坊津は枕崎の西に位置する町です。
2011年4月末、指宿枕崎線で枕崎を
指宿枕崎線の乗車記はこちらです:
今は小さな漁港が点在する坊津ですが、奈良時代から
そしてまた坊津は鑑真和上が苦労の末、
2011年に訪れた際は、上手くスケジュールが
枕崎市内の立神のバス停から15:45のバスに乗りました。
耳取峠を越えると、リアス式海岸となり漁村が現れました。
集落の外れの歴史資料センター前のバス停で下車しました。
江戸時代この番所では異国との貿易に対し、
坊津は平安以降も中国との交易で栄えたそうですが、
歴史資料センターの裏側からは坊津の入り江の
鵜ノ島と岬との間にある双剣石の様子です。
坊津の眺めを堪能したのちに、岬の付け根にある
鑑真和上が上陸したのは坊から10km近くも北の
坂道から見下ろす集落です。
この集落の山沿いには一乗院跡がありました。
今は廃寺になっていますが、かつては栄えたお寺
一乗院跡には中興の祖・成円上人から1869年(明治2年)
現在、19基のお墓が残っているそうですが、そのお墓は
静かな墓地を訪れ、坊の集落を歩き、
近衛屋敷は、安土桃山時代の左大臣・近衛信輔が
集落の中、急な階段を上ったところの龍巌寺が
この後、漁港まで行っていました。
この港の近くに石造りのアーチ橋がありました。
1721年(享保6年)に地元の豪商が
坊津で、一番行きたかった鑑真和上上陸の地には
見納めの坊津の景勝の眺めです。
坊津
Bonotsu
東シナ海に断崖が続き、岬と岬の間の
入り江に小さな集落が点在しています。
訪れた際、この坊津を訪ねました。
枕崎の散策記はこちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kyushu/Makurazaki.html
平安時代にかけては遣唐使の船の発着港として栄え、
博多津、安濃津と共に日本三津と言われたそうです。
753年に日本に辿り着いた際に上陸した地です。
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kansai/NishinoKyo.html#ToshodaiJi
作成できず、夕方の15:45のバスで向かい、
坊津では1時間程しか滞在出来ませんでした。
撮影: 2011年4月
バスは、枕崎と坊津の間の耳取峠を越えていきました。
晴れていれば耳取峠からは遠く開聞岳が見えるそうですが、
この日は曇り空でその光景が見られず残念でした。
撮影: 2011年4月
この集落は耳取峠を越えて最初の、坊の集落です。
撮影: 2011年4月
ここには江戸時代までは番所もあったところです。
撮影: 2011年4月
厳重な警戒が行われていたそうです。
江戸時代の鎖国政策で寂れ、それ以降静かな
港町になったそうです。
撮影: 2011年4月
全景が見渡せるポイントがありました。
撮影: 2011年4月
この双剣石の周辺は、2011年に名勝として
国の史跡に指定されています。
撮影: 2011年4月
歴史資料センターから坊の集落に向かいました。
秋妻屋浦で、そこまで行きたかったのですが、
時間の余裕もなく致し方ありません。
撮影: 2011年4月
だった様で、室町時代初期の1357年(延文2年)に
この寺を成円上人が一乗院を再興しています。
撮影: 2011年4月
にかけて、512年に亘る住職らのお墓が残っています。
撮影: 2011年4月
切り石を立法形状に組み上げた独特の形をしています。
次に近衛屋敷に向かいました。
撮影: 2011年4月
秀吉の怒りにふれ、1594年(文禄3年)によって
この地に流された際に、暮らした場所です。
撮影: 2011年4月
その跡との事ですが、碑も見逃してしまいました。
以前は、中国との交易で栄えた港とは
思えない程、静かな港でした。
撮影: 2011年4月
太鼓橋(てこばし)です。
撮影: 2011年4月
私財を投げ打って築いた橋です。
時間の関係で行く事が出来ず、坊ノ浜の集落を
散策しただけでしたが、そろそろ帰りのバスの
時間が近づいて来たので、資料館の所に戻りました。
撮影: 2011年4月
またいつの日か、この坊津を訪れ、
鑑真和上の上陸地にも行ってみたいものです。