古河
Koga, Japan




古河は、茨城県最西端にあり、
栃木県や群馬県に囲まれた街です。

江戸時代には、古河藩が置かれ
日光街道の宿場町としても栄えたようです。

室町時代の1455年(享徳4年)には、第5代鎌倉公方・
足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、
以降、長くこの古河が関東の中心でした。





2009年8月に、古河城を訪れた際に
古河の街を散策しました。

正直、あまり期待はしていなかったのですが、
さすがに古河公方の本拠地で、江戸時代に
藩が置かれていたので色々な史跡がありました。





古河宿



JR古河駅で下車し、西に向かい
市内を縦断する県道261号線の辺りが
江戸時代の古河宿跡の様です。



通りには「古河宿本陣跡」と
書いた石標がありました。
その南側にあった高札場の石標です。



今は、旧国道4号線沿いに商店が並んでいますが、
この道が往時の日光街道で、この辺りに
いくつも宿屋が並んでいた事でしょう。


ここから、しばらく旧日光街道に沿って
北に向かってみました。

北に向かって2つめの角を左に曲がり、
更に次の角を右に曲がります。

「よこまち柳通り」と書かれた通りがありました。



古風で立派なうなぎ屋さんが店を構えています。
この辺りは、当時は花街だったそうですが、
その名残は感じませんでした。

この近くにあった古河提灯竿もみ祭りの発祥地の碑です。



どんなお祭りかと調べてみると栃木県の
野木の野木神社のお祭りだったようです。
野木も江戸時代には古河藩領で、明治以降
古河で行われるようになったそうです。

長い竹の竿の先に吊るした提灯を
お互いに消しあうそうです。


この辺りから西に向かったところに
武家屋敷の造りを残すお屋敷がありました。



この一角は、時代が遡ったような雰囲気でした。





正定寺から篆刻美術館



古河の街中に正定寺というお寺がありました。





このお寺は江戸時代初期に大老となった
土井利勝が建立したお寺だそうです。
土井利勝は、1633年(寛永10年)に佐倉から
この古河に移り藩主となっています。

正定寺には、土井家江戸下屋敷表門がありました。



薬医門形式のこの門は、昭和に入ってから
江戸・本郷から移築されたそうです。

東京・本郷の散策記はこちらです。


正定寺の赤い正門です。



お寺でこのような赤い門は
珍しいのではないでしょうか。

この正定寺には土井家墓所がありました。



土井家は、江戸時代に計155年に亘り
この古河の地を治めたようです。

土井家の墓所は元々は東京・
浅草の誓願寺だったそうですが、
この墓所も昭和に入ってから移されたそうです。


この正定寺から南に向かいました。
街角の一角に古風な商家がありました。



この古い建物は、古河文学館別館となっていますが
作家・永井路子さんが3歳から結婚されるまで
過ごした建物だそうです。





江戸時代に建てられたこの建物は、
ここは内部も見学出来るそうですが、
何故か足を留めずに、次に向かいました。

永井路子さんの旧宅から東に向かうと
石造りの蔵の建物がありました。



ここは、酒蔵を改造した篆刻美術館でした。
大正時代に建てられたこの蔵は、
国の有形文化財に指定されています。

この篆刻美術館の脇は赤煉瓦の小路が続いています。



この小路を南に向かうと
古河城出城跡に辿り着きます。





古河城出城と鷹見泉石記念館



篆刻美術館脇の小路を南に下り、
しばらく行くと、文学館があります。



この文学館の脇に、古河城出城跡の碑があり、
この文学館から南に建つこ歴史博物館にかけて
当時の土塁と復元整備された堀がありました。



古河城の登城記はこちらです。


この出城跡の南側に、鷹見泉石記念館があります。
ここは当時、古河藩武家屋敷で、古河藩家老だった
鷹見泉石が最晩年を過ごした所です。



長屋門から屋敷を眺めた様子です。



この建物は、1633年(寛永10年)に土井利勝が
古河城に移封になった際に築いた御三階櫓の
残った材料を用いて築いたと言われています。



江戸時代のこの屋敷は、敷地で今の2倍、
建屋は今の4倍の広さがあったそうです。



鷹見泉石は、1785年(天明5年)に生まれています。
藩士・土井利厚や土井利位に仕え、土井利位が
老中になった際には、内用役を務めていたようです。



屋敷の内部の様子です。
さすがに家老屋敷だっただけあり、
屋敷の中は、静かで気品の高いものでした。

写真右の「可琴軒」というのは鷹見泉石の号の一つで、
泉石が引退の際に揮毫されたものだそうです。





長谷観音から肴町



古河城出城跡や鷹見泉石記念館を訪れ、
緩やかな坂道を西に下っていくと
長谷観音がありました。



この長谷観音は、初代古河公方の足利成氏が
明応年間(1492年〜1500年)に、鎌倉の
長谷から勧請した十一面観世音菩薩があります。





この長谷観音は、古河城の北東の位置にあり
江戸時代の歴代古河藩主も鬼門仏として
祈願所としていたそうです。


この長谷観音から、古河城出城跡の方向に戻り、
さらに東に向かうと、浄土宗の了正寺があり、
その隣に福法寺がありました。



この写真は、了正寺の本堂です。





この福法寺の門は、古河城乾門を
移築したものと伝わっています。



古河城の登城記はこちらです。



この福法寺の北の角を右に折れると肴町です。

江戸時代には、参勤交代等で古河城下を通る
諸大名は挨拶をし、古河藩からは役人が出向き、
おもてなしをしたそうです。



その取次所を御馳走番所といい、
この界隈を肴町と呼ぶようになったそうです。

古河藩使者取次所の石碑が残っていました。

こちらは、肴町に残る土蔵です。



古河の町割りは、1619年(元和5年)に
古河城主となった奥平忠昌が行ったそうです。

古河の街には、所々当時の面影が残っていました。



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