出石
Izushi, Hyogo

出石は、兵庫県北部の小さな城下町です。
戦国時代に出石の南の山の山頂に有子山城が築かれ、
江戸時代には麓に出石城が築かれ藩が置かれています。

出石城の登城記はこちらです。
有子山城の登城記はこちらです。

出石は、1876年(明治9年)に大火に遭っていますが、
江戸時代の町割りはほぼそのまま残り、2009年(平成19年)
には重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。

2012年のGWに北近畿から鳥取にかけて
旅した際に出石に立ち寄りました。

豊岡からのバスを降り、出石城址に向かう途中、
福成寺という立派なお寺が右手に現れました。


撮影: 2012年5月

この門は豊岡陣屋の城門と思います。

豊岡陣屋の登城記はこちらです。

通りを隔てた反対側には、家老屋敷がありました。


撮影: 2012年5月

この家老屋敷は、藩主・仙谷氏の一族で
出石藩の筆頭家老だった仙石左京の屋敷跡です。

仙石左京は、江戸時代の末期に近い1835年(天保6年)に
勃発した仙石騒動の首謀者とされる人物です。


撮影: 2012年5月

仙石騒動の発端は、逼迫した藩財政の立て直しに
重商的産業振興策をとる仙石左京と、質素倹約を
吉とする同じ一族の仙石造酒の対立です。

その対立に、藩主・仙石政美が1824年(文政7年)に
急逝したことから、後継ぎ問題が両派の抗争にも
絡むようになり、遂には仙石左京が仙石家の
乗っ取りを図っているとされ、獄門になります。

これが仙石騒動のあらましですが、
この騒動によって、出石藩は6万石から
3万石に領地が半減される事となりました。

勝林寺を過ぎ、出石城本丸への
入り口に辿り着きました。


撮影: 2012年5月

出石城の登城橋と登城門の様子です。
出石城は1609年(慶長9年)に小出吉英が築いたお城です。
ここから、その二ノ丸、本丸などを訪れる事が出来ます。

出石城の登城記はこちらです。

出石城の本丸を訪れた後、ここを北に向かいました。
北に向かうと、出石城三の丸跡があります。


撮影: 2012年5月

その一角に辰鼓楼(櫓)がありました。
辰鼓楼は、1871年(明治4年)に建てられた、
江戸時代の出石城とは無関係の建物です。


撮影: 2012年5月

太鼓が置かれ、時を告げていたので、
当初は太鼓櫓とも呼ばれていたそうです。
今は、出石を象徴する建物として知られ
街中にある事もあって、多くの観光客が
カメラを向けています。

三ノ丸跡の北側には堀も残っていました。


撮影: 2012年5月

三ノ丸のお堀と、出石の町の中心を
南北に貫く大手前通りの様子です。


撮影: 2012年5月

通りに沿って並ぶお土産物屋さんが
江戸時代の町屋の様に見えます。

この後、登城橋まで戻り、二ノ丸と三ノ丸の
間を流れる谷山川沿いに遡る事にしました。


撮影: 2012年5月

江戸時代、この谷山川は天然の堀の
役割を果たしていたように思いますが
明治以降に開削されたそうです。

山側に稲荷神社の鳥居と諸杉神社がありました。


撮影: 2012年5月

稲荷神社は、出石城の本丸の一段高い所に
本殿が祀られています。

細い道を更に歩いて行きました。


撮影: 2012年5月

この先に、藩校だった弘道館(下写真左)と
気象予報士の祖と言われる桜井勉の
生家跡がありました(下写真右)。


撮影: 2012年5月

弘道館は、江戸時代中期の藩主・仙石実相が
1772年(安永4年)に創建した学校です。

桜井勉は1843年(天保14年)に儒官の家に生まれ、
明治以降に、気象予報事業に携わったそうです。

更に奥に進むと、経王寺がありました。
まるで櫓のような建物です。


撮影: 2012年5月

戦国時代末期の永禄年間 (1558-1570)
建立されたお寺で、出石藩第四代藩主・
仙石久行のお墓もあるそうです。

経王寺から谷山川を渡ると、出石高校の
校舎の前に、朱色の門がありました。


撮影: 2012年5月

この門は、赤門を建てる事を藩から許されていた
出石藩磯野氏出身の一瀬粂吉が建てたものです。

赤門まで散策した後、辰鼓楼まで戻りました。


撮影: 2012年5月

次は、辰鼓楼から北に向かいました。
この辺りは、お土産物屋さんが軒を連ねています。


撮影: 2012年5月

お土産物屋さんと共に目に付くのが、
出石蕎麦のお店です。

1706年(宝永3年)に、国替えで信州上田から
仙石氏が出石に移封になった際に、信州の
蕎麦が出石に、もたらされたそうです。

上田の散策記はこちらです。

辰鼓楼から北に3つ目の大鍛冶細間の小路を
歩いて行くと、小さな碑がありました。

この碑は幕末の長州藩の志士・桂小五郎が
幕府の追っ手を逃れ隠れ住んでいた住居跡です。


撮影: 2012年5月

桂小五郎は、長州藩の藩庁政務座の最高責任者でした。

幕末に尊王攘夷を唱えていた長州藩は、諸外国との
条約締結を破棄するように朝廷に働きかけていましたが
1863年(文久3年)8月18日の政変で京を追われてしまいます。

その一年後の1864年(元治元年)8月20日、京を追われていた
長州藩の急進派が武力で京に攻め上り、御所の蛤御門で
会津藩や薩摩藩との戦闘を行います(禁門の変)。

京都・御所の散策記はこちらです。

禁門の変で長州藩は朝敵となり、京都に居た桂小五郎は
新選組などに命を狙われ、この出石に逃れていました。

桂小五郎は、出石で荒物屋を営み、妻も娶って出石の地に
骨を埋める覚悟でいたようですが、京都で桂小五郎と出会い、
京での潜伏を助けた芸妓の幾松(後の正妻・松子)がここを訪れ、
桂小五郎を再び日本の歴史の表舞台に引き戻しています。

出石の街を東西に延びる大鍛冶細間の小路から
西側を南北に走る田結庄通りを歩いて行くと、
いくつかの古い町屋の建物が残っていました。


撮影: 2012年5月

小さな出石の町ですが、江戸時代の歴史と
古い町並みが溶け合った、素敵な町でした。

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