東京 / 深川
Fukagawa in Tokyo
東京の深川は富岡八幡宮の
門前町として栄えたところです。
このあたりは下町を代名詞みたいな
印象もあるのですが、隅田川の東側は
徳川家康が江戸に入封した頃は下総国で、
江戸の範疇には入っていなかったようです。
富岡八幡宮のある門前仲町から清澄白河、
そして芭蕉庵へと行ってみました。
門前仲町界隈
門前仲町は永代通と清澄通の交差する
要衝の地で、地下鉄東西線と大江戸線が
交わっています。
この門前仲町から東へ向かうと
富岡八幡宮がありますが
西へ向かったところに、渋沢栄一と
佐久間象山ゆかりの史跡がありました。
門前仲町の駅を出て右に向かい、
商店街を過ぎると、大島川西支川という
運河の辺に出ます。
この川に架かる福島川の東側に
渋沢栄一宅跡がありました。
渋沢栄一は今の埼玉県深谷市生まれで
明治から大正にかけて活躍した実業家です。
生まれは幕末の1840年(天保11年)。
一橋家に使え、一橋慶喜公(後の徳川慶喜)が
15代目の将軍となると幕臣となり、渡欧しました。
明治となり、日本に帰国した後は大蔵省に入省しますが
1873年(明治6年)に実業家に転進します。
大蔵省時代には旧官営富岡製糸場の
建設にも尽力したそうです。
旧官営富岡製糸場の様子はこちらです。
渋沢栄一は、この地に1876年(明治9年)から
1888年(明治21年)までの12年間の間、
住居を構えたそうです。
渋民栄一の旧居の脇を
流れる大島川西支川です。
この川の両岸は元禄期(1688年〜1704年)
迄には埋め立てられたそうです。
この大島川西支川の対岸は
かつて信州の松代藩の下屋敷がありました。
松代の様子はこちらです。
この下屋敷に佐久間象山が
砲術塾を開いたそうです。
佐久間象山は1811年(文化8年)生まれの
松代藩士で、藩主の命で海外事情調査をし、
また江川太郎左衛門に西洋砲術を学んだそうです。
江川太郎左衛門の邸宅のある
韮山の様子はこちらです。
1850年(嘉永3年)に、佐久間象山が開いた
砲術塾には勝海舟も入門したそうです。
翌年に木挽町(中央区)で再び砲術塾を開き、
その時は吉田松陰や坂本龍馬も入門したそうです。
機会があれば木挽町の砲術塾跡にも
立ち寄ってみたいです。
富岡八幡宮界隈
2007年12月1日の土曜日の朝早く、
地下鉄で門前仲町に出て、
富岡八幡宮に向かいました。
富岡八幡宮の参道の入り口です。
赤穂浪士も、両国の吉良邸に討ち入る前に
富岡八幡宮前の茶屋で最後の
打ち合わせを行ったそうです。
富岡八幡宮は1627年(寛永4年)の創建です。
江戸時代には幕府から手厚い
保護を受けていたそうです。
富岡八幡宮は、江戸勧進大相撲発祥の地との事で、
境内にいくつも、大相撲に関連した碑がありました。
まず目に付いたのは大関力士碑です。
歴代の大関を顕彰したものです。
その横には巨人力士身長碑という
細長い円柱状の碑も建っていました。
円柱の碑の上の方に横線が引いてあり、
歴代の身長の高い力士名が書かれています。
もっとも身長が高かったのは、出雲出身の
釈迦嶽雲右衛門関で、2m26cm(七尺五寸)、
次いで、寛永年間の鬼勝像之助関の
2m23cm(七尺四寸五分)だったそうです。
大相撲以外にも伊能忠敬の像や
大きなお神輿がありました。
これは、伊能忠敬の像です。
日本各地への測量の旅に出る前に
この富岡八幡宮に安全祈願の
お参りをしていたそうです。
そしてお神輿。
この富岡八幡宮のお神輿は日本一大きいそうですが、
ガラスの向こうに展示されているお神輿が
それかどうかは分かりませんでした。
本殿の近くから参道を振り返ったところです。
確か、朝8時台だったと思うのですが、
何人かの人が八幡宮に訪れ、
お祈りしていました。
本殿は、立派な構えです。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で
この周囲は大きな被害を受け、
