊臣秀吉を祀る豊国神社の大鳥居です。

高さが24mあり、平安神宮の大鳥居と
同じ高さで、建造された当時は
世界一の高さだったそうです。

中村公園駅から北に延びる広い
道路の先に、豊国神社があります。


撮影: 2011年5月

豊国神社は京都や大阪にもありますが、
名古屋の豊国神社は1885年(明治18年)に
当時の県令の肝いりで建てられたようです。

豊臣秀吉は1537年(天文6年)に現在の
名古屋市中村区で生まれたと伝わっていて、
豊国神社はその生誕地跡に建てられています。


撮影: 2011年5月

境内の敷地の前の鳥居をくぐった様子です。
歴史の浅い神社ですが、木々が茂り、
境内は厳かな雰囲気です。


撮影: 2011年5月

参道の右手に「秀吉のなかまたち」
という彫刻がありました。

中央に立っているのが秀吉で、周囲の4人は
秀吉子飼いの武将だった、加藤清正、
福島正則、前田利家でしょうか。

もう一人は、蜂須賀小六かもしれません。

豊国神社の拝殿です。


撮影: 2011年5月

神社の社殿は思いがけず質素なものでした。

拝殿の脇には秀吉の肖像画が
掲げられていました。


撮影: 2011年5月

豊国神社の境内にはいくつか池がありました。


撮影: 2011年5月

本殿の左手の、ひょうたん池の様子です。
瓢箪は、秀吉の馬印でした。

そして本殿の右手には秀吉の生誕地の碑がありました。
秀吉の前半生は、記録には残っておらず、出自は
最下層の百姓の倅だったとも言われています。


撮影: 2011年5月

その最下層出身の秀吉が、乱世の世とはいえ、
天皇に次ぐ関白の地位にまで昇りつめたのは
日本の歴史上で唯一無二の事です。

秀吉が出世出来たのは、織田信長に仕え、
引き立てられた事が大きな理由であるのは
間違いありません。

秀吉が織田信長に仕えた当時の信長は、
織田家の家督を相続したものの、まだ
尾張をまとめ切ってはおらず、その信長に
仕えたのは秀吉の先見性だったと思います。

豊国神社の境内には秀吉の親戚にあたる
木下長嘯子(ちょうしょうし)・勝俊の
住居跡の碑がありました。


撮影: 2011年5月

木下長嘯子は秀吉の正室・北政所の甥で、
若狭9万石を拝していたそうですが、
関ヶ原の戦いの後、所領を失っています。

この東側に常泉寺がありました。


撮影: 2011年5月

寺の号は「太閤山」で、その名から
判るように、このお寺も秀吉所縁です。

このお寺の境内も秀吉誕生の碑があり、
秀吉像と産湯に使われた井戸もありました。


撮影: 2011年5月

この常泉寺は、秀吉が小田原征伐から
凱旋した際に、建立を命じたそうですが、
その際に、良く繁っている柊を見て、
11歳の時に植えたと語ったそうです。

常泉寺の南には妙行寺があります。


撮影: 2011年5月

この妙光寺は、秀吉子飼いの加藤清正の
誕生地に建立されているそうで、
境内にその碑がありました。


撮影: 2011年5月

清正は日蓮宗の熱心な信者でしたが、
妙光寺はその日蓮宗のお寺です。

加藤清正の供養塔のある東京の
池上本願寺の様子は こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kanto/Tokyo/Ikegami.html

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笠寺観音

名古屋の市街地の南に笠寺観音があります。

正式名称は天林山笠覆 (りゅうふく) 寺といい、
禅光上人が天平年間に創建したと伝わります。
今から、1400年近く前の8世紀半ばの事です。
十一面観音が祀られています。

笠寺観音へは西門から入りました。


西門から入ってすぐに、行者堂・
延命地蔵堂・白山社と3つのお堂があります。


行者堂は役行者を祀るお堂で、その傍らに
江戸中期の俳人・暁台の塚がありました。

"さむ堂や ただ暁の 峰の松"

