熊本・石造アーチ橋
Stone Arch Bridges in Kumamoto Prefecture, Japan






(通潤橋)



熊本県の中部、丁度阿蘇の南の地域に
いくつもの石造アーチ橋があります。
一番有名なのが通潤橋で、これはガイドブックや
TVでも紹介されています。

2007年春の九州旅行で、この地域の
石組アーチ橋を巡ってみる事にしました。


鉄道の路線がないので、熊本駅前で
レンタカーを借りての旅です。

熊本の旅行記はこちらです。





地図の赤い線がドライブした経路です。
美里町、山都町にある大窪橋、霊台橋、雄亀滝橋
そして通潤橋の4つの橋を巡りました。

では、訪れた順番に紹介しましょう。




大窪橋
(Ookubo Bridge)


熊本駅前から国道445号線を走り、
御船町から国道443号線に分け入ります。

周囲を山に囲まれたのどかな景色となって、天気も良く、
桜や菜の花が咲いていて、とても気持ちのいいドライブです。

熊本駅の観光案内所で入手した地図を頼りに
霊台橋を目指していたのですが、その手前にも
いくつかの石造アーチ橋があるようです。

美里町に入り、国道218号線沿いに
大窪橋があるというので立ち寄ってきました。



この大窪橋は1849年(嘉永2年)に惣庄屋篠原喜兵衛と
石工新助によって架けられたそうです。

丁度、桜が満開でとても綺麗な眺めです。

橋の長さは19.30m、幅は3m弱です。
橋の中央部が高く盛り上がった、
綺麗なアーチを描いています。



桜の花の下をくぐり、橋を渡りました。
何人かの人がカメラを構えています。
写真同好会の人達がこの大窪橋と
桜の花の写真を撮っているようでした。

この大窪橋の周囲は本当にのどかな景色。
一面に黄色い花が咲く菜の花畑もありました。



古い石造アーチとのどかな景色、
僅かな間に立ち寄った大窪橋でしたが
のんびりとした時間が過ぎていたようでした。




霊台橋
(Reitai Bridge)


大窪橋を訪れた後に向かったのが霊台橋です。
予備知識がなく標識だけを頼りに向かいました。

国道218号線を走り、霊台橋公園に車を停めました。
公園の入り口に小川が流れていて、
小さな石橋が架かっています。

この小さな石橋が霊台橋?と半信半疑ながら
公園の坂道を上っていくと、視界が開け、
緑川の深い谷に大きな石造アーチ橋が見えました。



それまでのどかな景色が続いていたので、
急に雄大な景色が広がって気持ちのいい眺めです。
切り立った谷の淵の道路脇の桜並木も綺麗です。

しばらくこの景色を眺めた後、
霊台橋の近くに行って見ました。



現地の案内板によると、この場所に初めて
橋が架けられたのは1819年(文政2年)の事だそうです。
当初は木橋でしたが、洪水によって何度も流されては
架け替えられていたので、篠原喜兵衛が惣庄屋に就任した際に
石橋を架ける事が計画されたそうです。

約一年の工事を経て完成したのは
1847年(弘化4年)のことです。
全長90m、アーチのスパンは28mです。



工事には地元の種山村の石工や大工が仕え、
この霊台橋を完成させた石工らは、明治維新後
新政府に使え、皇居二重橋等東京の
西洋建築の多くを手がけたそうです。

1966年(昭和41年)に新しい橋が架けられるまで、
トラックやバスもこの橋を渡っていたそうです。

とても大きな石造アーチ橋で、こんなに大きな
アーチ橋が江戸時代に造られたのは当時の
建築技術もかなりのレベルだったのですね。




雄亀滝橋
(Okedaki Bridge)


霊台橋の次には、近くにある雄亀滝橋
(おけだきばし)に向かいました。

雄亀滝橋は主要な道からちょっと
入った山奥に入ったところにあるようで、
地元の人に道を訪ねつつ行きました。



菜の花畑が見える山道を走り、道の脇に
車を停めて歩いて雄亀滝橋に向かいました。

疎水が流れる道を歩いていきます。



穏やかな春の陽を浴びて、気持ちいい散策です。
ウグイスの声もどこからともなく聞こえてきました。

やがて、狭い谷に架けられた
石橋が見えてきました。
雄亀滝橋です。



雄亀滝橋が架けられたのは1817年(文化14年)です。
先ほどの疎水は柏川井手といい、延長11kmにもおよぶ
灌漑用水路で、1811年(文化11年)から6年の年月を掛け
1819年(文政2年)に完成しています。

