鳥取
Tottori, Tottori Prefecture

鳥取は、人口は18万人で、鳥取県の県庁所在地です。
県庁所在地としては最も人口が少ないそうです。

江戸時代には鳥取藩の藩庁が置かれています。
鳥取藩は石高32万石で、全国でも13番目の大藩でした。

鳥取城の登城記はこちらです。

鳥取県は山陰地方の中で最も関西に近く、鳥取市は鳥取県の
東部に位置している為、関西とのアクセスの便は良く、京都からの
特急「スーパーはくと」で、大阪から2時間半で行くことが出来ます。

鳥取市は1953年(昭和28年)に15ヶ村と、2004年(平成16年)には
8町村と合併し、市域を拡大し、鳥取県の2割以上を占めています。

鳥取藩池田家墓所
(Mausoleum of Ikeda Clan)
NEW! Aug. 26, '24

鳥取砂丘
(Tottori Sand Dunes)


仁風閣
(Jinpukaku)
NEW! Aug. 26, '24

鳥取城
(Ruins of Tottori Castle)
July 25, '24

鹿野
(Shikano)
Aug. 16, '24

鹿野城
(Ruins of Shikano Castle)
Aug. 09, '24

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鳥取藩池田家墓所
(Kintaikyo Bridge)

鳥取藩は、池田恒興の三男・池田長吉が初代藩主になっています。
1617年(元和3年)には池田光政が姫路城主から移封となります。

1632年(寛永9年)に、幼少の池田光仲が岡山藩主となると、
岡山藩と鳥取藩で所領の取り換えがあり、池田光仲が
鳥取藩主となり、その後、池田光仲の家系が明治まで続きました。

その池田光仲を祖とする鳥取池田家の墓所が、
鳥取駅から東に向かった山あいにあります。

駐車場の脇から参道を上っていくと、門がありました。


撮影: 2012年5月

この門から墓所の霊域になります。


撮影: 2012年5月

墓所には鳥取池田家初代で鳥取藩四代藩主の
池田光仲公から鳥取池田家十一代の池田慶栄公
までの歴代11代の藩主がここに埋葬されています。


門をくぐり左に向かうと、初代・光仲公(1630-1693)のお墓があります。
お墓の周囲には石灯篭が立ち並び、厳かな雰囲気です。
池田光仲公の没年は1693年(元禄6年)でした。


撮影: 2012年5月

光仲公は、衣冠束帯の正装で葬られたそうです。
他の藩主も同じように埋葬されたと考えられているそうです。


撮影: 2012年5月

上の写真は、池田光仲公の墓所から振り返って眺めた様子です。
光仲公の墓所への途中にも幾つかの藩主墓所があります。

光仲公に一番近い位置に鳥取池田氏の第九代・池田斉訓公(1820-1841)
のお墓、その隣に、第十代・池田慶行
(1832-1848)公のお墓があります。


撮影: 2012年5月

各藩主のお墓は、亀の形の台座の上に石碑が立つ
亀趺円頭墓碑という形式に統一されています。

下の写真は十一代の池田慶栄公(1834-1850)のお墓です。


撮影: 2012年5月

池田慶栄公は鳥取池田家墓所に葬られている最後の藩主です。
九代の池田斉訓公から十一代の池田慶栄公までの
三代の藩主はとても若い時に亡くなっています。

十一代の池田慶栄公の墓は入口の門から真っすぐに
伸びる参道に近く、参道を挟んだ東側に八代・
池田斉稷公
(1788-1830)のお墓がありました。


撮影: 2012年5月

池田斉稷公は、鳥取藩主として従四位上の位階を授かっています。
従来の鳥取藩主は従四位下でしたので、最も高い位階です。
これは1817年(文化14年)に徳川家斉公の子を
養子に迎えた為のようです。

入口の門から続く参道を更に上って行きました。


撮影: 2012年5月

一段高い左手には二代・池田綱清公(1648-1711)(下の写真左)と
三代・池田吉泰公
(1687-1739)(下写真右)のお墓があります。


撮影: 2012年5月

上で、「亀趺円頭墓碑に統一されています。」と書きましたが、
二代・池田綱清公のお墓には、亀の台座はありません。
生類憐みの令を出した徳川綱吉を憚っての事のようです。

更に参道の石段を上りました。


撮影: 2012年5月

この先、右手に3つの藩主のお墓があります。
まず、一番手前には五代藩主・池田重寛公
(1746-1783)のお墓です。
池田重寛公は僅か2歳で藩主になったそうです。


撮影: 2012年5月

その上に六代・池田治道公(1768-1798)のお墓がありました。
そのさらに上には七代・池田斉邦公
(1787-1807)のお墓です。


撮影: 2012年5月

六代・池田治道公には長男(後の七代・池田斉邦公と
八代・池田斉稷との間で跡目相続の争いがあったようです。
七代・池田斉邦公と八代・池田斉稷公のお墓は
そのせいもあってか、離れた位置にありました。

五代・池田重寛公のお墓の辺りから、下の
三代・池田吉泰公のお墓を眺めた様子です。


撮影: 2012年5月

藩主のお墓は、広い区画に建てられている事が分かります。
周囲には藩主の正室などのお墓も並んでいます。
この鳥取藩池田家墓所には78ものお墓があるそうです。

戻る途中、最後に四代・池田宗泰公(1717-1747)のお墓に立ち寄りました。


撮影: 2012年5月

池田宗泰公のお墓は、二代・池田綱清公のお墓と
参道を挟んで反対側にありました。

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仁風閣
(Jinpukaku)

城代屋敷跡には鳥取県立の博物館が建てられています。
通路を挟んだ反対側には瀟洒な建物が建っていました。


撮影: 2012年5月

この建物は1907年(明治40年)に、大正天皇が皇太子時代に
山陰地方を御幸する際に、元鳥取藩主・池田仲博が
扇御殿跡に建立したものだそうです。


撮影: 2012年5月

フレンチ・ルネッサンス様式というそうですが、
白い建物はとても綺麗でした。
1973年には国の重要文化財に指定されています。

仁風閣の奥には宝隆院庭園が広がっていました。


撮影: 2012年5月

11代鳥取藩主・池田慶栄の正室・宝隆院は
夫に先立たれ寂しい日々を過ごしていたので、
それを慰めようと12代藩主・池田慶徳が
1863年(文久3年)に築いた庭園です。

文久3年と言えば、尊王攘夷派と佐幕開国派との
抗争が激しくなり、京都では蛤御門の戦いが起き、
薩摩・会津両藩が長州藩を京都から追い出しています。
鳥取では、そんな抗争とは無縁の時が流れていたのでしょうか。


撮影: 2012年5月

宝隆院庭園からは久松山の山頂と
二ノ丸の石垣が良く見えていました。