雲巌寺
(Ungan Ji Temple)
雲巌寺は栃木県東北部、阿武隈山地の
中にある古刹で、臨済宗の禅寺です。
1283年(弘安6年)に仏国国師によって開山しています。
当時は鎌倉幕府の庇護もあり大きく栄えたようですが
その後、戦国の世となり、"法雲漸く衰え"という状態となり
1578年(天正6年)に無住妙徳禅師が宗派を
臨済宗妙心寺派とし再興しています。
1590年(天正18年)、秀吉の小田原征伐の際に
豊臣軍が烏山城を攻めた際には、付近の住民が
雲巌寺に逃げ込んだ為に、焼き打ちに遭っています。
烏山城の登城記はこちらです。
この戦火で焼失した堂宇は、数年後に再建され
また1847年(弘化4年)にも火災に遭いますが
2年後には再建されたそうです。
芭蕉も1689年(元禄2年)、 黒羽滞在三日目の4月5日
(新暦5月23日)に,この雲巌寺を訪れています。
2010年4月29日、前日に宇都宮方面に出張があり
西那須野駅前のビジネスホテルに泊まり、
翌日に西那須野駅からバスを乗り継いで
雲巌寺に向かいました。
雲巌寺までのバスの乗車記は、こちらです。
他に乗客のいないバスを、終点の雲巌寺で下車すると
お寺の入り口は、バス停の目と鼻の先にありました。
赤い瓜てつ橋の向こうに山門が聳えていました。
「てつ」は爪偏に失です」
瓜てつ橋の下には武茂川の清流が流れています。
橋を渡り、山門へと至りました。
一説によるとこの山門は、弘化年間の火災を免れ、
小田原征伐の後に再建された当時から残っているそうです。
山門からは仏殿が見えています。
禅宗のお寺の、凛とした空気が伝わってきます。
既に9時に近い時間ですが、気温も低く、前日の雨で
辺りは霞が漂う雰囲気で心が洗われる思いがします。
仏殿の様子です。
この雲巌寺の佇まいを一人出来るのは
なんて優雅な事なのだろうかと思います。
仏殿の右手に鐘楼と浴室が見えていました。
仏殿の左には勅旨門があり、
奥には一段高い位置に方丈がありました。
雲巌寺は福岡市の聖福寺や福井の永平寺、
和歌山県日高郡にある興国寺と共に
禅宗の四大道場とされているそうです。
仏殿の脇には勅使門があり、
その向こうに方丈が建っていました。
少し離れて仏殿と勅使門、一段高い位置の
方丈と庫裡を眺めた様子です。
この伽藍の様子も心洗われるものでした。
この左手に苔むした芭蕉の句碑がありました。
芭蕉は、参禅の師である仏頂和尚が修行の為に
結んだ庵跡を訪れる為にこの雲巌寺を訪れました。
"木啄も 庵はやぶらず 夏木立"
凛とした雲巌寺の境内、芭蕉がこの地を訪れた時も
静かな様子を愉しんだものと思っていましたが
芭蕉は多くの人と一緒にここを訪れています。
芭蕉の句碑を眺めた後、仏殿の背後の、
一段高い方丈にも行ってみました。
方丈からのこの眺め。
雲巌寺は名刹だと、感じ入って眺めていました。
ゆっくりこの雲巌寺の佇まいを味わって居たかったのですが
黒羽から乗ったバスは、30分で折り返してしまいます。
後ろ髪をひかれる思いで、山門をくぐり
瓜てつ橋を渡ってバス停へと戻りました。
バス停の先には、舗装された道の脇に
総門が建っています。
堂々とした山門に比べ、質素な造りでした。
この総門の横に御手突石がありました。
水戸黄門で知られる徳川光圀公ゆかりとの事です。
碑には寛文3年と書かれているので
1663年に光圀公はここを訪れたのでしょうか。
この近くに白糸の滝もあり、
水量豊富な滝の様子を眺めていました。
帰りのバスの発車時間も迫っていましたが、
芭蕉が訪れた仏頂和尚の庵跡に
立ち寄っていない事に気が付きました。
慌てて裏門に向かってみました。
裏門の先にお堂があり、これが仏頂和尚の
庵跡かと思いながら、後ろ髪を
ひかれる思いで、バス停に戻りました。
後で調べてみると仏頂和尚の庵跡は
立ち入り禁止となっているようです。
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大雄寺
(Daiyu Ji Temple )
雲巌寺を訪れた後、9:20 のバスで黒羽に戻りました。
これは2010年4月当時のダイヤです。
その後、バスのダイヤ改正が行われています。
こちらをご参照下さい。
黒羽では戦国時代末期に大関氏が築いた
黒羽城を訪れる事を目的にしていました。
黒羽の集落の手前の大雄寺入り口で下車し、
目的地の黒羽城を目指しました。
黒羽の町の西側を流れる松葉川です。
川を渡ると何やら歴史のありそうなお寺がありました。
門前の碑には黒羽山大雄寺とあります。
予定はしていませんでしたが、佇まいが
良さそうなので、足を向けてみました。
緩やかな傾斜の石段を上り、山門に辿り着きました。
大雄寺は1404年(応永11年)に
創建された曹洞宗のお寺です。
雲巌寺の120年程後の創建ですが
現在では600年を超える歴史があります。
