金沢
Kanazawa, Japan



加賀百万石の城下町、金沢

犀川と浅野川に囲まれている金沢は
戦災に遭わなかった為、
古い街並みが残っています。

金沢の見所は金沢城址や兼六園が有名ですが
香林坊の南にある長町武家屋敷や、
艶やかな加賀文化を代表するひがし茶屋街や
主計町茶屋街、そして西茶屋街の町並み、
そして、犀川の南の高台にある寺町と、
市内の至る所に見所があります。

金沢へは何度か行った事があったのですが、
2002年の11月に、ほぼ15年ぶりに
北陸鉄道に乗るために出かけました。

その後も2008年秋に立山黒部アルペンルートの
旅の途中に立ち寄り、2010年早春にも訪れています。

その時に散策した金沢の街の様子を紹介します。

ひがし茶屋街
Apr. 07, '10

卯辰山麓
NEW ! Nov. 23, '21

主計町茶屋街
Apr. 09, '10

大手町界隈
Apr. 11, '10

金沢城
Revised ! Nov. 14, '21

兼六園
May 24, '10

成巽閣
May 28, '10

香林坊界隈
Sep. 28, '21

長町武家屋敷
Sep. 25, '21

犀川沿い
Jun. 08, '10

寺町界隈
Sep. 25, '21

にし茶屋街
Sep. 25, '21

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ひがし茶屋街
(Higashi Chayamachi)

茶屋は、江戸時代の上流町人や
文人達の娯楽の場として、琴や三味線、
舞や茶の湯といった文化が育った
粋な遊びの場所だったようです。

加賀百万石の文化が
育った場所だったのでしょうか。

ひがし茶屋街は、金沢の中心部から
北に向かい、浅野川を渡ったところにあります。

ひがし茶屋街の地図はこちらです。


地図が見られない場合は
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北国街道の橋が架かる袂に、
多くの茶屋が建ち並んでいたそうですが、
1820年(文政3年)に藩の許可を得て以来、
茶屋街が更に発展したそうです。

金沢には何度も行った事があったのですが
いつも、兼六園や長町武家屋敷を訪れていて
この ひがし茶屋街 に行く機会がなかったのですが
2010年2月に初めて行く機会がありました。

朝、8時前、まだ観光客が押し寄せる前の
静かなひがし茶屋街を訪れました。

旧観音町

浅野川を渡り、まず足を
踏み入れたのが観音町です。
狭い通りには、いくつもの
古い商家が建っています。


こちらは旧涌波家住宅主屋です。
江戸時代末期の町屋で、2003年に
復元修理が行われたそうです。

江戸時代に建てられた際には平屋の板葺きの
屋根だったそうですが、明治時代に2階建てに
改築され、屋根も銅葺きになったそうです。

金沢では街中に古い建物をいくつも見かけますが
江戸時代から元の位置に建つ建物は珍しいそうです。

この旧涌波家住宅は、日中は、ひがし茶屋街の
ボランティアガイドの方が待機しているそうです。

旧観音町を西に向かうと幾つかの
古い商家がありました。


左の写真はお米屋さん、右は楽器屋さんです。

この楽器屋さんの先の角を右に曲がり、
もう一本北の通りがひがし茶屋街です。

ひがし茶屋街

ひがし茶屋街に行く途中の圓長寺です。


1596年(慶長元年)にこの地に建てられたそうです。
加賀藩の第三代藩主・前田利常公が鷹狩りの際に
度々休憩したそうで、位牌が安置されているそうです。

この圓長寺を過ぎてしばらく歩くと
通りがクランク状に曲がると
古い建物が現れました。


お城の枡形門の造りです。
この枡形の先に、ひがし茶屋街がありました。


茶屋街は、細かな木格子が建物の前面を覆い、
客間(座敷)のある2階を高く造り、通りに面して
高欄と張り出しの縁側を設けているそうです。


夜は、灯りも燈り、芸妓さんも歩いていたりと
きっと、艶やかな雰囲気と思いますが、
朝早く、観光客の姿もなく、清々しい
ひがし茶屋街でした。

この写真は、金箔製造の箔座です。


茶屋の入り口には綺麗に花が飾られたり
杉玉が吊るされたりしていました。


このひがし茶屋街にある「志摩」
という茶屋に入ってみました。

この志摩は茶屋街の創設当初の
1820年(文政3年)に建てられたそうです。


今では、国の重要文化財にも指定されています。

建物の中に入り、二階に上がると、
仄かな提灯の灯に、茶屋の雰囲気に
触れることが出来ました。


幾つかの部屋を通ると「ひろま」と、
その前に「ひかえの間」がありました。


床の間を背に客が座ると、
目の前の「ひかえの間」の襖が開き、
芸妓の艶やかな演舞が披露されたそうです。

客も芸妓も高い文化的素養が求めらました。

茶屋での精算はすべて後日払いで、
紹介があっても新規の客は断られたそうです。

ひがし茶屋街はまるで、江戸時代に
戻ったかのような雰囲気でした。

ひがし茶屋街周辺

このひがし茶屋街の東には卯辰山があり、
北には多くの寺が建ち並んでいます。

ひがし茶屋街を訪れた後、いくつかの
神社やお寺に立ち寄ってみました。

まず訪れたのは菅原神社です。


この神社はひがし茶屋街の
芸妓達の鎮守の神だったようです。

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卯辰山麓
(Mt. Utatsu)

