長野県上田市
六文銭の旗印で知られ、智謀に優れた
真田昌幸・幸村の居城、上田城の城下町です。
昌幸・幸村父子は戦上手で、徳川軍の攻撃を
2度にわたって凌いだ事でその名を挙げました。
まず一回目は、信長横死の後の1585年(天正13年)
8000名の徳川軍を相手に、2000名弱の守備隊で上田城を守り抜き、
徳川軍に3000名もの戦死者を出したといわれています。
2度目は、関が原の戦いの直前の1600年(慶長5年)夏。
会津征伐に赴いていた3万を越える徳川秀忠率いる軍に
中仙道を通り関が原に向かう途中、西軍に付いた真田昌幸・幸村が
約2000の軍勢でこれに立ち向かい、秀忠軍を足止めにし、
結局秀忠は天下分け目の関が原の戦いに参戦出来なかったのです。
この歴史ある上田城に2004年の夏に行ってきました。
上田駅を下りると駅前に六文銭の旗印を掲げた
騎乗の真田幸村像が出迎えてくれました。
駅前通りの緩やかな坂道を登り、
最初の交差点を左に折れ、お城を目指します。
お城の手前で、上田高校の校舎の脇を通るのですが、
この上田高校の正門は江戸時代の
上田藩主の居館の表門だったそうです。
塀や堀も残され、早くもこの周囲は、
お城の雰囲気が漂っています。
そして、程なく上田城址にたどり着きました。
真田昌幸が上田城を築いたのは1583年(天正11年)。
しかしこの時のお城は、関が原の合戦の後、
徳川幕府により徹底的に破壊されてしまったそうです。
これを真田氏に代わり上田城に入った仙石氏により
1626年(寛永3年)に復興されたそうです。
江戸時代も天守閣は建てられずに、7棟の隅櫓と
二棟の櫓門が建てられたそうです。
堂々とした東虎口櫓門と北櫓・南櫓の二つの隅櫓が現れました。
写真は東虎口櫓門と北櫓です。
この櫓門は1994年(平成6年)に復元されたものです。
また二つの隅櫓は明治維新後、民間に払い下げられていたものを
買い戻して、元にあった場所に移築されたものだそうです。
櫓門の石垣には、真田石と呼ばれる巨石がありました。
真田昌幸の息子・信之が松代に移封となった際、
この石を運ぼうとしたのですが、びくとも動かなかったそうです。
東虎口櫓門をくぐり南櫓・北櫓の中に入ってみました。
当時の無骨な建築で、中は展示物も少なく、
往時のままのような感じでした。
これは、北櫓から眺めた浅間山です。
夏の暑い日でしたが、秋のような雲が出ていました。
上田城は、徳川軍の攻撃を二度も防いだ経験がある堅城ですが、
平地に建てられた平城で、お城の東西、北側は堀で敵の侵入を防いでいます。
唯一南側は、尼ヶ淵という千曲川の流れを引き入れた低地になっていて、
この尼ヶ淵に向かって急な崖になっています。
この崖が天然の要害となっていたようです。
崖を下り、尼ヶ淵から眺めた南櫓。
上田城を一巡りした後、上田の街も散策してきました。
城下町の中を北国街道が通じており、
江戸時代の雰囲気が残る町並みがあるようです。
暑い日中で、裏通りは歩く人も少なくひっそりとしていました。
紺屋町にある白壁の蔵のある家。
そして、こちらは柳町通りの様子です。
老舗の造り酒屋もありました。
上田の街を歩いた後は、池波正太郎真田太平記館に行ってきました。
池波正太郎の『真田太平記』は真田昌幸・幸村と、
真田家が抱えていた忍の活躍が記された歴史小説の大作です。
文庫本で全十二巻もあるのですが、
惹きこまれる様にあっという間に読んでしまいました。
上田に訪れる前に是非一読されればと思います。