この先にも続く石段を上りつめると大雄寺の
伽藍がありますが、その左手前に
経蔵と「集古館」がありました。
こちらは経蔵です。
一切経4,500巻が納められているそうです。
そしてこちらが「集古館」です。
大雄寺は、黒羽藩の藩主だった大関氏の菩提寺で、
その大関氏所縁の品々が納められ、
一般公開もしていたようですが、
そうとは知らずに見学しませんでした。
その後に向かった総門です。
大雄寺は、どのお堂も萱葺きで、
その佇まいは素晴らしいものでした。
総門から本堂へは回廊も巡らされています。
こちらは禅堂です。
そして、こちらが本堂です。
これらの伽藍は1448年(文安5年)のものという事で
栃木県の文化財指定を受けているそうです。
予備知識なく訪れた大雄寺ですが
素晴らしい佇まいでした。
境内の奥に、藩主・大関氏一族のお墓がありました。
大関氏はこの地方の国人から戦国時代末期に
那須氏に代わりこの地の本領を安堵され、
江戸時代を通じ国替えが無かった為
多くのお墓がありました。
これは第19代の大関高増のお墓です。
大関高増は、戦国時代後期の1527年(大永7年)に生まれ
1600年(慶長5年)または1598年(慶長3年)に亡くなった武将です。
主君の那須氏に反旗を翻していますが、
その後那須氏の重臣として活躍しています。
この大関高増の一番の功績は、秀吉の小田原征伐の際に
主君の那須氏に先んじて参陣し、本領を安堵され
1万3千石の大名となり、江戸時代を通じ、
大関氏が黒羽の地を治める事になっています。
この墓地も良く整備され、小藩に過ぎなかった
黒羽にも立派な文化と伝統があった事を知りました。
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浄法寺跡
(Ruin of Jyoho Ji Temple)
思いがけず大雄寺の素晴らしい佇まいに触れ、
黒羽城へと足を向けました。
坂道を上って行くと、土塁跡が現れ
黒羽城黒門跡の碑が立っていました。
黒羽城の登城記は、こちらです。
この碑の脇に芭蕉の句碑もありました。
田や麦や 中にも夏の ほととぎす
芭蕉が黒羽滞在中に詠んだ句です。
芭蕉は、"おくのほそ道"紀行の際に
この黒羽に立ち寄り、14日間も滞在しています。
その滞在中の8日を黒羽藩城代家老
浄法寺高勝(桃雪)の邸宅で過ごしました。
その旧浄法寺邸跡が、この黒門跡の脇から
少し上がったところにありました。
公民館の様な建物が建っていて
ここが浄法寺邸跡です。
庭には枝垂れ桜でしょうか。
花も咲きのどかな景色でした。
この近くに黒羽城の土塁跡が残っていました。
その土塁の上に句碑がありました。
桃雪書信連句碑というそうで
芭蕉がここに滞在した際に、桃雪、
等躬、曾良そして芭蕉の句が刻まれています。
芭蕉の句は
夕食喰賤が外面に月出て
と刻まれているようです。
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黒羽の町並み
(Kurobane Downtown)
黒羽城を訪れた後、黒羽の町に向かいました。
黒羽城の登城記は、こちらです。
丘陵地にある黒羽城から坂道を下り
広々通した平野を見下ろすと、
那珂川に架かる橋を渡りました。
橋を渡り終えると黒羽の街に入ります。
近くの常念寺に立ち寄ってみました。
山門の佇まいが歴史あるお寺という事を
物語っているようでした。
このお寺に芭蕉の句碑がありました。
野を横に馬牽むけよ ほとゝぎす
奥の細道に記された句です。
この句碑は芭蕉が黒羽で訪ねた
伝浄法寺桃雪が建立したものですが、
年代ははっきりしていないそうです。
常念寺から黒羽の街を散策してみました。
黒羽の町には思いがけず古い建物が残っていました。
こちらは、黒羽藍染紺屋さんです。
お店には入らなかったのですが、
このお店の暖簾は良かったです。
この黒羽の町の真ん中を
国道294号線が通っています。
この道に沿って、南に向かいました。
通りに沿っていくつか蔵の建物がありました。
この建物の向かいには銀行の建物もありました。
この建物も蔵造りです。
明治末期に建てられ、国の有形文化財に指定されています。
明治には、土蔵造りの銀行が全国各地に造られたそうですが、
取り壊されている例が多く、現存している例は少ないそうです。
栃木県で、現存する土蔵造りの
銀行の建物は、これだけだそうです。
予定していなかった黒羽の町歩き。
少し離れた黒羽郵便局のバス停まで
戻る時間は無くなってしまいましたが、
向町・花月前のバス停で、黒羽郵便局からの
11:51発の西那須野行バスに乗る事が出来ました。
西那須野から黒羽郵便局経由で
雲巌寺までのバスの乗車記は、こちらです。
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