赤穂
Akou Japan
播州赤穂は浅野内匠頭長矩公のお膝元です。
忠臣蔵で知られる元禄赤穂事件が
起ったのは1701年(元禄14年)3月14日。
浅野長矩が吉良上野介を江戸城内、
松之廊下で斬りつけ、即日切腹に処せられ、
浅野家は取り潰されてしまいました。
そして翌1702年(元禄15年)12月14日、
大石内蔵助率いる赤穂浪士総勢47名が
吉良邸に討ち入り吉良上野介を討ち果たし、
主君の無念を果たした赤穂浪士は
幕命によって切腹に処せられました。
松之廊下のあった江戸城本丸はこちらです。
吉良邸跡の様子はこちらです。
浅野内匠頭と赤穂浪士のお墓のある
泉岳寺の様子はこちらです。
吉良氏の地元の吉良の様子はこちらです。
赤穂駅で電車を降り、駅前に立つと
大石内蔵助の銅像が立っていました。
赤穂の街は浅野内匠頭や赤穂浪士に
纏わる史跡で溢れています。
駅前を少し歩くと息継ぎ井戸がありました。
松乃廊下で起きた浅野内匠頭の刃傷事件は
早水藤左衛門と萱野三平によって国許に
知らされていますが、彼らは一刻も早く
国許に知らせようと早籠を飛ばし、
わずか4日半で赤穂に辿り着いています。
この井戸は、赤穂城内に入る前に
息を整えたと伝えられています。
花岳寺
(Kagakuji Temple)
赤穂駅から南に進み、路地を一本西に入ると
赤穂藩祖・浅野長直公によって建てられた
浅野家菩提寺の花岳寺があります。
趣のある街中に、花岳寺の
山門が建っていました。
この山門は赤穂城の西総門を
移築したものと言われているそうです。
堂々とした山門をくぐると、「大石名残の松」と呼ばれる
松ノ木の奥に堂々とした本堂が建っていました、
「大石名残の松」は大石内蔵助が
母の冥福を祈る為に植えたそうです。
浅野家が取り潰され、赤穂を離れる時に
大石内蔵助は名残を惜しんだそうです。
その名残の松の近くに鐘楼がありました。
鐘楼の鐘は「鳴らずの鐘」と記されています。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りの報が赤穂に伝わると、
城下の人々が集まり、この鐘を打ち鳴らしたそうです。
その時、あまり激しく打ち鳴らしたので、その後、
この鐘は鳴らなくなったそうです。
本堂の左手に回ると、浅野家や
赤穂浪士の墓地があります。
門の奥に浅野内匠頭のお墓を中心に
47士のお墓が周囲を取り囲んでいるそうです。
浅野内匠頭や赤穂浪士の37回忌の
1739年(元文4年)に建てられたそうです。
そして浅野家廟所が建っていました。
浅野内匠頭や赤穂浪士のお墓は
東京の泉岳寺にもあります。
当時はいつもお墓を作る事は
珍しい事ではなかったのでしょうか。
その奥には大石家先祖のお墓がありました。
大石内蔵助の娘、祖父母そして
父親の大石良昭のお墓が並んでいます。
その奥には浅野家三代のお墓がありました。
左から二代浅野長友公、浅野家の赤穂藩祖・浅野長直公、
そして右が浅野長直の父で、常陸笠間藩主・
浅野長重公のお墓です。
浅野長重公は秀吉政権の五奉行の一人、
浅野長政公の三男だそうです。
浅野氏は元々は笠間藩主だったのですが、
長直公の時、1636年(寛永13年)に
赤穂に移封になっています。
赤穂藩主だった浅野家や赤穂浪士の
お墓や碑がたくさんあり、見応えのある
花岳寺を辞して、赤穂城を目指しました。
その途中には、趣のある築地塀の
万福寺もありました。
このお寺には赤穂浪士の堀部弥兵衛や
大高源五の書も残っているそうです。
大石神社
(Ohishi Jinjya Shrine)
趣のある裏通りを歩いていくと、
赤穂城址のお堀と石垣が見えてきました。
路地から急に現れたせいか、
とても堂々とした櫓台と石垣です。
お堀沿いに歩き、大手門から
赤穂城内に入りました。
赤穂城の登城記はこちらです。
赤穂城の中に大石神社がありました。
赤穂浪士が祭神となっています。
この神社の歴史は浅く、明治以降に
神社創設の話が沸きあがり、
創建は1912年の事だそうです。
上の写真奥に見えている義芳門は神戸の
湊川神社の神門を移築したものだそうです。
そして本殿の様子です。
この大石神社を訪れたのは1月3日で
多くの初詣の参拝客がいました。
境内には舟石が置かれていました。
この石は赤穂藩の大坂蔵屋敷に
あったものだそうです。
討ち入り装束に身を固めた
大石内蔵助の像もありました。
赤穂の街をでは、さすがに浅野家と
赤穂浪士ゆかりの史跡が目立ちました。
赤穂藩が成立したのは1615年(元和元年)、
池田輝政の五男・政綱公が初代の藩主でした。
浅野氏が赤穂藩主だったのは1636年(寛永13年)から
浅野長矩が改易になった僅か65年間にしか過ぎません。
その後は森氏が赤穂藩主を歴任していましたが
森氏の藩主らは、浅野家の家臣の名の付いた
神社に合祀されていて、肩身が狭そうでした。
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