園城寺・三井寺
Onjyoji Tmple (Miidera) Japan






長等山園城寺は琵琶湖の南西、比叡山から連なる
長等山に広がる天台寺門宗の総本山です。

一般には、三井寺として知られるこのお寺は
今から1300年以上も前、672年に大友皇子(天智天皇の子)と
大海人皇子(天智天皇の弟、天武天皇)との間に起こった
壬申の乱の後、この戦いで敗れた大友皇子の息子
大友与多王が父の霊を弔うために創建したお寺です。


貞観年間(859〜877)に、智証大師円珍和尚が、
中興されて以降は、東大寺・興福寺・延暦寺と共に
天台宗の「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに
数えられる程の大寺となりました。

園城寺の別称・三井寺は天智・天武・持統天皇の
三帝の誕生の際に御産湯に用いられたといわれる
霊泉があることから、「御井の寺」と呼ばれ
それが三井寺と転訛したそうです。

この三井寺には京阪電鉄坂本石山線の
三井寺駅から歩いていきました。
京阪電鉄坂本石山線の乗車記はこちらです。


三井寺駅前には琵琶湖疏水が流れていて、
この疎水に沿って歩いていきます。



この日はゴールデンウィークも始まった4月29日。
快晴の天気で、疎水の両側に新緑が目に眩しい程でした。



5分程歩いていくと、三井寺の総門が見えてきました。
受付を済ませ、いよいよ三井寺の境内に入りましす。

三井寺の伽藍は広大で、国宝・金堂をはじめ
多くの堂宇があり、その多くが重要文化財に指定されています。



道に迷ってしまいそうな程広大な境内ですが
まずは南の端の山腹にある観音堂を目指し、
そこから北に向かい、潅頂堂、一切経堂
そして金堂と巡る事にしました。


総門を入ってすぐに左手に折れると水願寺が現れました。



1040年(長久元年)に創建された園城寺の
五別所寺院のひとつとのことです。
現在の建物は1655年(明暦元年)の再建とのことですが、
質素なお堂に奥ゆかしさを感じました。

この水願寺を過ぎ、長等山の峰へと
続く長い階段を上って行きます。



うっそうとした山を上る階段ですが、新緑の木々が
陽の光を照らしていて明るく輝いているようです。

階段を上り終えると右手に毘沙門堂があり、
前方にはさらに階段が続いていました。

この階段を観音堂がありました。



1072年(延久4年)に後三条天皇の勅願で建立された堂宇です。
1686年(貞享三年)に火災にあい、現在の建物は
1689年(元禄二年)に再建されているものです。

お堂には多くのお札が貼ってあり、歴史を感じます。

高台に建つこの観音堂からは琵琶湖や
大津の街並みを一望する事が出来ます。



赤いキリシマツツジ越しに見る琵琶湖は
広々として爽快な感じがしました。

この観音堂の近くには観月舞台もあります。
駿河清見が関の女の人が行方知れずになった
子供会いたさに、一心不乱に鐘を撞いていると、
寺僧に伴われてたまたま観月に来ていたその我が子と
再開したという逸話があるようです。

この観月舞台から、琵琶湖に浮ぶ月影を
眺めながらの月見はさぞ風流なものと思います。


観音堂を辞し、階段を下り、毘沙門堂まで戻りました。



この毘沙門堂は小さな祠です。
周囲の木々が何故か紅葉のように色付いていて
鮮やかな新緑の景色の中、とても鮮やかです。

毘沙門堂も赤い神社の様な色に塗られ
綺麗な彩色が施されていました。
もともとは1616年(元和二年)に園城寺五別所のひとつ
尾蔵寺の南勝坊境内に建立されたものだそうです。


