出石は、兵庫県北部の小さな城下町です。
出石は、1876年(明治9年)に大火に遭っていますが、
2012年のGWに北近畿から鳥取にかけて
豊岡からのバスを降り、出石城址に向かう途中、
この門は豊岡陣屋の城門と思います。
通りを隔てた反対側には、家老屋敷がありました。
この家老屋敷は、藩主・仙谷氏の一族で
仙石左京は、江戸時代の末期に近い1835年(天保6年)に
仙石騒動の発端は、逼迫した藩財政の立て直しに
その対立に、藩主・仙石政美が1824年(文政7年)に
これが仙石騒動のあらましですが、
勝林寺を過ぎ、出石城本丸への
出石城の登城橋と登城門の様子です。
出石城の本丸を訪れた後、ここを北に向かいました。
その一角に辰鼓楼(櫓)がありました。
太鼓が置かれ、時を告げていたので、
三ノ丸跡の北側には堀も残っていました。
三ノ丸のお堀と、出石の町の中心を
通りに沿って並ぶお土産物屋さんが
この後、登城橋まで戻り、二ノ丸と三ノ丸の
江戸時代、この谷山川は天然の堀の
山側に稲荷神社の鳥居と諸杉神社がありました。
稲荷神社は、出石城の本丸の一段高い所に
細い道を更に歩いて行きました。
この先に、藩校だった弘道館(下写真左)と
弘道館は、江戸時代中期の藩主・仙石実相が
桜井勉は1843年(天保14年)に儒官の家に生まれ、
更に奥に進むと、経王寺がありました。
戦国時代末期の永禄年間
経王寺から谷山川を渡ると、出石高校の
この門は、赤門を建てる事を藩から許されていた
赤門まで散策した後、辰鼓楼まで戻りました。
次は、辰鼓楼から北に向かいました。
お土産物屋さんと共に目に付くのが、
1706年(宝永3年)に、国替えで信州上田から
辰鼓楼から北に3つ目の大鍛冶細間の小路を
この碑は幕末の長州藩の志士・桂小五郎が
桂小五郎は、長州藩の藩庁政務座の最高責任者でした。
その一年後の1864年(元治元年)8月20日、京を追われていた
禁門の変で長州藩は朝敵となり、京都に居た桂小五郎は
桂小五郎は、出石で荒物屋を営み、妻も娶って出石の地に
出石の街を東西に延びる大鍛冶細間の小路から
小さな出石の町ですが、江戸時代の歴史と
出石
Izushi, Hyogo
戦国時代に出石の南の山の山頂に有子山城が築かれ、
江戸時代には麓に出石城が築かれ藩が置かれています。
有子山城の登城記はこちらです。
江戸時代の町割りはほぼそのまま残り、2009年(平成19年)
には重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
旅した際に出石に立ち寄りました。
福成寺という立派なお寺が右手に現れました。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
出石藩の筆頭家老だった仙石左京の屋敷跡です。
勃発した仙石騒動の首謀者とされる人物です。
撮影: 2012年5月
重商的産業振興策をとる仙石左京と、質素倹約を
吉とする同じ一族の仙石造酒の対立です。
急逝したことから、後継ぎ問題が両派の抗争にも
絡むようになり、遂には仙石左京が仙石家の
乗っ取りを図っているとされ、獄門になります。
この騒動によって、出石藩は6万石から
3万石に領地が半減される事となりました。
入り口に辿り着きました。
撮影: 2012年5月
出石城は1609年(慶長9年)に小出吉英が築いたお城です。
ここから、その二ノ丸、本丸などを訪れる事が出来ます。
北に向かうと、出石城三の丸跡があります。
撮影: 2012年5月
辰鼓楼は、1871年(明治4年)に建てられた、
江戸時代の出石城とは無関係の建物です。
撮影: 2012年5月
当初は太鼓櫓とも呼ばれていたそうです。
今は、出石を象徴する建物として知られ
街中にある事もあって、多くの観光客が
カメラを向けています。
撮影: 2012年5月
南北に貫く大手前通りの様子です。
撮影: 2012年5月
江戸時代の町屋の様に見えます。
間を流れる谷山川沿いに遡る事にしました。
撮影: 2012年5月
役割を果たしていたように思いますが
明治以降に開削されたそうです。
撮影: 2012年5月
本殿が祀られています。
撮影: 2012年5月
気象予報士の祖と言われる桜井勉の
生家跡がありました(下写真右)。
撮影: 2012年5月
1772年(安永4年)に創建した学校です。
明治以降に、気象予報事業に携わったそうです。
まるで櫓のような建物です。
撮影: 2012年5月
建立されたお寺で、出石藩第四代藩主・
仙石久行のお墓もあるそうです。
校舎の前に、朱色の門がありました。
撮影: 2012年5月
出石藩磯野氏出身の一瀬粂吉が建てたものです。
撮影: 2012年5月
この辺りは、お土産物屋さんが軒を連ねています。
撮影: 2012年5月
出石蕎麦のお店です。
仙石氏が出石に移封になった際に、信州の
蕎麦が出石に、もたらされたそうです。
歩いて行くと、小さな碑がありました。
幕府の追っ手を逃れ隠れ住んでいた住居跡です。
撮影: 2012年5月
条約締結を破棄するように朝廷に働きかけていましたが
1863年(文久3年)8月18日の政変で京を追われてしまいます。
長州藩の急進派が武力で京に攻め上り、御所の蛤御門で
会津藩や薩摩藩との戦闘を行います(禁門の変)。
新選組などに命を狙われ、この出石に逃れていました。
骨を埋める覚悟でいたようですが、京都で桂小五郎と出会い、
京での潜伏を助けた芸妓の幾松(後の正妻・松子)がここを訪れ、
桂小五郎を再び日本の歴史の表舞台に引き戻しています。
西側を南北に走る田結庄通りを歩いて行くと、
いくつかの古い町屋の建物が残っていました。
撮影: 2012年5月
古い町並みが溶け合った、素敵な町でした。