ひがし茶屋街の東側には、
卯辰山という小高い山があります。
その麓にもいくつかお寺が建ち、
風情のある町並みになっています。

菅原神社の先には宇多須神社がありました。


撮影: 2010年2月

718年(養老2年)に創建された古い神社です。

1599年(慶長4年)に加賀藩の藩祖・前田利家公が亡くなると、
二代・利長公は、徳川家康を憚り、新しい神社を造る事無く、
この宇多須神社に利家公をひっそりと祀ったそうです。

その後、明治になって、前田利家公は
尾上神社に祀られることになったそうです。

その後、ひがし茶屋街の東にある
寿経寺まで歩きました。


撮影: 2010年2月

このお寺には、1858年(安政5年)に
米価高騰の為に起きた騒動の首謀者として
刑死や牢死した七名の霊を供養する
「七稲地蔵」がお堂に安置されていました。

寿経寺の北側には、卯辰山へと続く子来坂があります。
江戸時代の終わり、1867年(慶応3年)に卯辰山が
開拓された際に、地元の人たちが、子供達が
沢山来るようにと、賑やかにした為、
この名前が付いたそうです。


撮影: 2011年10月

卯辰山に向かって長い坂道が続いています。
卯辰山は、金沢の市街地の東にある
標高141mのなだらかな山です。


撮影: 2011年10月

上の写真は、兼六園から眺めた卯辰山です。
卯辰山は、左端の山になります。

金沢城から南東の方角にあるので、"卯辰"
という名前が付いたと言われますが、
実際には東北の方角にあたります。

山頂に近づくと、道端にいくつか仏像が並んでいました。


撮影: 2011年10月

卯辰山からの金沢の街の眺めです。
正面の高台が金沢城、その左手が兼六園です。


撮影: 2011年10月

既に陽も西に傾きかけていた時刻ですが、
ここからの落日はとても素晴らしいそうです。

そして西の方角を眺めた様子です。


撮影: 2011年10月

足元にひがし茶屋街の古い町屋が並び、
遠くに金沢駅前の高層ビルが見えています。

古い町並みと近代的なビルの景色が
印象的でした。

卯辰山には宝泉寺というお寺がありました。
このお寺のご本尊は、前田利家公の守り本尊
だった摩利支天が御本尊となっているそうです。


撮影: 2011年10月

宝泉寺の境内には芭蕉の句碑もありました。


撮影: 2011年10月

ちる柳 あるじも我も 鐘をきく

芭蕉は「奥の細道」で金沢を訪ねた際に、
宝泉寺境内にあった柳陰軒という草庵に
一泊したそうです。

この句碑の辺りで一夜を過ごしたのかもしれません。

作田金銀製箔店

この後、ひがし茶屋街の北にある
作田金銀製箔店に向かいました。


撮影: 2010年2月

金沢は、日本の金箔の生産高の
99.9%を占める一大産地です。


撮影: 2010年2月

お店に飾ってあった素晴らしい金箔の屏風です。

金沢で金箔が盛んになったのは、前田利家公が、
京都から職人を引き連れてきた事と湿気の多い
金沢の気候が適していた為だそうです。


撮影: 2010年2月

この作田金銀製箔店では、
金箔製造の工程の見学が出来ます。

圧延された金を約一万分の2程度の
厚みなるまで何度も叩いて伸ばし、
薄い金箔を規格の寸法に切り揃える
様子は見ていて飽きませんでした。

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主計町茶屋街
(Kazuemachi Chayamachi)



主計(かずえ)町茶屋街は、浅野川に架かる
浅野大橋の袂にある茶屋街です。

ひがし茶屋街とこの主計町茶屋街、
そして中心街を隔てて南側、犀川の辺にある
にし茶屋街が金沢の3つの茶屋街でした。


主計町茶屋街の地図はこちらです。


地図が見られない場合は
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ひがし茶屋街の散策を終えた後、
浅野大橋を渡り、主計町茶屋街に向かいました。



主計町茶屋街


浅野大橋から眺める主計町茶屋街の様子です。



浅野川の畔に茶屋が軒を連ねていました。
主計町茶屋街の反対側、東を向くと
逆光の中卯辰山が望めました。




浅野大橋を渡り、茶屋街に向かうと
橋の袂に「今越清三朗翁生誕の地」の
大きな石碑が建っていました。



今越清三朗は、日清・日露戦争で活躍した
乃木大将が金沢を訪れた際に出会った
辻売りの少年です。

東京・六本木近くにある乃木神社を訪れた際に
僅か8歳で辻売りをしながら家計を支えていた
今越少年の姿を見て、乃木大将が感銘を受けた
という逸話を知ったのですが、その今越少年ゆかりの
碑を偶然目にする事が出来て、驚きました。

乃木神社の様子はこちらです。


浅野川沿いの茶屋街の様子です。



ここにも当時を彷彿とさせる
料亭が幾つも残っていました。



浅野川沿いの道から一歩中に入ると
とても狭い路地の両側に家が建て込んでいました。



この路地にも細い格子のある
茶屋の造りを彷彿とさせる
建物がいくつもありました。

こうした路地を歩いているのは
日常と離れた世界に入っていくようで
とても楽しい散策です。


狭い路地を彷徨っていると
「暗がり坂」という坂道に出ました。



主計町茶屋街の南側は高さ5m程の
河岸段丘になっています。
暗がり坂はその丘の上へと向か坂です。

北向き斜面のこの坂は一日中陽が差し込む事がなく
暗がり坂と言われるようになったそうです。



石段の坂道を登っていくと
立派な神社の社殿が見えてきました。



旧下新町 〜 泉鏡花記念館界隈 〜


暗がり坂を上る途中に見えた神社は
久保市乙剣神社です。



境内に由緒書がなく、由来が判りませんでしたが
古くから信仰を集めていた神社と思います。


河岸段丘を登ったこの界隈は
下新町と呼ばれる集落で、
泉鏡花が生まれたところです。

現地の案内板では泉鏡花は、
生まれ育った町を次の様に
記しているそうです。

------------------------------------------
我が到る町は、一筋細長く東より西に
つま先上がりの小路なり。

両側に見好げなる仕舞家のみぞ並びける。
市中の中央のきわめて好き土地なりしかど、
此町は一端のみ大通りに連なりて、
一方の口は行留まりとなりたれば、
往来少なかりき。

