岡山
Okayama, Okayama
岡山は中国地方の主要都市です。
江戸時代には岡山藩が置かれていました。
岡山藩の石高は、江戸時代初めの小早川秀秋の時に51万石。
その後は、ほぼ30万石代で推移していたようです。
周囲の町との市町村合併によって、足守や
吉備路の一部も今では岡山市に属しています。
2010年7月には岡山城や後楽園を訪れています。
岡山市内の吉備路の様子も交えて
紹介しようと思います。
(Okayama Castle)
Dec. 12, '15
後楽園
(Kourakuen Park)
NEW ! Jan. 07, '16
吉備路の散策記は
こちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Chugoku/Kibiji.html
後楽園
(Korakuen Park)
旭川を望む岡山城。
復元天守から近くの月見橋を渡ると
その対岸が後楽園です。
岡山城の登城記はこちらです。
後楽園は岡山藩2代藩主・池田綱政が築いた庭園で
1700年(元禄13年)に完成しています。
賓客をもてなした延養園を中心とした池泉回遊式の
庭園で岡山城や周辺の山を借景としています。
当時、延養園を茶屋屋敷、庭園を御後園と呼んでいました。
明治に入って後楽園と呼ばれるようになったそうです。
今では、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とならび
日本三名園の一つとして知られています。
水戸の散策記はこちらです。
金沢の散策記はこちらです。
月見橋を渡ったところに後楽園の南門がありました。
後楽園に入ると、芝生が広がっていました。
綺麗な芝生の景色は広々として
清々しい光景でした。
入って右手に廉池軒がありました。
当時から残る数少ない建物だそうです。
園内を散策した藩主が休憩したのでしょうか。
廉池軒の周囲には水路が巡らされ
その先に小高い丘がありました。
この小山が唯心山で、三代藩主・
池田継政の時に築かれた人口の丘です。
この唯心山からの眺めです。
芝生の中に池が浮かび、その間に
遊歩道が配された景色がとても綺麗でした。
この唯心山の東側には流店
という珍しい建物がありました。
1階は吹き抜けになっていて、
その真ん中を疏水が流れています。
流店からの眺めです。
この日は真夏の暑い一日で、日影のない後楽園を
歩いているうちに暑さに茹だってしまったのですが、
流店を流れる疏水に足を浸けていると、身体の
火照りも治まり、リフレッシュしてきました。
流店から芝生を横切り、北に向かうと
田圃が植えられている一角がありました。
井田(せいでん)と呼ばれる田圃です。
今では綺麗な芝生が広がる後楽園ですが
江戸時代は、芝生が田圃だった時代もあるようです。
井田から更に北に向かうと木々の生い茂った
丘に古風な門が見えてきました。
池田綱政が1697年(元禄10年)に建てた慈眼堂の門です。
この門も数少ない現存のものだそうです。
門の向こうには花崗岩を割って組み合わせた
烏帽子岩の奥にお堂がありました。
この慈眼堂は池田家と領民の繁栄を願った
観音像を祀ったものだったそうです。
慈眼堂から、広い沢の池の淵を歩いて西に向かいました。
池にはいくつも小島が浮かび、遠くに岡山城の天守が望めました。
のどかでしかも優雅な眺めでした。
この先に寒翠細響軒がありました。
この建物も茅葺の屋根です。
この寒翠細響軒からは沢の池が望めます。
広々とした園内の景色はとても素晴らしいものでした。
遠景の岡山城と近くの山の様子です。
この景色からは街中にいる事を忘れてしまいます。
更に西に向かうと、後楽園の正門も近づいてきました。
大きく立派な建物は延養亭です。
藩主が後楽園を訪れた際の
居間として建てられたものです。
第二次大戦で焼失してしまいましたが、
1960年(昭和35年)に復元されています。
こうして後楽園をのんびり散策して正門に辿り着きました。
暑い真夏の一日でしたが、清々しい散策でした。