この南側には阿弥陀如来を祀る
多宝塔がありました。


更に、奥に向かうと笠寺観音の
本堂が見えてきました。


鮮やかな赤い幟に囲まれています。

笠寺観音は名の知られたお寺ですが、
長い歴史の中では荒廃時期も多かったようで、
創建から200年程経った平安時代中期頃には
早くも荒廃していたようです。

その頃、鳴海長者・太郎成高に仕える美しい娘が
雨に打たれる観音様に、自分の笠を被せたそうです。

この娘は後に、関白・藤原基経の息子の藤原兼平に
娶られ、玉照姫と呼ばれるようになったそうです。
930年(延長8年)に、藤原兼平・玉照姫夫妻は、
堂宇を建て、その観音様を安置したそうです。


その玉照姫・兼平公を祀るお堂がありました。

これ以前、お寺は小松寺と呼ばれていましたが、
この故事にあやかって、それ以降、笠覆寺と
呼ばれるようになったそうです。

笠寺観音は、その後再び荒廃したようで、
1238年(嘉禎4年)に阿願上人が再興したとの事です。
江戸時代に入ってから多くの堂宇が再建されています。


江戸時代末期の笠寺観音の様子です。
境内には多くの人の姿があり、
この時期は賑わっていたようです。

本堂の奥にも、お堂がありました。


医王殿(左奥)と善光寺堂(右手前)です。
その間には芭蕉の句碑と宮本武蔵の
供養碑がありました。


芭蕉の句碑は千鳥塚と呼ばれ、
芭蕉直筆の句と手鏡を納めた石棺の上に
碑が建てられているそうです。

芭蕉の36回忌に建てられたこの碑は
日本最古の句碑だそうです。

笠寺観音の南に建つ、立派な山門です。


この山門前を通る道が旧東海道です。


この道を東に進むと鳴海へと行くことが出来ます。

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有松

有松は、名古屋の南東にあり、
旧東海道に沿った集落です。

鳴海から旧東海道を東に向かい、
名鉄名古屋本線・左京山駅を過ぎ、
高速道路の驚くような巨大な橋桁をくぐると
左手の丘陵地に祗園寺が現れました。


階段を上ったところの門が閉ざされているようで、
その前を通り過ぎてしまったのですが、
高台の門の前からの眺めは良かった事でしょう。

この祗園寺が有松の集落の入り口にあたります。

狭い旧東海道の両側に、古い
家並みが続く有松の集落です。


集落に入ってすぐに神功皇后車
山車の庫がありました。


この山車は、明治に入ってから、
この有松で作られたそうです

山車庫の隣に続く古風な建物は小塚家住宅です。


名古屋市の文化財に指定されています。

江戸時代初め、丘陵地帯の間にあるこの辺りは
人家もなく、治安の悪いところだったようです。

その有松が栄えるきっかけになったのは
1608年(慶長13年)に尾張藩が新しい住宅地として開拓し、
その直後の名古屋城築城の際に九州の人の絞り染めを見た
竹田庄九朗が、絞り染めを始めた事です。

尾張藩が有松絞を保護した事もあり、
江戸時代を通じて有松は栄えたそうです。


当時は旅人が行き交い、有松絞の製品を
売り買いする人で賑わった有松の集落も、
今は通りを歩く人もなく、静かでした。

この建物は岡家住宅です。


漆喰で固められた塗篭造りと呼ばれる様式の建物で
有松の絞り問屋の典型的な形態だそうです。

そして、街道の南側に立派な
蔵を持つ邸宅が現れました。


この建物は有松絞を始めた
初代竹田庄九朗の家だそうです。

奥には書院などもあるようで、
さすがに一際立派な建物でした。

この先で、有松駅に向かう広い道と交差し、
再び有松の集落が続きます。

再び現れた立派な土蔵の建物は
神半邸と思います。


そして卯建も上がり、白漆喰の
土蔵の邸宅は服部家住宅です。


有松の集落には江戸時代からの立派な町屋が
いくつも建ち並び、時代が遡ったかのような
雰囲気の町並みでした。

ここが200万都市にあるとは思えない雰囲気です。

ちなみに桶狭間古戦場はこの有松の
南東の丘陵地だったと言われています。

当時有松は、人家の無い丘陵地の谷間でしたが、
この地を、信長が駆け抜けた可能性は高いと思います。

桶狭間古戦場の様子はこちらです。

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