桑名市は揖斐川のほとりに位置する、
桑名は室町時代には、堺、博多、大湊と並ぶ
江戸時代には東海道の七里の渡しの船着き場が設けられ、
桑名の街は、2012年3月と2013年5月に散策しています。
江戸時代、桑名には桑名藩が置かれていました。
桑名藩の藩主は、歴代、徳川の譜代大名が就き、
桑名城は、揖斐川沿いに築かれた水城でした。
揖斐川の堤防から眺める船着き場跡の様子です。
船着き場跡に立つ鳥居は、伊勢国一の鳥居とされ、
当時の東海道は、この鳥居の正面、真っすぐ南に
七里の渡し跡のすぐ東側に、桑名宿脇本陣の駿河屋跡があります。
大塚本陣跡は、船津屋という高級料亭になっています。
その後、久保田万太郎は1939年(昭和14年)に
泉鏡花の小説に登場する船津屋をモデルにした宿屋では、
かはうそに 火をぬすまれて あけやすき
上の写真の石碑が、句碑と思いますが、風化が
ここから北に向かうと、住吉神社があります。
開放的な境内のすぐ脇を揖斐川が流れています。
室町時代から江戸時代にかけ、船運の拠点だった
住吉神社の西側には、六華苑という
2012年に訪れた際は、休館日でしたので、
六華苑の南側には堀が東西に続いています。
この先で、住吉浦からの堀は南へと向きを変えました。
堀に沿って南に進んだ先の左手に浄土寺があります。
浄土寺は1049年(永承4年)に、海中から出現した
1610年(慶長15年)、徳川四天王の一人で桑名藩の
浄土寺は、今では境内も狭く、本多忠勝のお墓も
浄土寺から南西に400m程行くと海蔵寺があります。
本堂の幕にも家紋がありますが、この海蔵寺は薩摩藩
この薩摩義士のお墓は、宝暦治水事件として知られる
現在見る木曽三川は、木曽川、長良川、揖斐川が夫々
以前から、木曽三川の分流化の工事は行われていましたが、
翌年、薩摩藩は家老の平田靱負を総奉行に任命し、
工事は難航し、また疫病によっても多くの
工事費も嵩み、一説によると薩摩藩はこの治水工事で
工事は1755年(宝暦5年)に完成していますが、
海蔵寺のお墓は、この治水事業で命を落とした
桑名城址の北西に、六華苑という国の名勝があります。
六華苑には、桑名城址を訪れた際に立ち寄りましたが
長屋門を抜け園内を進むと、洋館と和館が見えてきました。
洋風と和風の建物が調和したこの建物は、鹿鳴館を
管理棟を抜け、まずは和風の建物に向かいました。
明治から大正にかけて築かれた洋風建築では
廊下も畳廊下と板張り廊下の二重構造になっていました。
訪れた際、丁度結婚式の前撮りが行われていました。
そしてこちらは洋館の様子です。
洋館も美しく、とても開放的な造りになっていました。
六華苑では、2階のバルコニーが秀逸でした。
明るい造りのバルコニー越しに眺める
六華苑の建物を庭園側から眺めた様子です。
桑名、三重県
Kuwana, Mie
三重県下で5番目に人口の多い都市です。
関ヶ原の戦の後、徳川四天王の一人・
本多忠勝が桑名城の城主となり、その後、
桑名藩が立藩し、桑名の街は成長を遂げました。
日本屈指の港湾都市だったそうで、商業、海運の
中心地として栄え「十楽の津」と呼ばれていたそうです。
今も、JR関西本線、近鉄名古屋本線が通る要衝の地です。
その際の様子をお伝えします。
Aug. 10, '23
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Aug. 03, '23
七里の渡し跡〜海蔵寺
桑名藩の藩庁だった桑名城は、七里の渡しの
船着き場も近く、交通の要衝を抑えた城でした。
この要衝の地を抑えていました。
撮影: 2012年3月
その北西側に、七里の渡しの船着き場がありました。
撮影: 2012年3月
