興福寺
(Kofukuji Temple)
2010年10月23日、関西本線の普通列車で
奈良に行き、西ノ京の唐招提寺や薬師寺を
訪れた後に、興福寺に向かいました。
関西本線の乗車記はこちらです。
西ノ京の散策記はこちらです。
奈良駅の第二代目駅舎です。
撮影: 2010年10月
興福寺は、奈良駅の北側の道を東に向かいます。
1km程、商店街の中を歩いていくと奈良県里程元標と
大きく書かれた木碑が立っていました。
撮影: 2010年10月
その奥には興福寺の高札が
いくつも掲げられていました。
この先に、猿沢の池があります。
撮影: 2010年10月
昼下がりの猿沢の池には、多くの人がいて
のんびりと時間を過ごしていました。
この猿沢の池からの興福寺五重塔の眺めは
つとに名高く、そして好きな眺めです。
撮影: 2010年10月
暫く、この眺めをゆっくりと楽しんだのち、
興福寺に向かいました。
興福寺の境内へとつながる階段の麓には
奈良茶漬のお店がありました。
撮影: 2010年10月
この階段を上ると、興福寺の五重塔と
東金堂の前に出ました。
2013年1月、まだ夜が明けきる前に
興福寺にやってきました。
撮影: 2013年1月
冬はつとめて、さながらに、普段は人混みの五重塔の
前には誰もおらず、張り詰めた冷たい空気の中、
五重塔と東金堂がシルエットとなって
冬の空に浮き上がっていました。
興福寺は、7世紀半ばの天智天皇在位の頃、
山背(やましろ)国にあった山階寺が起源の様です。
その後、飛鳥に移り厩坂寺と称し、更に平城京に
遷都された際に、興福寺という名で再び移されました。
山階寺を建立したのが、藤原鎌足の夫人・鏡大王。
平城遷都に際し、興福寺を建立したのが
その子、藤原不比等と言われています。
興福寺の境内図です。
東側の五重塔、東金堂、西側は北円堂、南円堂や
三重塔など、国宝や重要文化財の建物が多く残って
いますが境内の中心を占める南大門や中金堂や
それらを囲む回廊などは失われています。
今、中金堂が復元工事中で、
回廊なども整備されるようです。
明け始めた空に映える国宝の五重塔です。
撮影: 2013年1月
興福寺のみならず、古都・奈良を象徴する建物です。
この五重塔が建てられたのは730年(天平2年)の事です。
藤原不比等の娘・光明皇后が建立したそうです。
現在の塔は1426年(応永33年)に再建されています。
その北隣の東金堂です。
撮影: 2010年10月
西を向いたお堂で、726年(神亀3年)に聖武天皇が
叔母の元正太上天皇の病気全快を願って建立した際には、
薬師如来の浄瑠璃世界がこのお堂で現わされていたそうです。
この東金堂は、何度か火災に遭い、今の建物は
1415年(応永22年)に再建されたものだそうです。
境内で見かけた春日神社の鹿です。
撮影: 2010年10月
明治の神仏分離以降は、春日神社と興福寺は
別々になっていますが、それ以前は興福寺が
春日神社を管轄していたそうです。
それだけでなく、室町時代には興福寺が
山城の国を治めていた事もあったそうで、どれ程、
寺勢が盛んだったか、想像もつかない程です。
再建工事の始まった中金堂の様子です。
撮影: 2010年10月
興福寺の最も重要な建物で、
当時は回廊が巡らされていました。
この中金堂も度重なる火災を受け、1717年(享保2年)に
焼失した後は100年後の1819年(文政2年)に
仮のお堂として復興されていた様です。
今回の中金堂の再建では、回廊と中門は基盤整備が
行われるようですが、南大門の再建計画もあるようです。
ここから更に西に向かうと築地塀がありました。
撮影: 2013年1月
確か、この塀に囲まれた中に、
南円堂があったと思います。
この南円堂は五重塔や東金堂とは異なり、
庶民的な雰囲気が漂っていました。
撮影: 2013年1月
西国三十三所霊場の札所になっていて、
多くの参拝客がいました。
南円堂は藤原冬嗣が父・内麻呂の冥福を願い
813年(弘仁4年)に建立したお堂です。
今の建物は1741年(寛保元年)に再建され、
本尊の不空羂索観音菩薩坐像など
三体の国宝の仏像が収められています。
南円堂の北には、北円堂もあるのですが、
そちらは普段は非公開故か訪れていません。
いつの日にか訪れてみたいです。
撮影: 2013年1月
国宝の北円堂は遠くから眺めるだけでした。
南円堂から斜面を下ると、
ひっそりと三重塔が建っていました。