雄亀滝橋はこの柏川井手を
通す為に架けられた橋です。



橋の袂に立つと先ほどの疎水が石橋の上の
水路に流れ込んでいく様子がよく判ります。

この疎水の開通により、65町歩(約65ヘクタール)の
田畑が新たに開墾されたそうです。


200年近い年月が経ち、周囲の景色に
溶け込んでいるような雄亀滝橋ですが、
当時の建設の苦労と灌漑用水が開通した時の
喜びの声が伝わってきたような気がしました。


この雄亀滝橋は熊本県で初めての石組アーチ橋で、
この橋を作った時の技術がベースとなって
後の霊台橋や通潤橋が出来たと言う事です。




通潤橋
(Tsuujyun Bridge)


雄亀滝橋の後に桜の花が咲き乱れる
丘陵地をドライブし、通潤橋に向かいました。
この辺りは本当にのどかな山郷です。

通潤橋はさすがに多くの観光客が訪れるようで、
大きな駐車場が整備されていました。

駐車場から通潤橋に向かうと
立派な碑が建てられていました。



1854年(嘉永7年)に完成した通潤橋。
その歴史を物語るような古い碑です。


この碑を過ぎ、坂道を下っていくと
通潤橋の橋の上の通路が見えてきました。



通潤橋は長さ75.6m、橋の幅6.3m
そして高さは20.2mもある大きな橋です。

このあたりの白糸台地は水の便が悪く
飲み水にも事欠く状況だったようです。
その窮状を救うため、6km程はなれた笹原川から
水を引く為に造られたそうです。



広い谷に架けられた通潤橋からの眺めです。
高さ20mの橋の上からの眺めは
さすがに素晴らしいです。

そして、この広い谷を渡る水路橋を作ろうとした
当時の人々の強い意志に驚きました。

橋を渡り終えると階段があり、通潤橋の下を流れる
五老ヶ滝川の河原に下りる事が出来ます。


河原から見上げる通潤橋もとても雄大で、
何枚も写真を撮っていました。
何人もの人が訪れては同じ様に写真を撮っています。

橋からちょっと離れたところに
この通潤橋を造った布田保之助の像がありました。



布田保之助は矢部手永(地名でしょうか?)の
惣庄屋の家に生まれましたが、彼の父・布田市平次は
保之助が8歳の時に36歳の若さで他界してしまいます。

彼の父、市平次はこの矢部地域の開発や民生安定に
努めていたそうですが、その為に公役の出夫免除を
願い出た事に、多くの反対者が出て命を絶ったそうです。

父の死の真相を知り、その遺志を継ぐ事を決意した
保之助は、1833年(天保4年)に32歳で惣庄屋になると
矢部地区の開発に尽力したそうです。

その彼の像は遠くに通潤橋を眺めるように立っていました。


ところで、通潤橋は用水路が橋の中を通っているのですが、
橋の中央部から放水する事も出来ます。

GWや特別に申し込めば放水が行われるそうなのですが、
偶々、この日は団体さんの予約が入っていて
放水する予定と言う事を聞きました。

1時間以上待って諦めかけた頃、係員が現れ、
橋の中央部の栓をハンマーで外す作業を始めました。

栓が外れると、橋の中央部から
勢い良く水が噴出してきました。



青い空に放物線を描く放水は
とても豪快で、そして美しく
思わず見入ってしまいます。

橋の中央部に行くと、放水されている水の
勢いの凄さを実感する事が出来ました。



橋の反対側からの景色もとても素晴らしく
丁度、日が差してきたこともあって
放水された水が輝くように見えました。



放水を見終わって、駐車場に戻ると
その手前に神社がある事に気が付きました。

布田神社です。



通潤橋を造った布田保之助が祀られています。

通潤橋も布田保之助偉業の一つですが、
それ以外にも100kmを越える道路新設、
200kmにも及ぶ用水路建設や殖産にも力を注ぎ
矢部地区76ヶ村で、彼の恩恵を受けない村は
ないとまで言われたそうです。

父の遺志を継ぎ、地域の為に多くの貢献をした布田保之助。
その彼の偉業は今でも称えられているのでしょう。


熊本の石造アーチ橋を訪れた後は阿蘇に向かいました。
阿蘇の旅行記はこちらです。




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