桑名、三重県
Kuwana, Mie

桑名市は揖斐川のほとりに位置する、
三重県下で5番目に人口の多い都市です。
関ヶ原の戦の後、徳川四天王の一人・
本多忠勝が桑名城の城主となり、その後、
桑名藩が立藩し、桑名の街は成長を遂げました。

桑名城の登城記はこちらです。

桑名は室町時代には、堺、博多、大湊と並ぶ
日本屈指の港湾都市だったそうで、商業、海運の
中心地として栄え「十楽の津」と呼ばれていたそうです。

江戸時代には東海道の七里の渡しの船着き場が設けられ、
今も、JR関西本線、近鉄名古屋本線が通る要衝の地です。

JR関西本線の乗車記はこちらです。

桑名の街は、2012年3月と2013年5月に散策しています。
その際の様子をお伝えします。

七里の渡し〜海蔵寺
Aug. 10, '23

六華苑
NEW ! Aug. 15, '23

桑名城
Aug. 03, '23

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七里の渡し跡〜海蔵寺

江戸時代、桑名には桑名藩が置かれていました。
桑名藩の藩庁だった桑名城は、七里の渡しの
船着き場も近く、交通の要衝を抑えた城でした。

桑名藩の藩主は、歴代、徳川の譜代大名が就き、
この要衝の地を抑えていました。


撮影: 2012年3月

桑名城の登城記はこちらです。

桑名城は、揖斐川沿いに築かれた水城でした。
その北西側に、七里の渡しの船着き場がありました。


撮影: 2012年3月

揖斐川の堤防から眺める船着き場跡の様子です。
当時は、この船着き場が揖斐川に面していた事でしょう。

船着き場跡に立つ鳥居は、伊勢国一の鳥居とされ、
20年毎の伊勢神宮の式年遷宮の際に、内宮宇治橋
外側の鳥居が、ここに移されているそうです。


撮影: 2012年3月

当時の東海道は、この鳥居の正面、真っすぐ南に
続いていましたが、ここから東に歩くことにしました。


撮影: 2012年3月

七里の渡し跡のすぐ東側に、桑名宿脇本陣の駿河屋跡があります。
その西隣には大塚本陣跡があり、歌行燈の句碑もありました。


撮影: 2012年3月

大塚本陣跡は、船津屋という高級料亭になっています。
明治の文豪・泉鏡花が船津屋に投宿した際の印象を基に、
小説「歌行燈を」書き、1909年(明治43年)に発表しています。

その後、久保田万太郎は1939年(昭和14年)に
船津屋に投宿し、戯曲「歌行燈」を書き上げます。

泉鏡花の小説に登場する船津屋をモデルにした宿屋では、
「かわうそ」が裏が河岸から這い上がって来るといううわさ話が登場し、
その情景を、久保田万太郎が詠んだというのが「歌行燈」の句です。

かはうそに 火をぬすまれて あけやすき

万太郎


撮影: 2012年3月

上の写真の石碑が、句碑と思いますが、風化が
激しく、句を読み取ることは出来ませんでした。

ここから北に向かうと、住吉神社があります。
大阪の住吉大社から勧進して開かれたそうです。


撮影: 2012年3月

開放的な境内のすぐ脇を揖斐川が流れています。
川幅も広く、滔々と流れる様子は、まさに大河です。


撮影: 2012年3月

室町時代から江戸時代にかけ、船運の拠点だった
桑名には多くの廻船問屋が集まっていたそうです。
この辺りは住吉浦と呼ばれ、そうした
廻船の船溜まりだったそうです。

住吉神社の西側には、六華苑という
実業家の屋敷を公開している名勝があります。


撮影: 2012年3月

2012年に訪れた際は、休館日でしたので、
2013年に再訪しています。

六華苑の南側には堀が東西に続いています。
六華苑の敷地は、実業家だった諸戸家ゆかりの
建物が多く残っていて、堀沿いの小路からも
その様子を眺めることが出来ました。