朝より夕に到るまで、腕車、地車など
一輌も過ぎるはあらず。

鏡花作 「照景狂言」より

------------------------------------------

久保市乙剣神社の鳥居のすぐ横に
古い商家が建っていました。



江戸時代末期の町家の代表的な建物だそうです。

当時はこの様な家々が狭い路地の
両側に並び、その景観は泉鏡花の時代も
その景色が受け継がれていた事でしょう。

この古い町屋の西側には、松尾芭蕉の門人の
立花北枝の旧宅跡の碑も立っていました。



奥の細道紀行で芭蕉が金沢を訪れた際、
立花北枝は、その逗留の世話をし、
越前国丸岡まで同行したそうです。

立花北枝邸での句会で、芭蕉は
「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
という句を読んだそうですが、
その句が詠まれたのはこの地だったようです。


この界隈に泉鏡花の生誕地があった筈ですが
歩き回ってもそれを示す碑を
探すことは出来ませんでした。

古い町屋の通りの反対側には
泉鏡花記念館が建っていました。



白漆喰の蔵風の建物で立派な門もあり、
趣のある博物館の建物でした。



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大手町界隈
(Ohtemon Gate)



ひがし茶屋街と主計町茶屋街を訪れた後、
金沢城に向かいました。

その途中にあった幾つかの見所と
大手門近くの黒門前緑地の様子を紹介します。


大手門界隈の地図はこちらです。


地図が見られない場合は
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浅野川から大手門へ


ひがし茶屋街から梅ノ木橋を渡って
金沢城に向かいました。

木製の風情ある梅ノ木橋です。



読んだ事は無いのですが、泉鏡花の出世作
『義血侠血』はこの辺りを舞台に描かれ、
水芸役者「滝の白糸」と書生・村越欣也の
悲恋の物語だそうです。

橋の袂には「滝の白糸」像もありました。

梅ノ木橋を渡ったところが並木町です。
善福寺の脇を抜けて大通りに出ると
大樋焼の窯元がありました。



この大樋焼は1666年(寛文6年)に、茶道普及の為、
加賀藩5代藩主・前田綱紀公が、裏千家4代目の
仙叟宗室を招いた際に、仙叟宗室に同行してきた
長左衛門が、大樋村で茶碗などを焼いたのが
始まりだそうです。

大樋焼には「九代大樋勘兵衛」と
「十代大樋長左衛門」の2つの窯元がありますが
こちらは「十代大樋長左衛門」の窯元です。



歴史を感じさせる暖簾でした。


大樋焼・十代大樋長左衛門の窯元の近くに
金沢に残る武家屋敷のひとつ
寺島蔵人邸がありました。



寺島蔵人は1777年(安永6年)に生まれた
禄高450石の中級武士で、藩の農政や
財政の実務を行ったそうです。

1824年(文政7年)に、12代藩主・前田斉広公が
有能な藩士を登用した藩政改革組織を作った際に、
寺島蔵人も抜擢されましたが、広公の急死により、
その組織は解散となってしまいました。

寺島蔵人はその後の藩政に不満を抱き、
藩政府に対立したため能登島に流刑となり、
1837年(天保8年)に亡くなっています。



江戸時代後期の文人画家、浦上玉堂が
この寺島蔵人邸を訪れた際に揮毫した
「乾泉」という額が飾られていました。

庭は池泉回遊式庭園です。
苔の生えた庭は落ち着いた雰囲気でした。



池泉回遊式の庭ですが、
池には水がなく「乾泉」と
呼ばれていたそうです。

この寺島蔵人邸から金沢城の
大手門までは200メートル程です。

金沢城の様子はこちらです。



黒門前緑地


金沢城大手門の西側に黒門があります。
その黒門の北側に、黒門前緑地がありました。



ここは金沢検察庁検事正官舎だったところですが、
2001年(平成13年)に公園として開放されたそうです。

この黒門緑地があったところは
前田利家公の四女、豪姫の住居が
あったところだそうです。



豪姫は豊臣秀吉の養女となった後、
岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎました。

その後、1600年(慶長5年)に関が原の戦いで
宇喜多秀家は敗れた西軍に属し、
その後、八丈島に流されてしまいます。

豪姫は金沢に戻り、この地で余生を過ごしました。
豪姫は八丈島にいる宇喜多秀家に思いを寄せ続け、
隔年で白米70俵と金子35両を送ったそうですが、
これは明治維新後に宇喜多家が赦免されるまで
続けられたそうです。


この黒門前緑地には、旧高峰家の
建物が移築されていました。



高峰家は加賀藩の御典医だった家だそうです。
幕末に生まれた高峰譲吉博士は
世界的な業績を残したそうです。



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兼六園
(Kenrokuen Park)