この毘沙門堂の奥に進んでいくと、
天台智者大師の坐像がありました。



天台智者大師は6世紀半ばの中国の
天台宗の高僧で、597年に入滅されています。
この像は、1300年遷忌として建てられたそうです。

坐像には風雨を凌ぐ小さな屋根が掛けられていました。
明るいこの坐像の空間がとても心に焼き付いています。

この天台智者大師の像の奥には
園城寺別院の微妙寺が建っていました。



開基は594年(正暦5年)、1400年以上も昔の事です。
微妙寺のご本尊は重要文化財の十一面観世音菩薩です。


微妙寺から北に進み、次に勧学院を目指しました。
この辺りは、境内の通路の左右に石垣が組まれ、
寺院の入り口の門もさながらお城のようです。



平安時代から戦国時代に掛けて、
大寺には多くの僧兵がいたようですが、
この辺りはその当時の雰囲気を伝えているようです。

勧学院には国宝になっている客殿がありますが、
見逃してしまったようで写真に残っていませんでした。

勧学院の北隣には智證大師廟所があります。
智證大師は園城寺の開祖で、
ここには潅頂堂や三重塔があります。



潅頂堂は桃山時代の質素な造りの建物で、
その奥に聳える三重塔は、豊臣秀吉が
伏見城に移築した大和の比蘇寺の塔を
1600年(慶長五年)に徳川家康が
三井寺に寄進したものということです。


どことなく斑鳩の法隆寺や薬師寺を連想させる
眺めを後に、金堂のある一画に向かいました。

まず訪れたのは一切経蔵です。
一切経蔵は仏教のすべての経典を収めたお堂です

元々は山口県の国清寺にあったものを毛利輝元が
1602年(慶長7年)に移築したと伝えられているそうです。



下左側の写真は、一切経の版木を収めた八角形の輪蔵で、
回転書庫の様に版木を取り出す事が出来るそうです。




この一切経蔵の近くに弁慶ゆかりの汁鍋と鐘がありました。
(上の右側の写真、霊鐘堂の内部です。)
汁鍋は大人の人が何人も入れる程大きく、
またこの梵鐘には弁慶がこの鐘を引摺ずった
時についたという傷跡がついています。

奈良時代に鋳造され重要文化財に指定されています。
13世紀の文永年間にはこの梵鐘が比叡山に
持ち出されたという記載があるそうです。


霊鐘堂から金堂に向かったのですが、
生憎、金堂は平成の大修理で
足場が組まれていました。



金堂の裏側にある閼伽井屋も
工事現場の足場に囲われていました。



この閼伽井屋には「三井寺」の別称の由来となった
天智天皇、天武天皇、持統天皇の産水を
摂ったといわれる湧き水があります。

閼伽井屋の正面上部には龍の彫り物がありました。



日光東照宮の彫刻を行ったと言われる
伝説の人物、左甚五郎作の龍といわれています。

この龍は夜な夜な琵琶湖に現れ暴れた為
左甚五郎がその目に釘を打ちつけた
という逸話もあるそうです。


金堂脇の鐘楼です。



この鐘楼には弁慶引摺り鐘の後継として
1602年(慶長7年)に鋳造された鐘があります。

三井の晩鐘として知られ、日本三名鐘とも言われています。
一切経蔵から金堂の間を歩いている時に
心に響くような低い鐘の音が聞こえてきたのですが、
それがこの鐘の音だったのでしょう。

この鐘の音は「日本の音風景百選」に選ばれているそうです。


広大な園城寺の散策もそろそろ終わりが近づいてきました。
金堂から下っていくと左手に釈迦堂(園城寺食堂)がありました。



元々は御所の清涼殿の建物だったという伝承があるそうです。

質素な釈迦堂のすぐ下に、堂々たる大門(仁王門)がありました。



元々は滋賀県石部町の常楽寺の山門だったそうですが
それが伏見城に移築され、その後徳川家康が
園城寺に寄進したそうです。

広大な園城寺に相応しい堂々とした門ですが。
元は別のお寺の山門だったというのは驚きです。


三井寺・園城寺は広大な境内で見所も多く
さすがに歴史のある大寺でした。
見逃したところも多く、また機会を見つけて
再訪したいお寺です。


三井寺を散策した後、京阪電鉄の三井寺駅まで
戻ったのですが、次の電車まで時間があったので
琵琶湖の畔まで行ってみました。



歴史ある古い建物の三井寺とは対照的に
初夏の爽やかな青空に、ヨットが浮び
おだやかな景色が広がっていました。

三井寺を訪れた後は坂本に向かいました。

京阪電鉄坂本石山線の乗車記はこちらです。
坂本の様子はこちらです。




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