鹿野
Shikano, Tottori

鹿野は、鳥取市の中心街から20km程西にあります。
戦国時代に、集落の南の小高い山の上にお城が築かれ、
江戸時代に入ると、鹿野藩が置かれています。

鳥取の散策記はこちらです。

その城下には城下町が広がっていました。
今も、鹿野城の北側には当時の佇まいを
残す町並みが残っています。

鹿野城の登城記はこちらです。

浜村駅からのバスを鹿野支所で下車しました。


撮影: 2012年5月

鹿野はかつて気高郡鹿野町でしたが、
2004年(平成16年)に鳥取市に編入しています。

鹿野町時代には、江戸時代初期の鹿野藩主だった亀井氏が
津和野に移封になったことから、津和野町と姉妹都市でした。

津和野の散策記はこちらです。

鹿野支所から鹿野城に向かう途中、畑の向こうに
鹿野城のある城山とその麓の集落を見渡せました。


撮影: 2012年5月

この先の鍛冶町の交差点を右に折れると
鹿野の集落に入りました。


撮影: 2012年5月

道の両側に古い建物が並び、
当時の城下町の佇まいを感じます。

家々の格子には、風車が飾られていました。


撮影: 2012年5月

しばらく南に進みますが、集落の中のT字路を左に曲がりました。
T字路を曲がった先でも、古い町並みが続いていました。


撮影: 2012年5月

道に沿って疎水が流れ、そこには花が綺麗に飾られていました。


撮影: 2012年5月

家々に飾られた風車と言い、この花といい
町並みを綺麗に保とうという住民の
気持ちが伝わってきます。

道端には牛繋ぎ石もありました。
下の写真手前の輪っかの穴がある石がそれと思います。


撮影: 2012年5月

この先には、赤い瓦の屋根や板塀が続くようになりました。


撮影: 2012年5月

この先に、幸盛寺への入口がありました。


撮影: 2012年5月

この幸盛寺には、山中鹿之助の墓があります。
山中鹿之助は、尼子氏の家臣だった人です。

1562年(永禄5年)から毛利氏と尼子氏との戦が始まりました。
毛利氏は3度にわたり月山富田城を攻め、1567年(永禄9年)に、
尼子義久は、月山富田城を開城し、戦国大名・尼子氏は滅亡しました。

山中鹿之助をはじめとする尼子氏の遺臣らは、尼子氏が滅亡して
2年後の1569年(永禄12年)頃から毛利氏に対しての反撃を行います。

尼子氏再興軍は、毛利氏に対して3次にわたる戦いを挑みますが、
1578年(天正6年)の上月城の戦いで毛利氏に降伏し、
山中鹿之助も捕らえられ謀殺されてしまったそうです。


撮影: 2012年5月

初代鹿野藩主となった亀井茲矩も尼子氏の残党でしたが
上月城の戦いには参加していなかった為、死を免れました。

山中鹿之助のお墓はいくつかあるようですが、
藩主・亀井茲矩がその死を悼んで、
幸盛寺を興し菩提を弔ったそうです。

幸盛は、山中鹿之助の諱(いみな)でした。

幸盛寺から更に東に向かうと、いくつかお寺があります。
下左は三光院です。

三光院の本尊の薬師如来は、1588年(天正16年)に、
近くを流れる水谷川から見つかったそうです。


撮影: 2012年5月

上右は、水谷川を渡った所にある浄徳寺の楼門です。
1624年から1644年の寛永年間に創建され、
この地には1761年(宝暦11年)に移されました。

浄徳寺の辺りは、鹿野城からみて鬼門にあたり、
いくつかのお寺が集まっています。

ここから幸盛寺の手前まで戻り、南に向かいました。
集落の向こうに小高い山が見えてきました。


撮影: 2012年5月

この山の山頂から麓にかけて鹿野城が築かれていました。
麓の本丸と二ノ丸が江戸時代の鹿野城の中心地です。

鹿野城の登城記はこちらです。

天守台のある山の上には城山神社がありますが、
その鳥居が麓の登城口に立っていました。


撮影: 2012年5月

鹿野城の西側には光輪寺がありました。
立派な山門の向こうに、趣のある本堂が見えました。
本堂の裏に池田輝澄時代の庭園があるそうです。


撮影: 2012年5月

池田輝澄は、江戸時代初期に、お家騒動があり、
鹿野で蟄居し、後に鹿野藩を立藩しています。

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