三木
Miki, Japan







三木市は兵庫県の南部、播磨地方の都市です。
2007年10月に三木城を訪れた際に
周辺の見所にも少し足を伸ばしました。

三木まで乗車した神戸電鉄の
乗車記はこちらです。

神戸電鉄の三木上の丸駅からまずは
三木城本丸跡の上の丸公園に向かいました。

三木城の訪問記はこちらです。


三木城址に稲荷神社の鳥居があり、その向こうに
北側の崖を下る階段が続いていました。



階段を下りて振返って撮った写真です。
この急な階段の上が三木城の本丸跡です。

階段を下りたところには「本町滑原
(なめら)
遺跡出土石列遺構」と記された
古い石が飾られていました。



ここの商店街の道路工事の際に
発見された石列と言うことです。

遺跡と聞くと古代のものを想像してしまいますが、
三木合戦時の焼土層の上に出土していた為、
戦国時代末期から江戸時代初めにかけての
屋敷等の町割り遺構らしいということです。

その石列遺跡のすぐ近くにあった商店街です。



立派なアーケードがあるのですが、
ひっそりとしていて行き交う人も
殆ど居ませんでした。


このあと、さらに三木城合戦で自害した
三木城主・別所長治公の首塚のある
雲龍寺に向かいました。



雲龍寺に向かう途中の路地の様子です。
ここに当時の三木城の城郭図がありました。



当時の三木城の城郭は広く、
雲龍寺も城郭内にありました。

先ほどの路地から住宅地の中を、
緩やかな坂道を上っていくと
雲龍寺に辿り着きました。



白い土壁に立派な門構えです。
そして堂々とした本堂。



別所長治公の首塚は雲龍寺の
裏手にありました。
当時の石を使った石垣があり、
立派な裏門を抜けた先に
首塚はありました。



首塚は、長治公と並んで
照子夫人の首塚もありました。

信長に反旗を翻し、その為に秀吉軍に包囲され
籠城戦は二十ヶ月にも及んだそうです。
食料の補給も絶たれた城内の状況は凄惨で
土壁の藁も食べたといわれています。

その城兵の命を救うため、別所長治は
妻子を手にかけ自刃しました。

長治公の首は、秀吉によって安土の
信長の元に送られ、それを雲龍寺の
安室春泰和尚がひきとって葬ったそうです。

彼の命日の1月17日の法要には、
藁に見立てたうどんが振舞われるそうです。


首塚を訪れた後、当時走っていた
三木鉄道の三木駅に向かいました。

雲龍寺の近くに咲いていたコスモス



青空にとっても映えていました。

坂道を下り、交通量の多い通りを歩いていると
また立派なお寺が見えてきました。

本要寺です。



門前を走る道路の拡幅で、
建物が窮屈になってしまっていますが、
鎌倉時代以前に創建された古いお寺です。

別所長治の自刃によって三木合戦が終わると
秀吉はこの本要寺に本陣を進めたそうです。

秀吉は2年にも及ぶ籠城戦で疲弊した
三木の町を立て直すために、この地を
免租地としましたが、その制札が
この本要寺に納められているそうです。



三木鉄道の列車の時刻が迫っていたので、
表から眺めただけで、三木駅に向かいました。

三木鉄道の乗車記はこちらです。


この三木には三木城攻めの
最中に亡くなった秀吉の参謀、
竹中半兵衛の墓もこの三木にあるようです。



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