兼六園は日本三名園のひとつです。
金沢でも最も多くの観光客が
訪れる名所ではないでしょうか。

兼六園は、金沢城の東側に位置しています。

金沢城の様子はこちらです。




兼六園は、1676年(延宝4年)に
加賀藩5代藩主・前田綱紀公が、
金沢城に面した傾斜地に蓮池御亭を
建てたのが始まりとされています。

その後、1759年(宝暦9年)の大火で、
蓮池庭も焼失してしまったそうです。
1774年(安永3年)に11代藩主・前田治脩公が
復興に取り組み、夕顔亭を築いています。

12代藩主・前田斉広公は1822年(文政5年)に
竹沢御殿や石橋を築き、この庭園の名を「兼六園」と定め、
13代藩主・斉泰公が今見る兼六園の姿に整えたそうです。

明治維新後の1874年(明治7年)には、一般に開放され、
1922年(大正11年)に名勝に指定され、さらに
1985年(昭和60年)には特別名勝に指定されています。


金沢城の石川門をくぐり、百間堀に架かる橋を渡ると
兼六園へと続く桂坂にさしかかります。



この桂坂を上ると、兼六園に向かいますが
その手前の右手にお土産物屋さんが
軒を連ねていました。



この周辺は、1601年(慶長6年)に
後の3代藩主・前田利常公の下に
2代将軍・秀忠公の娘・珠姫の輿入れの際に
金沢に来たお供の大勢の武士らが
長屋を建てた場所だったそうです。

この一角を過ぎ、まっすぐ進むと
兼六園の桂坂の入り口です。



この桂坂の入り口から兼六園に入り、
進行右手の桜ヶ岡のこんもりとした
丘の麓を、緩やかな坂道を登ると
池の畔の徽軫(ことじ)灯籠が見えてきました。



兼六園公園で最も広い霞ヶ池を背景に
虹橋の脇に置かれた徽軫灯籠は、
虹橋を琴にみたて、琴の糸を支える琴柱に
似ている事からその名がついたそうです。


徽軫灯籠の近くには江戸時代の
水道の遺構がありました。



兼六園を流れる辰巳用水の水を
金沢城二の丸へと導いていたそうです。

1632年(寛永9年)に木管の水道管が作られ
1844年(天保15年)に石管に作り変えられたそうです。

金沢城二の丸へと水道を引いていた辰巳用水は
1632年(寛永9年)、寛永の大火の翌年に
三代藩主・前田利常公の命によって
城の防火用水として作られたものです。

兼六園内では、この辰巳用水を
曲水として利用しています。



用水に架かる雁行橋です。
11枚の石を、雁が飛ぶように架けています。

11月下旬に兼六園を訪れた際には
見事な雪吊りも見られました。



写真右は、千歳台にある日本武尊の像です。
西南の役で戦死した石川県の軍人の
霊を慰める為に建てられたそうです。

日本武尊の像の
近くにあった根上げ松です。



枝ぶりがとても見事な松で、
根が2mも盛り上がっています。

曲がりながら流れる辰巳用水には
鴨が羽を休めていました。



のどかな光景でした。


再び徽軫灯籠に戻り、今度は霞ヶ池の辺を歩きます。
霞ヶ池は1837年(天保8年)に彫り広げられた池で
広さは5,800平米あるそうです。
霞ヶ池に枝を伸ばした見事な松がありました。



近江八景の一つの琵琶湖畔の唐崎松から
種子を取り寄せたという唐崎松です。

冬にこの松に掛ける雪吊りの光景は
よくTVで紹介される金沢の冬の風物詩です。

霞ヶ池に沿って南に歩いていくと、
池の向こう側に内橋亭が見えてきます。



細長い霞ヶ池を南から眺めた様子です。
左にみえる建物が内橋亭です。


内橋亭の西にある栄螺(さざえ)山の麓を巡り
坂を下っていくと瓢(ひさご)池に出ました。



霞ヶ池から流れ出た水が作る
翠(みどり)滝が流れています。
池の右手には海石塔が見えています。

3代藩主・前田利常公が作らせた石塔という説と
加藤清正が朝鮮から持ち帰ったもの
という説があるそうです。

この瓢池の畔に夕顔亭が建っています。



1774年(安永3年)に建てられたという
兼六園内で最も古くから残る建物です。

夕顔亭の建物の手前に、
竹根石手水鉢がありました。



竹の切り株のような石の手水鉢ですが
案内板によると、椰子類の茎と根の化石で、
学術上、極めて珍しい化石だそうです。


瓢池に沿って、南に向かい
真弓坂へと向かいました。



真弓坂に建つ兼六園の石碑です。



広大な兼六園には、ここで紹介した
見所以外にも日本最古の噴水や
梅園などの見所があります。


兼六園の名は、12代藩主・前田斉広公が
奥州白河藩の藩主・松平定信公に
命名を依頼して名付けられました。

命名の由来は、宏大・幽邃・人力・
蒼古・水泉・眺望の六つの勝を
兼備するという事からだそうです。



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成巽閣
(Seisonkaku)



