東京 / 台場
Daiba in Tokyo




お台場というと、東京湾の埋め立てで出来た
人工島を思い浮かべる人が多いかと思います。

フジTVや、日航ホテルや温泉施設、大観覧車もあり、
お洒落なオフィス街と観光施設が一体に
なった人気スポットになっているようです。




このお台場は元々は幕末にペリー来航の後に
江戸湾防御の為に築かれた台場が地名になっています。

そんな変貌激しいお台場の様子を紹介します。



お台場海浜公園







お台場の散策は「ゆりかもめ」の台場駅から始めました。
ゆりかもめの乗車記はこちらです。

台場海浜公園駅から浜辺の方向へと向かいました。

近くにはフジテレビの奇抜なビルやホテル、
レストランとお洒落な雰囲気です。

自由の女神もありました。



これは日本でのフランス年事業の一環として、
1998年4月29日から1年間程、設置されていた
自由の女神が好評だった為、その後、
フランス政府からレプリカの制作が認められ、
2000年に設置されたものだそうです。

最初にこの自由の女神を見たときには、
ちょっと違和感を覚えたのですが、
フランス政府も承認したものでした。

自由の女神を過ぎ、浜辺に出ると、
磯の香りが漂い、綺麗な砂浜が広がっていました。



浜辺の沖にレインボーブリッジが見え、
その下に石垣で囲われた島か見えています、
この島が、徳川幕府によって作られた台場です。

砂浜で佇むカッブルを横目に台場を目指しました。



砂浜に沿って歩くうち、フジTVの本社ビルが
入り江の向こうに見えています。

この入り江には蜆が放流され、
潮干狩りも出来るようです。



レインボーブリッジがすぐ近くに見えていました。






お台場夜景


この台場はレインボーブリッジや、
海を隔てて東京の高層ビル群を望み
夜景の綺麗なところです。

東京国際展示場に出張した際、
この台場からの夜景を眺めてみました。

まずフジテレビの本社ビルの
展望台に行ってみました。



日光ホテルの向こう、天王洲のビル群の
向こう側に夕陽が沈んだところでした。

陽が沈み、暮れなずむ夕暮れ時
次第しだいに高層ビル群の
夜景が輝き始めました。



レインボーブリッジの向こうに
東京タワーも輝いています。


空が暗くなりきらないうちに
台場の浜辺に行ってみました。



ここは、レインボーブリッジと
東京の夜景が目の前に迫っていました。

昔、ハドソン川の対岸からNYの
夜景を眺めた事がありますが、
この眺めはそれに匹敵すると思います。



自由の女神もライトアップされ
黄金色に輝いていました。

この台場からの夜景がこれ程
素晴らしいとは思いませんでした。



「ゆりかもめ」の台場駅に向かう途中に眺めた
フジテレビ本社ビルと「ゆりかもめ」です。

「ゆりかもめ」の乗車記は
こちらです。

大都会・東京の素晴らしい
夜景を堪能出来ました。



第三台場


お台場海浜公園の海岸線に沿って歩くと、
砂浜の先端の第三台場にたどり着きました。




海面から5メートル程の高さに石垣が積まれ、
その上に土塁が築かれています。



アメリカのペリー総督が4艘の軍艦を率い、
江戸湾深く侵入したことに驚いた幕府は、
その翌月の1853年(嘉永6年) 8月には台場の着工し
1年3ヶ月の間に6基の台場が完成したそうです。

ベリー来航の一ヶ月後に工事開始されており、
当時の徳川幕府の慌てようが偲ばれます。

この工事を担ったのは江戸湾防衛の任を負っていた
伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍です。
総工費は75万両だったそうです。

