鹿野は、鳥取市の中心街から20km程西にあります。
戦国時代に、集落の南の小高い山の上にお城が築かれ、
江戸時代に入ると、鹿野藩が置かれています。
鳥取の散策記はこちらです。
その城下には城下町が広がっていました。
今も、鹿野城の北側には当時の佇まいを
残す町並みが残っています。
鹿野城の登城記はこちらです。
浜村駅からのバスを鹿野支所で下車しました。
鹿野はかつて気高郡鹿野町でしたが、
2004年(平成16年)に鳥取市に編入しています。
鹿野町時代には、江戸時代初期の鹿野藩主だった亀井氏が
津和野に移封になったことから、津和野町と姉妹都市でした。
津和野の散策記はこちらです。
鹿野支所から鹿野城に向かう途中、畑の向こうに
鹿野城のある城山とその麓の集落を見渡せました。
この先の鍛冶町の交差点を右に折れると
鹿野の集落に入りました。
道の両側に古い建物が並び、
当時の城下町の佇まいを感じます。
家々の格子には、風車が飾られていました。
しばらく南に進みますが、集落の中のT字路を左に曲がりました。
T字路を曲がった先でも、古い町並みが続いていました。
道に沿って疎水が流れ、そこには花が綺麗に飾られていました。
家々に飾られた風車と言い、この花といい
町並みを綺麗に保とうという住民の
気持ちが伝わってきます。
道端には牛繋ぎ石もありました。
下の写真手前の輪っかの穴がある石がそれと思います。
この先には、赤い瓦の屋根や板塀が続くようになりました。
この先に、幸盛寺への入口がありました。
この幸盛寺には、山中鹿之助の墓があります。
山中鹿之助は、尼子氏の家臣だった人です。
1562年(永禄5年)から毛利氏と尼子氏との戦が始まりました。
毛利氏は3度にわたり月山富田城を攻め、1567年(永禄9年)に、
尼子義久は、月山富田城を開城し、戦国大名・尼子氏は滅亡しました。
山中鹿之助をはじめとする尼子氏の遺臣らは、尼子氏が滅亡して
2年後の1569年(永禄12年)頃から毛利氏に対しての反撃を行います。
尼子氏再興軍は、毛利氏に対して3次にわたる戦いを挑みますが、
1578年(天正6年)の上月城の戦いで毛利氏に降伏し、
山中鹿之助も捕らえられ謀殺されてしまったそうです。
初代鹿野藩主となった亀井茲矩も尼子氏の残党でしたが
上月城の戦いには参加していなかった為、死を免れました。
山中鹿之助のお墓はいくつかあるようですが、
藩主・亀井茲矩がその死を悼んで、
幸盛寺を興し菩提を弔ったそうです。
幸盛は、山中鹿之助の諱(いみな)でした。
幸盛寺から更に東に向かうと、いくつかお寺があります。
下左は三光院です。
三光院の本尊の薬師如来は、1588年(天正16年)に、
近くを流れる水谷川から見つかったそうです。
上右は、水谷川を渡った所にある浄徳寺の楼門です。
1624年から1644年の寛永年間に創建され、
この地には1761年(宝暦11年)に移されました。
浄徳寺の辺りは、鹿野城からみて鬼門にあたり、
いくつかのお寺が集まっています。
ここから幸盛寺の手前まで戻り、南に向かいました。
集落の向こうに小高い山が見えてきました。
この山の山頂から麓にかけて鹿野城が築かれていました。
麓の本丸と二ノ丸が江戸時代の鹿野城の中心地です。
鹿野城の登城記はこちらです。
天守台のある山の上には城山神社がありますが、
その鳥居が麓の登城口に立っていました。