成巽閣は兼六園の東南隅の
一角にある江戸時代の御殿跡です。




1863年、加賀藩13代藩主・斉泰公が
12代藩主の奥方・隆子君(眞龍院)の
為に造営した御殿です。

当時は巽御殿と呼ばれていましたが
明治以降に成巽閣という名が付けられたそうです。


兼六園の梅林を通り、金沢神社を抜けると
石川県庁石引分室の瀟洒な建物が見えて来ました。



この建物の道路を挟んだ向かいに
辰巳長屋の海鼠壁が続き、
塀重門の成巽閣正門へと至りました。



正門を抜けると、玄関前の
立派な庭が目を引きます。



この庭園の向こうに、
立派な車寄せがありました。



この車寄せの玄関から渡り廊下のような
建物を通ると成巽閣へと至ります。

玄関は瓦葺ですが、成巽閣は柿葺きで
2階建ての寄棟造りの建物になっています。

玄関から入るとき、成巽閣の建物がどこか
はっきり判らなかったので、行った際には
柿葺きの建物とは気がつきませんでした。


渡り廊下を抜けると、成巽閣に至り
広間から謁見の間へと続いていきます。

成巽閣の内部は撮影禁止で、その見事な
様子を紹介出来ないのは残念ですが、
謁見の間は、公式な御対面所だったそうです。

その手前に、渡り廊下の両側に
庭園が広がっていました。



写真左が「つくしの縁庭園」、
右が「万年青の縁庭園」です。

廊下に座ってこの庭を眺めていると
とても心が落ち着きました。

「つくしの縁庭園」の左奥には
国の指定名勝の「飛鶴庭」があるのですが、
そこは非公開になっているのでしょうか、
見る事が出来ませんでした。


成巽閣の西側には、兼六園や金沢城への
通用門だった赤門が残されています。



兼六園からこの門を抜けて
直接、成巽閣を訪れることも可能です。


二階には数奇屋風の書院造りの部屋もありました。

2階から眺める赤門の様子です。



この時は、庭の様子に目を奪われてしまったので
次の機会には成巽閣の部屋の様子を
じっくり見てみようと思います。

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香林坊界隈
(Kohrinbou Area)

金沢城石川門から兼六園に向かい、
兼六園真弓坂口から市内に出ると
すぐに広坂の交差点です。


金沢城の様子はこちらです。
兼六園の様子はこちらです。

この広坂の交差点から西に向かうと
金沢市一の繁華街、香林坊に出ます。

その途中、旧制第四高等学校の
校舎が建っていました。


立派な門の奥に佇む赤レンガの校舎は
国の重要文化財に指定されていて
歴史を感じさせるものでした。

現在の金沢大学の発祥となる建物です。

この旧制第四高等学校校舎の
先の交差点が香林坊です。


ここは多くの車と人が行きかい、
いつも活気に溢れている街です。

交差点にあったモニュメントです。


この香林坊の西側にある長町武家屋敷は、
賑わう香林坊とは対照的にひっそりとした
佇まいを残しています。


長町武家屋敷の様子はこちらです。

香林坊から金沢駅へと繋がる大通りを
金沢駅の方角に向かって歩いてみました。

途中で「南町」の石碑がありました。


佐久間盛政の時代に、出来た町で
金沢城の南にあるのでこの名がついたそうです。

この先には加賀百万石の藩祖・前田利家公を
祀った尾山神社がありますが、その近くに
大樋焼「九代大樋勘兵衛」の窯元がありました。


そしてこちらが尾山神社です。


撮影: 2011年10月

この神門の手前に小さな側溝がありました。
この側溝は西内惣構の堀の一部だそうです。


1599年(慶長4年)に二代藩主・前田利長公が
高山右近に命じてこの堀を築かせ、
1632年(寛永9年)に三代藩主・前田利常公が
辰巳用水の水を引き入れたそうです。

西内惣構の堀跡を過ぎ尾山神社に向かいました。
ステンドグラスで彩られた神門が目を引きます。
三層の神門は重要文化財に指定されています。


撮影: 2011年10月

藩祖・前田利家とその正室の尾松の方を祀った
この神社は明治になって創建されています。

前田利家は豊臣政権下では、徳川家康と同じ
五大老の一人で、秀吉亡き後、秀吉の遺訓を
守らず他家との婚姻を進める家康に対し
他の四大老とともに、家康を戒めています。

天下を狙う家康にとって前田利家は
目の上のたんこぶだったと思います。

利家が亡くなると、家督を継いだ前田利長に対し
征伐を下そうとしますが、前田利長は恭順の意を
示し、関が原の戦いでも東軍側として戦います。


撮影: 2011年10月

他の大老の毛利輝元、上杉景勝そして宇喜多秀家は
西軍の主力として戦った為に、関が原後には領地を
大幅に削られたり八丈島へ流刑の身となっていますが、
前田家は100万石の領地をそのまま受け継いでいます。

こうした背景があり、幕府を憚り、公然と
前田利家公のお墓を建てなかったそうです。


撮影: 2011年10月

階段を上り神門をくぐると堂々とした
尾山神社の拝殿が見えてきました。

境内には前田利家の騎馬像もありました。


撮影: 2011年10月

前田利家は、織田信長の近習として
名をあげ、母衣衆として活躍しました。
母衣衆は、矢除けの布を背負って
大将の近くで戦場を駆け巡った一団です。

尾山神社をさらに進むと、東神門がありました。


撮影: 2011年10月

金沢城二之丸の城門を移築したもので、
桃山時代の様式の門です。

金沢城は1760年(宝暦9年)の大火で
大半が焼失してしまいますが、
この門は彫刻された龍が水を呼び、
焼失を免れたと言われているそうです。

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長町武家屋敷
(Nagamachi Bukeyashiki)