伊豆半島韮山の江川邸の様子は
こちらです。

幕府は6つの台場を作ったのですが、
そのうち第三台場と第六台場が
今に残り史跡に指定されています。


レインボーブリッジの上から眺める第三台場の様子です。



背後に台場地区の近代的なビルが建ち並び
江戸と現代とのマッチングした光景です。

レインボーブリッジの中央寄りからは
第六台場も眺める事が出来ました。




計画では11箇所の台場を建築する予定だったそうです。
予定の半分程しか台場が築かれなかったのは
資金不足になったからとも言われています。

しかし、ペリーが2度目の来航の際には
この台場が築かれていた為に、江戸湾に入らず
横浜に停泊したそうなので、目的は果たしたようです。


第三台場は一辺が約150mのほぼ正方形をしています。



台場の周囲には土塁が築かれ、
内部は5m程の深さの窪地になっていて、
当時は陣屋や弾薬庫があったようです。



土塁の幅は20m程はあるでしょうか、
立派な土塁でした。

下の写真は土塁の上に置かれた砲台跡です。



2基の砲台があったのですが、残念ながら
これは江戸時代のものではないそうです。

土塁から下り、台場中央部の底面に行ってみました。
これはほぼ中央に位置する陣屋跡です。



当時はこの陣屋で警固にあたった
武士もいたことでしょう。

そして土塁の内側の所々に、
弾薬庫跡がありました。



草に覆われ、ポッカリと口を空けた弾薬庫跡は
ちょっと不気味な雰囲気でした。



船の科学館・羊蹄丸


日の出埠頭から「安宅丸」という江戸幕府の
御座船を模した東京湾クルーズ船で
青海埠頭に到着しました。

「安宅丸」の乗船記は
こちらです。




この青海埠頭は船の科学館の
すぐ近くに位置しています。

そして「安宅丸」が到着した埠頭の
すぐ隣には「羊蹄丸」が停泊していました。



羊蹄丸は、青森と函館を結ぶ、旧国鉄の
青函連絡船として活躍していた船です。

その名前はもちろん、北海道の名山・
羊蹄山から名付けられています。



羊蹄山を眺める函館本線の乗車記はこちらです。


青函連絡船は、大学の頃から北海道に
渡る度に乗っていた懐かしい連絡船です。

青森 - 函館間の所要時間は3時間50分。

初めて青函連絡船に乗車したのは
青森を真夜中に出る夜行便でした。

しかし、船内は多くの乗客で、
桟敷席にも座る事が出来ず、
階段で座って明け方の函館到着を
待ったのが鮮明な記憶として残っています。

この時の船が羊蹄丸だったのかどうか、
記憶は定かではありませんが、
青海埠頭でエンジ色の船体を目にした時に
懐かしさがこみ上げて来たので、何かの機会に、
この羊蹄丸に乗船した事があると思います。

埠頭に置かれた羊蹄丸のスクリューです。



人の背丈程はあったのでしょうか。
羊蹄丸の姿を見ていると
今にも汽笛が聞こえて来そうですが、
このスクリューを見た時、羊蹄丸はもう2度と
航海する事はないのだな、と改めて思いました。


羊蹄丸は、現在(2011.8.16)の所、船の科学館の
付属設備の様になっていて、内部の見学が可能です。

2011年9月30日で羊蹄丸の一般公開は終了するそうです。

船の科学館・本館の入場券を買えばそのまま入場可能で
維持費の寄付をすれば、羊蹄丸のみの入場もOKです。



内部に入ってまずは甲板へと上がってみました。
広い甲板の両脇からは「安宅丸」と
南極観測船「宗谷」の姿を見る事が出来ました。


次に向かったのはブリッジです。
営業運行中には決して入れなかった場所です。



ブリッジの内部も広々としていていました。
このブリッジからの眺めは壮観です。



就航時には、ここから駒ケ岳や岩木山、
恐山などを眺める事が出来た事と思います。
その景色は、さぞ雄大で素晴らしいものだったと思います。


ブリッジを出て、3階の休憩スペースに向かいました。



現役時代、このフロアーには寝台部屋や
グリーン客席があったフロアーです。

今思えば、一度はグリーン船室を
利用すれば良かったな、と思います。


そして、1Fに設けられている青函ワールド
という展示スペースに向かいました。

ここには青森駅の様子が再現されていました。



この一角には、青函連絡船に積み込まれた客車が展示されています。

戦後から1954年(昭和29年)に起きた洞爺丸事故まで、
当時の青函連絡船は、客車輸送をしていたので、
この展示の時代背景は昭和20年代と思います。

そしてこちらは青森駅頭の様子です。



ノスタルジアを感じさせる展示でした。


この展示を見終え、羊蹄丸を後にしました。
羊蹄丸の後部の様子です。



青函連絡船の特徴である、貨車が
引き込み可能な構造になっています。

船内に4本の線路が敷かれ、合わせて
48両の貨車を収納し、航行していたそうです。


羊蹄丸の見学は、青函連絡船を
思い出すとても懐かしいものでした。

この羊蹄丸の他には青森駅旧桟橋に八甲田丸が
函館駅近くに旧摩周丸が展示されているそうです。



東京ビッグサイト


隣の有明地区には東京国際展示場、
東京ビックサイトもあり、多くの人で賑わっています。



これは、宿泊したホテルから写した
東京ビックサイトの写真です。

この東京ビッグサイトには出張で
ちょくちょく訪れています。



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