撮影: 2012年3月

この先で、住吉浦からの堀は南へと向きを変えました。
南の方向を眺めた様子です。


撮影: 2012年3月

堀に沿って南に進んだ先の左手に浄土寺があります。


撮影: 2012年3月

浄土寺は1049年(永承4年)に、海中から出現した
地蔵尊を安置するために創建されたそうです。

1610年(慶長15年)、徳川四天王の一人で桑名藩の
藩祖・本多忠勝が亡くなると、この浄土寺に葬られました。


撮影: 2012年3月

浄土寺は、今では境内も狭く、本多忠勝のお墓も
質素な佇まいで、意外な感じがしました。

浄土寺から南西に400m程行くと海蔵寺があります。
海蔵寺は、戦国時代末期の1574年(天正2年)頃に
創建された曹洞宗のお寺です。


撮影: 2012年3月

本堂の幕にも家紋がありますが、この海蔵寺は薩摩藩
ゆかりのお寺で、境内には薩摩藩の義士のお墓があります。


撮影: 2012年3月

この薩摩義士のお墓は、宝暦治水事件として知られる
江戸幕府による木曽三川の治水工事に関係しています。

現在見る木曽三川は、木曽川、長良川、揖斐川が夫々
立派な堤防に囲まれ、独立して流れていますが、江戸時代の
頃までの木曽三川は、流れが複雑に入り組んでいました。


水資源機構HPより

以前から、木曽三川の分流化の工事は行われていましたが、
1753年(宝暦3年)に、9代将軍・徳川家重は薩摩藩に
木曽三川の治水工事を命じています。

翌年、薩摩藩は家老の平田靱負を総奉行に任命し、
合計427名の一行が現地に赴いています。

工事は難航し、また疫病によっても多くの
犠牲者が出、更には幕府の嫌がらせに
抗議して自害する人も続出したようです。

工事費も嵩み、一説によると薩摩藩はこの治水工事で
40万両(現在の価値:約800億円)もの支出をしたそうです。

工事は1755年(宝暦5年)に完成していますが、
責任者の平田靱負は、多くの犠牲者と借金を
作った事の責任を取り、自害したと伝わります。

海蔵寺のお墓は、この治水事業で命を落とした
24名の薩摩藩士のお墓で、中央の一番
大きなお墓が平田靱負のお墓です。

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六華苑

桑名城址の北西に、六華苑という国の名勝があります。
山林王として富を築いた二代目・諸戸清六の邸宅跡です。

一代で財を成した、初代・諸戸清六が1884年(明治17年)に
山田家屋敷跡を購入し、ここに1913年(大正2年)に
二代目・清六が築いた自宅が今の六華苑になります。


撮影: 2013年5月

六華苑には、桑名城址を訪れた際に立ち寄りましたが
その時は閉まっていたので、翌年(2013年)5月に再訪しました。

長屋門を抜け園内を進むと、洋館と和館が見えてきました。


撮影: 2013年5月

洋風と和風の建物が調和したこの建物は、鹿鳴館を
設計したジョサイア・コンドルの設計によるものだそうです。

管理棟を抜け、まずは和風の建物に向かいました。
途中で、綺麗に整備された庭園を見渡す事が出来ました。


撮影: 2013年5月

明治から大正にかけて築かれた洋風建築では
和風の建物を併設するのが一般的だったようです。
この旧諸戸家住宅では、和館も書斎を二つ設けた
本格的な建物で、こうした例は珍しいそうです。

廊下も畳廊下と板張り廊下の二重構造になっていました。
畳廊下は、主人と来客用、板張り廊下は使用人用です。


撮影: 2013年5月

訪れた際、丁度結婚式の前撮りが行われていました。
明るい庭園をバックにしたカップルの様子が印象的でした。

そしてこちらは洋館の様子です。
エントランスと、その脇にある書斎の様子です。


撮影: 2013年5月

洋館も美しく、とても開放的な造りになっていました。
神戸や横浜でも幾つも洋館がありますが、大きさや
造りの豪華さでは、決して見劣りしない建物と思います。

六華苑では、2階のバルコニーが秀逸でした。


撮影: 2013年5月

明るい造りのバルコニー越しに眺める
庭園の様子は素晴らしい景色でした。
この景色を眺めながらしばらく佇んでいました。

六華苑の建物を庭園側から眺めた様子です。


撮影: 2013年5月

この瀟洒な建物は国の重要文化財に指定されています。

そして、建物の前には、江戸時代の大名屋敷と
同じ池泉回遊式の庭園が広がっています。


撮影: 2013年5月

六華苑の敷地面積は約18,500平米にもおよび、
この庭園は国の名勝に指定されています。

庭園や建物を眺めるにつれ、諸戸家の財力が
如何ばかりであったかと驚くばかりです。

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