香林坊から南町にかけての目抜き通りの
西側に長町武家屋敷があります。

金沢市内を南北に流れる鞍月用水と
大野庄用水とに挟まれた一帯です。

江戸時代にはこの辺りには、藩士の
邸宅が建ち並んでいたそうです。

この辺りでは火災が少なかったこともあり
当時の佇まいがよく残っています。

金沢市老舗記念館から
大野庄用水に沿って

香林坊にある東急ビから西に入ると
金沢市老舗記念館に至ります。


1579年(天正7年)に開業した薬舗「中屋」を
移築した堂々とした建物です。

この金沢市老舗記念館から北に向かって
歩いていくと、疎水が流れ、土塀が続く
落ち着いた町並みとなりました。


撮影: 2011年10月

時の流れを超えたような雰囲気です。

土塀の道がクランク状に曲がっていました。
敵の侵入に備えた江戸時代のままの
通りの姿になっている様です。


撮影: 2011年10月

道の横を流れる疎水が大野庄用水です。

戦国末期から江戸時代の初めにかけて、
金沢城の築城が行われた際には
この大野庄用水を利用して、
物資を輸送したそうです。

江戸時代には鮎も泳ぐほどの
清流だったそうです。


撮影: 2011年10月

土塀越しに樹木が眺められ
景色の味わいを深めていました。

大野庄用水に沿って歩いていると
土塀に囲まれた狭い小路がありました。


撮影: 2011年10月

後ほど、この小路に沿って歩いてみました。
この小路の一帯は、江戸の雰囲気を
濃厚に残していました。

この様子は、"大野庄用水〜鞍月用水へ"の項で紹介します。

しばらく、用水に沿って歩いていくと
大野庄用水の立派な碑が立っていました。


撮影: 2011年10月

この碑の先に、加賀藩士の野村家がありました。

野村家

野村家の始まりは、1583年(天正11年)に
前田利家の金沢入城に伴い直臣として従った
野村伝兵衛信貞を祖としています。


家禄は1200石、代々御馬廻組々頭や
奉行職を歴任した上級武士の家柄で、
1000坪を超える屋敷を拝領していたそうです。

この野村家は明治維新まで続きましたが、
現在の建物は、大聖寺藩の商人・久保彦兵衛が
藩主を招いた邸宅の一部を移築したものです。

屋敷に入ってまず目に付いたのは
当時の甲冑でした。


野村伝兵衛信貞は1584年(天正12年)に佐々成政と
前田利家との間に起きた末森城合戦で、一番槍の
大手柄をたてたそうですが、その際に、
この甲冑を身にまとっていたそうです。

藩主が謁見した上段の間に向かう途中の
庭に苔むした石がありました。


金沢城の築城の際、石垣用に切り出されたものの
搬出出来ずに山に残されていた石だったそうです。

そしてこちらが大聖寺藩の商人・久保彦兵衛が
藩主を招いた上段の間です。


総檜の格天井や襖絵と落ち着いた一室でした。
上段の間から眺める庭園です。


濡れ縁に西日が差し込み、陰影がついた
庭園の眺めは素晴らしいものでした。
濡れ縁に座って、しばらく庭園を眺めていました。

旧加賀藩士高田家跡

野村家を訪れた後、再び北に向かうと
旧加賀藩士・高田家跡がありました。


撮影: 2011年10月

高田家は550石の家禄の平士の家でした。
平士は加賀藩で、家禄が80石から
2400石の武士の事だったようです。

この旧高田家は当時は443坪の敷地が
あったそうですが、今は270坪の敷地があり
長屋門や当時の庭園の様子が残っています。


2010年の2月末に訪れた際には
梅の花が咲いていました。

高田家に残る長屋門です。


撮影: 2011年10月

中級以上の平士の家ではこのような長屋門や
厩を設けることが認められていたそうです。

奥行きは2間とか、板張りは質素にとか
当時は色々細かな規則があったようです。

長屋には仲間や小者と呼ばれる
奉公人達が住み込んでいたそうです。


これは、長屋門の厩の様子です。

平士は格式にもよりますが、登城の際は騎乗で、
お供を何人も引き連れていたそうです。

旧加賀藩士高田家跡から更に北に
進むと、足軽資料館がありました。


撮影: 2011年10月

江戸時代当時の足軽の家が残されていました。


撮影: 2011年10月

足軽は、武士の中で最も低い身分と思いますが、
もっと質素な屋敷の造りと思っていましたが、
想像していたよりも、正直立派でした。

大野庄用水〜鞍月用水へ
長町武家屋敷の小路

旧高田家跡を訪れた後、南に引き返し
土塀の続く小路を東に向かいました。


撮影: 2011年10月

小路に入り込んでもしばらく土塀が続きます。


ところどころに門もあり、より一層、
当時の趣を今に伝えています。


幕末の頃、金沢の平士以上の藩士の
邸宅数は3,918戸だったそうで、
これは金沢の町の住宅数の
17%にあたるそうです。

しかし、面積は全体の46.5%を占め、
街中にいかに武家屋敷が
多かったかが判ります。


撮影: 2011年10月

小路の先はクランクになっていて
その行き止まりのところに
九谷焼の博物館がありました。


最初の曲がり角を折れると
大屋家がありました。



土塀に門構え、そして切り妻の屋敷と、
当時の武家屋敷の佇まいを残す
貴重な遺構と記されていました。

クランクを抜けたところにある
新家邸長屋門です。



元々は加賀藩士の桑嶋氏の
長屋門だったそうです。

長屋門の基礎の石垣は
立派な切石を積んでおり、
格式の高さが伺えます。

少し離れたところには
立派な門もありました。



この長町の一角は江戸時代の佇まいを残す
情緒豊かな町並みでした。



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犀川沿い
(along Saikawa River)