富岡八幡宮の本殿もその際に
焼失してしまったそうです。
そして、本殿の右にある横綱力士碑です。
この富岡八幡宮で勧進相撲が
初めて行われたのは
貞享元年(1684年)の事だそうです。
富岡八幡宮の境内にはこの他にも
木場の角乗りの碑もありました。
富岡八幡宮を訪れた後に、西に向かうと
永代寺の前を通りかかりました。
裏通りにあるひっそりとしたお寺さんですが
江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として
栄えたそうですが、明治以降の
神仏分離で一旦廃寺になったそうです。
以前、門前仲町は深川永代門前仲町と呼ばれ、
このお寺の名が地名になっていたそうです。
この永代寺前を抜けると
深川不動堂が見えてきました。
参道では出店の人たちが
店の準備を始めていました。
このあたりは、信心深い昔ながらの
下町風情が今でも残っているようです。
霊巌寺と清澄庭園
富岡八幡宮界隈を散策した後、
門前仲町から都営地下鉄・大江戸線で
清澄白河に向かいました。
まず向かったのは、霊巌寺です。
霊巌寺には、寛政の改革を行った、
陸奥白河藩主・松平定信のお墓があり、
国の史跡にしていされています。
白河小峰城の様子はこちらです。
霊巌寺は大きな地蔵様もありました。
江戸六地蔵の第五番というお地蔵様だそうです。
松平定信公のお墓は境内の
一番の奥近くにありました。
松平定信公は1758年(宝暦8年)生まれ、
没年は1829年(文政12年)です。
祖父が徳川吉宗ということで、
血筋には恵まれていたようです。
霊巌寺を訪れた後に、
清澄庭園に向かいました。
清澄庭園は、関宿藩主・久世家の下屋敷を
明治になって岩崎弥太郎が買収し、
岩崎別邸として造園されていたそうです。
泉水・築山・枯山水を備えた
「廻遊式築山林泉庭園」という
江戸時代の大名庭園を明治時代に
引き継いだ庭園ということです。
庭園の真ん中を占める泉水の中に
幾つかの島を浮かべ、対岸には
涼亭という東屋が建てられています。
水面に多くの水鳥が羽を休めていました。
泉水の背後には整備された庭園がありました。
色付いた木々が彩りを添えていました。
庭園の一番奥まったところには
芭蕉の句碑もありました。
古池や かわず飛び込む 水の音
芭蕉を代表する句のひとつです。
この句は、清澄庭園のすぐ近く、
隅田川沿いにあった芭蕉庵で
1685年(貞享3年)の春に詠まれたそうです。
芭蕉庵界隈
清澄庭園を訪れた後、西隣の
清澄公園を抜けてしばらく歩くと
隅田川沿い架かる萬年橋に出ます。
この橋の袂は、江戸時代には川船番所という
小名木川を通る船の検査をしていた番所が
置かれていたそうです。
萬年橋からはすぐ近くを流れる
隅田川が見えていました。
河口に近く、川というよりも
運河のような隅田川の眺め。
その一角に、芭蕉庵があります。
1680年(延宝8年)から1697年(元禄7年)にかけて
芭蕉はここで庵を結び、句を詠んでいたようです。
芭蕉庵には、芭蕉の句碑が幾つもありました。
上の写真の句碑は
"名月や 池をめぐりて 夜もすがら"
"古池や かわず飛び込む 水の音"
の句もこの芭蕉庵で詠まれていて、
当時は、古い井戸が掘られていたのでしょうか。
目の前を流れる隅田川も葦が
生い茂っていたことでしょう。
今、この芭蕉庵からは、ドイツ・ケルンの
ライン川に架かる吊橋をモデルにした
清洲橋が架かり、ケルンの眺めと称されています。
この景色は、ケルンの街を髣髴とさせ、
広々としたいい景色なのですが、
芭蕉が庵を結んでいた当時の
面影はないようです。
ケルンの様子はこちらです。
隅田川に沿って、上流に向かって
歩いていくと「旧新大橋跡」の碑がありました。
新大橋は1693年(元禄6年)に
隅田川に架けられた橋です。
今の両国大橋は、その当時、
大橋という名称だったので、
新大橋という名前が付けられたそうです。
このあたりは森下駅に近く、この後、
大江戸線で両国に向かいました。