宇都宮
Utsunomiya, Japan








宇都宮は、栃木県の中央に位置する栃木県の県都です。
現在、人口は50万人を超えており、北関東随一の都市です。

元々この地は宇都宮氏が治める地でしたが、
1597年(慶長2年)に秀吉により改易となります。

徳川幕府が成立すると、宇都宮藩が置かれ
奥平氏や本多氏など譜代の大名が治めました。
宇都宮藩の藩庁は宇都宮城に置かれていました。
宇都宮城の登城記はこちらです。

宇都宮はまた奥羽街道と日光街道の
追分の宿として栄えていました。





この宇都宮には、1991年から1992年にかけての
1年半ほど暮らしていた事があります。

現在は餃子の街としても売り出しています。


2009年12月に、久しぶりに宇都宮の街を散策しました。
その際の様子を紹介しようと思います。




大谷寺周辺
(Oya Temple and the surrounding area)
Oct. 29, '14


大谷資料館
(Oya History Museum)
Nov. 01, '14


二荒山神社
(Futaarasan Shrine)
NEW ! Nov. 05, '14


宇都宮城
(Utsunomiya Castle)
Sep. 13, '09





関東地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る









大谷寺周辺
(Oya Temple and the Surrounding Area)







宇都宮市の西部に大谷という地区があります。
ここは古くから石の産地で、栃木を旅していると
白っぽい色の大谷石で造られた建物を
ちょくちょく見かける事が出来ます。

関東大震災の際には、大谷石で出来た
建造物は被害が少なかった事から
その人気が高まったとも言われています。

宇都宮駅から大谷・立岩行きバスに乗り、
30分程で資料館入口のバス停に到着します。

ここが大谷石の産地になります。



バスを下りると、目の前に大谷石を切り出した
丘陵地の崖が目の前に迫ってきました。

白い岩肌がとても特徴的です。



バス停の近くには、この岩肌を見渡せる
景観公園という公園が整備されています。

公園に面した岩肌は、陽が陰っていましたが
道路を隔てた反対側の岩肌は、
朝陽を浴びて輝いているようでした。



大谷石の採掘は江戸時代から始まり、
昭和初期までは露天掘りをしていたようです。
この景観公園から、切り立った
岩肌の間を道が連なっていました。



この道を進むと、ハーフドームの様に切り立った
断崖絶壁の石の壁が現れ、広々とした空き地に出ました。



アメリカ・
ヨセミテ公園のハーフドームは氷河が造った
自然の造形ですが、大谷のこの断崖の岩の壁も
規模こそ違え、迫力のあるものでした。

大谷石の採石場は現在では地下にも広がり、
その一部は大谷資料館として公開されています。

その様子は、こちらです。



大谷資料館を訪れた後、
大谷寺や平和観音に向かいました。

大谷寺は810年(弘仁元年)に
弘法大師が開基したと伝わります。



大谷寺境内の洞穴には日本最古の磨崖仏とされる
千手観音や釈迦三尊など多くの仏像が彫られています。



国の特別史跡と重要文化財の
二つに登録されている大谷寺ですが、
訪れた12月の下旬は非公開となっていて
貴重な仏像が拝めず残念でした。



大谷寺の周囲にある五輪の塔などを眺めながら
切り立った岩の間の道を進みます。



その先には平和観音がありました。



平和観音は太平洋戦争の犠牲者を悼んで
1956年(昭和31年)に開眼した仏像です。

高さが約27mもある大きな仏像で、
この仏像も大谷石で出来ています。



平和観音の仏像の周囲に上る事が出来ました。

肩の高さの辺りでしたが、仏像の手前の
広場を見下ろすと、目がくらむような高さです。



間近に眺める平和観音です。

反対側には先ほど訪れた大谷寺が見えていました。



この平和観音の近くには多くの奇岩を見る事が出来ます。



この写真は、大谷石の採掘跡です。
垂直に切り立った崖は迫力ありました。

平和観音の前にある親子蛙の石です。



こちらは天狗の投げ石です。



崖の上に、天狗が投げたと伝わる岩が、
バランスを取りながら止まっていました。



宇都宮のページのTopに戻る







大谷資料館
(Oya History Museum)