香林坊から目抜き通りを南に下ると
犀川に架かる犀川大橋に出ます。




金沢の街を南北に挟むように流れる
北の浅野川と南の犀川。

清らかな川の流れが金沢の街の
情緒を一層高めているように思います。


犀川大橋から眺める犀川の流れです。



遠くに見える雪を抱いた山々は
白山連峰です。

この犀川の清流に沿ってしばらく
川沿いを散策してみました。

歩き出してしばらくしたところから
振り返って眺めた犀川大橋の様子です。



ワーレントランスの犀川大橋は
国の登録有形文化財の指定を
受けているそうです。

装飾された街路灯が川沿いの
景色を引き立てていました。

この近くに芭蕉の句碑がありました。



" あかあかと
日はつれなくも 秋の風"


芭蕉が奥の細道紀行で、金沢から
小松に向かう際に詠んだ句だそうです。


犀川沿いの道は、金沢出身の
作家・室生犀星がよく散策した道で、
「犀星のみち」と名付けられていました。




犀星の道で見かけた料亭です。
犀川の南側は高い崖になっていて、
川との間の狭い平地に家々が連なっています。

犀川の流れを聞きながら、
のんびりと歩いて行きました。


犀川大橋から1km弱の道のりを
歩くと、桜橋に出ました。



桜橋から眺める犀川の下流と上流の眺めです。

"うつくしき川は流れたり
そのほとりに我はすみぬ"

と記した室生犀星。

犀川の流れを愛したそうですが、
その一方で、次の詩も残しています。

------------------------------------------
"故郷は 遠くにありて 思うもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや"

------------------------------------------

これは、室生犀星が東京から故郷の金沢に
戻っていた時に残した言葉です。

この白山連峰の山々を眺めながら
いつか再び上京し、活躍したいという
室生犀星の心の叫びだったのでしょうか。


桜橋のあたりでは、南側の高台が
犀川の辺まで迫ってきていました。

その高台の上へと続く折れ曲がった道です。



通称W坂と呼ばれるこの道は、
井上靖の「北の海」にも描かれています。

九十九折れの急坂を上ると
金沢の街を一望できる公園がありました。



犀川大橋のほとりの金沢の中心街と
正面に見える金沢城と兼六園の高台です。

街並みの様子こそ異なりますが
フィレンツェのアルノ川の辺の高台にある
ミケランジェロ広場からの眺めを思い出しました。

フィレンツェの街の様子は、こちらです。


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寺町界隈
(Teramachj Area)

桜橋からW坂を上って犀川沿いの
河岸段丘に上がると寺町です。

この寺町には幕政時代に約70もの
お寺が集められていたそうです。

金沢の街の北側を流れる浅野川の北、
卯辰山の麓にも50近いお寺が集まる一角があります。

このように街を囲むように流れる二つの川の
更にその外側に寺院を多く配置したのは
加賀藩三代藩主・前田利常公だそうです。

幕府に対し、万が一の為に金沢の街の
防御を固めていたのでしょう。

W坂を上り、広い寺町通りに出ました。
ここから寺町通りに沿って、
犀川大橋の方向に、お寺を巡って行きました。

まず目についたのは立像寺です。
この寺町を訪れたのは訪れたのは2月の下旬。
軒下に、数日前の雪が残っていました。


日蓮上人が今の武生に1294年(永仁2年)に、
建立した立像庵を祖とする古刹です。

小松、金沢の片町を経て、
この地に移されています。

この本堂が建立されたのは
1638年(寛永15年)のようです。

境内にあった鐘楼は17世紀末の
元禄元年頃に建てられたようです。


6代目横綱・阿武縁之助のお墓がありました。


土蔵の脇にひっそりと佇んでいました。

立像寺を出て、寺町通りの北側の
長久寺に向かいました。


長久寺の創建は1608年(慶長13年)の事です。
青空に銀木犀の大木が映えていました。
この木は樹齢400年だそうです。
創建当時に植えられたものでしょうか。

この長久寺は、加賀藩初代藩主・前田利家公の
妹・津世の菩提寺という由緒あるお寺です。

境内には芭蕉の句碑もありました。


"秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子"

この句碑を過ぎ、本堂の裏側に回ると
金沢の街を一望出来ました。


遠くの高台は金沢城です。
辰巳櫓の石垣も見えていました。

長久寺の高岸寺、そして再び通りを
横切って大円寺と向かいました。


大円寺の境内に咲いていた蝋梅です。

この寺町通りには一般の住宅や商店は
見当たらず、ずっとお寺が続いています。

次は大円寺の隣の伏見寺です。


ご本尊の阿弥陀如来像は平安初期のもので、
国の需要文化財に指定されています。
その他にも平安時代に作られた
不動明王坐像があり、見所の多いお寺でした。

境内には藤五郎のお墓がありました。


この藤五郎は金沢の地名の由来となった農夫です。

8世紀前半に今の金沢の地に住み、
山芋を掘って生計を立てていましたが、
信心が深く、芋を清らかな沢で洗うたびに
金の粒が出てきたそうです。

伏見寺の隣は松月寺がありました。


越前国堀井庄に創建されたお寺を
1616年(元和2年)にこの地に移したそうです。

この風流な名を持つ松月寺には
桜の老木がありました。


三代目藩主・前田利常公から拝領した松で
1943年(昭和18年)に当時の文部省から
天然記念物に指定されたそうです。

松月寺の隣の浄安寺です。


このお寺も本堂の軒下に
残雪がありました。

建立は1575年(天正3年)で、現在地には
1616年(元和2年)に移されたそうです。

境内にあった石仏です。


赤い帽子が印象的でした。

更に隣は極楽寺です。
極楽寺の建立は南北朝時代の1337年(延元2年)。
後醍醐天皇の皇子の宗良親王が現在の高岡市に
移り住み、その地で結んだ草庵が基になっているそうです。