撮影: 2013年1月
この三重塔は1143年(康治2年)に崇徳天皇の中宮が
建立し、1180年(治承4年)に被災したものの、
その後すぐに再建されたそうです。
興福寺に残る最も古い建物で、
国宝に指定されています。
色々と見どころの多い興福寺をざっと巡りましたが、
興福寺で、忘れてはならないのは、国宝館です。
撮影: 2013年1月
興福寺には五重塔など4棟の建物を含み
全部で45件もの国宝があり、その多くが
境内に建てられた国宝館に陳列されています。
数多くの国宝の仏像を目の前にすると、
思わず身が震えるような感覚に襲われます。
その中でも秀逸なのは、阿修羅像でしょうか。
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奈良町から元興寺
(Naramachi and Gango-Ji Temple)
興福寺を訪れた後、南にある元興寺に行ってみることにしました。
今は奈良の市街地の中にこじんまりと建っている元興寺ですが、
元々は蘇我馬子が建立し、奈良時代には朝廷の庇護を受けた
南都七寺の一つとして、栄えたお寺だったようです。
元興寺へは、猿沢の池から南に向かったのですが、
古い家並みの狭い路地が続いていました。
撮影: 2010年10月
この辺り一帯は、奈良町と呼ばれています。
奈良は戦災に遭わずに、またこの辺りは、戦後に
近鉄奈良駅一帯の賑わいに取り残された形になり、
古い家並みが残ったそうです。
街中にあった道祖神を祀る神社です。
撮影: 2010年10月
道祖神というと、信州の農村を思い出しますが
こうした街中にあるのは意外でした。
創建は平城天皇の砌、という事なので、
奈良時代の末期になります。
その頃は元興寺の境内にあったそうです。
この先も、古い町並みが続いていました。
撮影: 2010年10月
この町並みを抜けた先に
元興寺がありました。
元興寺の北門です。
撮影: 2010年10月
案内板によると、ここは当時の元興寺の
僧坊があったところだそうです。
訪れた際には不勉強で知りませんでしたが、
元々あった元興寺が衰退した後、
二つのお寺に分かれたそうです。
一つは、訪れたこの中院町の元興寺。
そして、もう一つは芝新屋町の元興寺です。
北門で左に折れ、境内の入り口の東門を目指しました。
撮影: 2018年9月
東門は、元々は東大寺の西南院の門だったそうです。
鎌倉時代に建立された門で、1411年(応永18年)に
この場所に、移築されています。
撮影: 2018年9月
門の案内板には、この門の移築をもって、この元興寺は
元興寺旧伽藍から独立したと記しています。
東門を抜けて眺める元興寺の極楽坊本堂です。
撮影: 2018年9月
当時の元興寺の僧坊の遺構で、国宝に指定されています。
1244年(寛元2年)に現在みる寄棟造りに改築されています。
撮影: 2010年10月
この極楽坊本堂があるため、この元興寺は
元興寺極楽坊と呼ばれています。
極楽坊本堂の西側にある禅室です。
この禅室も元興寺の僧坊の跡で、
国宝に指定されています。
撮影: 2018年9月
質素な造りですが、堂々とした感じで、
天平の雰囲気を伝えています。
建物の木材の一部に西暦582年に
伐採されたものが使われているそうです。
世界で最も古い木造建築部材になるそうです。
極楽坊本堂の西側の様子です。
撮影: 2018年9月
本堂の屋根が七色に輝いているのが判るでしょうか。
撮影: 2018年9月
鎌倉時代に改築された際に、この屋根の瓦は
飛鳥時代のものをそのまま使ったそうです。
写真ではなかなか伝えきれませんが、
この飛鳥時代の屋根の色合いは
とても感動的でした。
この禅室の南側には、いくつもの石塔や石仏が並んでいます。
こうして石塔や石仏を並べた所は浮図田と呼ばれています。
撮影: 2018年9月
小さな石仏でしたが、印象に残りました。
撮影: 2010年10月
元興寺は、今では小さなお寺ですが、
残る堂宇に遠い昔の寺勢を伺わせます。
しかし、このお寺は明治以降、酷く荒れ果てていたそうです。
今の様に、綺麗に整備される様になったのは、
昭和に入ってからのようです。
数多い観光客で賑わう境内の様子からは、
つい数十年前の事には思いも及びませんでした。
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