景観公園から切り立った岩の間を
進んだところに大谷資料館があります。

ここには大谷石採掘の資料展示もありますが
一番の見所は広大な地下の採掘場跡です。

資料館に入って早々に地下の採掘場跡に行ってみました。



この階段を下りていくと、目の前に
巨大な地下空間が広がっていました。



この地下採掘場跡は140m x 150mの大きさで
野球場がすっぽり入る程の広さです。

空洞の高さも予想以上で、地下採掘場跡の
フロアーがかなり低い地に広がっていました。

フロアーに下りて、振り返って眺めた
出入り口の様子です。



この広大な地下空間は、第二次大戦中には
戦闘機の機体工場として利用されたそうです。
出来上がった機体をどうやって運び出して
いたのか、ちょっと疑問ですが・・・

採掘跡には所々柱が残されて堀進められたようです。



所々、地下神殿への入り口かと
思うような造形もありました。


緩やかな下り坂に沿って奥へと進んで行きます。
地下採掘場の突き当りにはライトアップされた
青い色の柱の様なものがありました。



この造形はとても印象的でした。

この地下採掘場跡は、現在では展覧会や
演奏会、映画の撮影にも利用されているようです。

この印象的な、ライトアップされた造形を見ると
それも、さもありなんと思えます。



暗い採掘場跡には、ライトが照らされています。
この地下の採掘跡は一年を通して気温が低く
年平均気温は8℃との事です。

この安定した気温の為、戦後の一時期は
政府保管米の貯蔵庫としても用いられたようです。


採石場跡の上部には立坑がありました。
青白い光が差し込む不思議な光景です。



この立坑は、地下採掘場の位置を
調べる為に掘られたそうです。


切れ出された岩の表面には
手掘りの跡も残っています。



1959年(昭和34年)までは手掘りで、
大谷石の採掘が行われていたそうです。

ちなみに一本の石を切り出すのに、
4000回もツルハシを振るったそうです。

大谷石は比較的柔らかな凝灰石との事ですが、
それでも採掘にはかなりの苦労が伴っていたようです。



大谷石は白色の石ですが、一部には
沁みが浮き出ている箇所もありました。



この沁みは「ミソ」と呼ばれ、綺麗な白色の
石だけを掘りだす様にしていたようです。


この採掘場跡は産業遺産に登録され、
1979年(昭和54年)に公開されています。

公開されている範囲はおよそ1/3程度との事です。



色々なところを見て回ったのですが
このライドアップされた壁がいい目印に
なって迷子にならずに済みました。



大谷石の採石場跡は、とても規模が
大きく、印象的な所でした。



宇都宮のページのTopに戻る







二荒山神社
(Futaarasan Shrine)







宇都宮の市街地に、二荒さんという名前で
親しまれている二荒山神社があります。



二荒山神社は、関東地方には幾つかあるそうですが
この宇都宮と日光の二荒山神社が
その大元締めになるようです。


日光二荒山神社の様子は、こちらです。
日光の様子は、こちらです。


二荒山神社は、八幡山から続く
丘陵地の南の端に位置しています。





宇都宮駅から真っ直ぐ西に伸びる大通りに面して
鳥居が立ち、その先に階段が続いています。



階段の途中から振り返って眺める
鳥居の様子です。



石段の途中に末社が左右に幾つも並んでいます。
二荒山神社には全部で13の末社があるようです。



階段を上りきったところの神門です。



二荒山神社が創建されたのは仁徳天皇41年と伝わります。
仁徳天皇が在籍した年が確定していないので
4世紀から5世紀頃になると思います。

二荒山神社の神殿です。



御祭神は豊城入彦命です。

崇神天皇の皇子で、垂仁天皇と崇神天皇と
後継を争ったとも言われているようですが、
東国に遠征し、毛野国を治めたそうです。



宇都宮のページのTopに戻る


関東地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る