門を入ったところにある本堂には
朱塗りの欄干が見えました。
この朱塗りの欄干が、皇子によって創設された
極楽寺の格式の高さを示しているそうです。

極楽寺辺りの寺町通りの様子です。


この周辺は犀川大橋にも近く、寺町通りの北側は
お寺も途切れ<立派なお屋敷がありました。

蛤坂の交差点で寺町通りから左手の小路に折れました。
この小路にも多くのお寺が建ち並んでいます。

小路に入って右手にある本長寺です。


1453年(享徳2年)に越中砺波の福光城主、
石黒氏によって創建されたお寺です。
1585年(天正13年)に金沢に移り、
1615年(元和元年)に現在地に移ったそうです。

この本長寺にも芭蕉の句碑がありました。


"春もやや けしき調ふ 月と梅"

この句碑は1982年(昭和57年)に
作られた、新しいものです。

本長寺の斜め向かいの承証寺には
幕末に勤皇説を唱え、生胴の刑に処せられた
福岡惣助のお墓がありました。


左がお墓、右は供養塔です。
供養塔は、福岡惣助の死を嘆いた祖母が
6万9千字にも及ぶ法華経の一説を
石に刻んだものだそうです。

福岡惣助が刑に処せられたのは
1864年(元治元年)のことです。
わずか140年程前の事ですが、
とても過酷な時代だったと思い知りました。

承証寺から再び通りを挟んだ向かいには
忍者寺で知られる妙立寺があります。


観光客の姿を殆ど見かけなかった寺町界隈にあって、
この妙立寺だけは賑わいをみせていましたが、
観光客の一団がお寺に入ってしまうと
ここもひっそりとした佇まいになりました。

妙立寺の創建は江戸時代に入った1643年(寛永20年)です。
兼六園にあった竹澤御殿の正門を移築したそうですが
この冠木門がそれでしょうか。

妙立寺を過ぎ狭い路地を右に折れました。
途中の弘願院でみかけた石仏です。


狭い路地に妙立寺の建物が迫っていました。


妙立寺は多くの階段や迷路状の廊下が
忍者の隠れ家として広まったそうです。

細い路地に面して願念寺がありました。


願念寺は芭蕉の弟子だった小杉一笑の菩提寺です。
奥の細道紀行で金沢を訪れた際に営まれた一笑の
追悼会で芭蕉が詠んだ句の碑が建っていました。

"塚も動け 我が泣く声は 秋の風"

にし茶屋町の北にもいくつかお寺があります。
野町広小路交差点から金沢西インター方面に
向かう大通を越えた北側の小路に
築地塀が続いていました。


撮影: 2011年10月

この先に大蓮寺がありました。


撮影: 2011年10月

この大蓮寺は、前田利家の四女で中納言・
宇喜多秀家の正室だった豪姫の菩提寺です。

宇喜多秀家は戦国時代末期に岡山城の城主で、
関ケ原の戦いでは西軍の主力として戦いました。

岡山城の登城記はこちらです。
関ヶ原の散策記はこちらです。

関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家は、八丈島に
流されますが、豪姫ゆかりの加賀藩から隔年で
70俵の米が八丈島に送られたそうです。


撮影: 2011年10月

大蓮寺の西門脇には、豪姫の
レリーフが飾られていました。

大蓮寺から北東に少し歩くと、犀川に
近い所に雨宝院というお寺がありました。


撮影: 2011年10月

この雨宝院は、736年(天平6年)に創建された
古いお寺ですが、このお寺に、金沢が生んだ
文豪の室生犀星が、幼少から少年期にかけて
住んでいたそうです。

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にし茶屋街
(Nishi Chayamachi)

妙立寺の南の狭い路地を通り、
妙立寺の裏口から願念寺を抜け、
野寺広小路を渡ると、にし茶屋街に出ました。

このにし茶屋街もひがし茶屋街と同じく
1820年(文政3年)に加賀藩12代藩主・
前田斉広公が妓楼を地域を限定して
営業を許可した際に営業を始めたそうです。

にし茶屋街に一歩足を踏み入れると
あたりの景色が一変しました。


撮影: 2011年10月

茶屋が並ぶ通りがよく保存されていました。
今でもいくつかの茶屋が営業を続けているそうです。

にし茶屋街には西茶屋資料館がありました。


上の写真の右側がその資料館です。
ここには、にし茶屋街で育った島田清次郎
ゆかりの資料が展示されていました。

まだ日が沈むまでには間がある時間帯だったので
にし茶屋街はひっそりとしていました。


通りには細い格子の茶屋造りの
建物が続いていました。

2011年10月は、午前中に再訪しました。


撮影: 2011年10月

にし茶屋街の入り口にある碑です。


当時は茶屋街の入り口に大門があり
番所も置かれていたそうです。

近くには室生犀星記念館もありましたが
ずっと歩き詰めで疲れていたので、
バスに乗って香林坊に戻ってしまいました。

このにし茶屋町の南300m程のところには
北陸鉄道石川線の野町駅があります。

北陸鉄道の乗車記は、こちらです。

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