当時は、この船着き場が揖斐川に面していた事でしょう。
20年毎の伊勢神宮の式年遷宮の際に、内宮宇治橋
外側の鳥居が、ここに移されているそうです。
撮影: 2012年3月
続いていましたが、ここから東に歩くことにしました。
撮影: 2012年3月
その西隣には大塚本陣跡があり、歌行燈の句碑もありました。
撮影: 2012年3月
明治の文豪・泉鏡花が船津屋に投宿した際の印象を基に、
小説「歌行燈を」書き、1909年(明治43年)に発表しています。
船津屋に投宿し、戯曲「歌行燈」を書き上げます。
「かわうそ」が裏が河岸から這い上がって来るといううわさ話が登場し、
その情景を、久保田万太郎が詠んだというのが「歌行燈」の句です。
万太郎
撮影: 2012年3月
激しく、句を読み取ることは出来ませんでした。
大阪の住吉大社から勧進して開かれたそうです。
撮影: 2012年3月
川幅も広く、滔々と流れる様子は、まさに大河です。
撮影: 2012年3月
桑名には多くの廻船問屋が集まっていたそうです。
この辺りは住吉浦と呼ばれ、そうした
廻船の船溜まりだったそうです。
実業家の屋敷を公開している名勝があります。
撮影: 2012年3月
2013年に再訪しています。
六華苑の敷地は、実業家だった諸戸家ゆかりの
建物が多く残っていて、堀沿いの小路からも
その様子を眺めることが出来ました。
撮影: 2012年3月
南の方向を眺めた様子です。
撮影: 2012年3月
撮影: 2012年3月
地蔵尊を安置するために創建されたそうです。
藩祖・本多忠勝が亡くなると、この浄土寺に葬られました。
撮影: 2012年3月
質素な佇まいで、意外な感じがしました。
海蔵寺は、戦国時代末期の1574年(天正2年)頃に
創建された曹洞宗のお寺です。
撮影: 2012年3月
ゆかりのお寺で、境内には薩摩藩の義士のお墓があります。
撮影: 2012年3月
江戸幕府による木曽三川の治水工事に関係しています。
立派な堤防に囲まれ、独立して流れていますが、江戸時代の
頃までの木曽三川は、流れが複雑に入り組んでいました。
1753年(宝暦3年)に、9代将軍・徳川家重は薩摩藩に
木曽三川の治水工事を命じています。
合計427名の一行が現地に赴いています。
犠牲者が出、更には幕府の嫌がらせに
抗議して自害する人も続出したようです。
40万両(現在の価値:約800億円)もの支出をしたそうです。
責任者の平田靱負は、多くの犠牲者と借金を
作った事の責任を取り、自害したと伝わります。
24名の薩摩藩士のお墓で、中央の一番
大きなお墓が平田靱負のお墓です。
山林王として富を築いた二代目・諸戸清六の邸宅跡です。
山田家屋敷跡を購入し、ここに1913年(大正2年)に
二代目・清六が築いた自宅が今の六華苑になります。
撮影: 2013年5月
その時は閉まっていたので、翌年(2013年)5月に再訪しました。
撮影: 2013年5月
設計したジョサイア・コンドルの設計によるものだそうです。
途中で、綺麗に整備された庭園を見渡す事が出来ました。
撮影: 2013年5月
和風の建物を併設するのが一般的だったようです。
この旧諸戸家住宅では、和館も書斎を二つ設けた
本格的な建物で、こうした例は珍しいそうです。
畳廊下は、主人と来客用、板張り廊下は使用人用です。
撮影: 2013年5月
明るい庭園をバックにしたカップルの様子が印象的でした。
エントランスと、その脇にある書斎の様子です。
撮影: 2013年5月
神戸や横浜でも幾つも洋館がありますが、大きさや
造りの豪華さでは、決して見劣りしない建物と思います。
撮影: 2013年5月
庭園の様子は素晴らしい景色でした。
この景色を眺めながらしばらく佇んでいました。