結城
Yuki, Japan




12世紀末に小山正光の子・朝光が、結城の地を与えられ
その後、結城氏を名乗った朝光の子孫が、
江戸時代になるまでこの地を治めています。

1601年に結城秀康が越前に移封した後は、
幕府の直轄領となりますが、1700年に水野氏が入封し、
結城藩が成立すると以降幕末まで城下町として栄えます。





結城は茨城県西部、古河市のすぐ北にあり、
栃木県小山市が西隣となっています。

古河の散策記はこちらです。
小山の散策記はこちらです。


また結城紬の産地として知られています。
結城紬の歴史は古く崇神天皇の時代に遡るそうです。


2009年8月、結城城を訪れた際に
結城の街を散策した内容を紹介します。





称名寺



JR結城駅から、まずは称名寺を目指しました。
称名寺は、結城氏初代にあたる結城朝光が
親鸞聖人の高弟・真仏を招いて建立したお寺だそうです。

1216年(建保4年)の事だそうです。



この称名寺には、戦国時代末期や
江戸時代中期の門などが現存しているそうです。
この門もその一つでしょうか。

称名寺の本堂と境内に咲いていた百日紅です。



この称名寺には結城朝光から4代に
亘る結城氏のお墓がありました。
このお墓が結城朝光のお墓です。



結城朝光は頼朝の御家人で、鎌倉幕府の
初期の頃、頼朝の側近として活躍したそうです。





弘経寺
(ぐぎょうじ)



称名寺を訪れた後、弘経寺に向かいました。
弘経寺は、家康の次男・結城秀康が
息女・松姫の供養の為に建立したお寺です。



二つの立派な門を抜けて本堂に向かいました。



結城秀康の所縁なのでしょうか、江戸時代には
50石の寺領が安堵されていたそうです。
広い境内がそれを物語っていました。

また、このお寺は与謝蕪村所縁のお寺でもあり、
蕪村が滞在中に書いた襖絵などが残っているそうです。





結城の町並みを抜けて結城城へ



結城の市街地のやや西に位置する称名寺と
弘経寺を訪れた後に、市街地の東に
位置する結城城址を目指しました。

称名寺の北側に酒蔵がありました。



この角を東に折れ、結城の街中へと歩いていきます。
結城の街中では,古い建物をいくつか見かけました。



これは古い蔵を利用したレストランです。

その向かいには国の有形文化財に
指定されている建物がありました。
結城で紬問屋を営んでいる奥順の見世蔵です。



この見世蔵は、1886年(明治19年)に建てられたそうです。
この奥順には、この他にも明治から大正にかけて
建てられた建物がいくつもあるようです。


この奥順から更に東に向かうと結城市役所があり
この辺りが市街地の境のようです。

路の脇に整備された小公園はあり、
その先に土塀が続いていました。



この土塀は結城小学校の塀の様ですが
江戸時代の武家屋敷を彷彿とさせます。


結城小学校から緩い坂道を下り、結城用水を
渡ると、田圃も広がるような光景になりました。

結城の街から北に向かう道の脇に
参道が続いていました。



何か神社かも、と思い訪ねて行くとそこは
親鸞聖人の妻・玉日姫のお墓でした。



玉日姫は関白・九条兼実の七女だったそうです。
親鸞の妻となり、越後に流刑になた親鸞が
その罪を赦され関東に向かったとの知らせを受け
この結城の地に向かい、この地での親鸞の
布教活動を支えたそうです。

この結城の地に、親鸞聖人の足跡があるのも
知りませんでしたが、その妻のお墓が
あるを知って大いに驚きました。


この玉日姫のお墓から目的地の
結城城までは目と鼻の先でした。

結城城の登城記はこちらです。




関東地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る