岩国
Iwakuni, Yamaguchi

岩国は山口県で最も東に位置している都市です。
広島からJRで50分程の位置にあり、通勤も可能な
距離なので、広島県にあると思ってしまいます。

江戸時代は長州藩領でしたが、岩国は
独立した領地のような位置付けでした。

関ヶ原の戦いの直後に築かれた岩国城が
元和の一国一城令で廃城となると、
麓に御土居と呼ばれる岩国領の
政庁が置かれました。

この御土居への登城橋として架けられたのが
有名な錦帯橋で、錦帯橋を渡ったところの
吉香公園周辺には、いまも当時の様子を
伝える史跡が残っています。

2011年6月に、錦川鉄道に乗車したい際に
岩国城に登城し、麓の史跡も訪ね歩きました。

その時の様子を紹介します。

岩国城の登城記はこちらです。
錦川鉄道の乗車記はこちらです。

錦帯橋
(Kintaikyo Bridge)
Mar. 10, '20

吉香公園
(Kikko Park)
Mar. 15, '20

吉香神社
(Kikkyo Shrine)
Mar. 17, '20

吉川氏墓所
(Graves of KIKKAWA Clan)
NEW! Mar. 22, '20

岩国城
(Iwakuni Castle)
Mar. 08, 2020

岩国陣屋
(Iwakuni Domain Office)
Mar. 17, '20

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錦帯橋
(Kintaikyo Bridge)

錦川鉄道に乗車した後、西岩国駅で下車しました。


撮影: 2011年6月

1929年(昭和4年)に岩徳線が開業した際に建てられた
現役の駅舎を眺め、錦帯橋を目指した歩き出しました。

暫く西に向かって歩くと、岩国小学校がありました。
岩国小学校は1870年(明治3年)に岩国藩が設置した
もので、その時に建てられた校舎が残っています。


撮影: 2011年6月

校舎は博物館として利用されており、その中に
岩国電気鉄道に関する展示物がありました。
この鉄道は、現在の岩国駅と丁度、岩国小学校の
辺りを結んでいましたが、1929年の岩徳線の
開業により廃止になってしまっています。

この先に椎尾八幡宮がありました。


撮影: 2011年6月

1626年(寛永3年)に藩主・吉川広正が
建立した神社と伝わっています。

椎尾八幡宮を過ぎると、山の上の岩国城の
模擬天守が見えるようになり、すぐに
錦川の川べりに着きました。


撮影: 2011年6月

錦川の向こうに横山が聳え、その山頂に
岩国城の模擬天守が見えています。


撮影: 2011年6月

その袂に錦帯橋が架かっていました。
錦帯橋は、横山の麓の岩国領政庁への登城橋
として1673年(延宝元年)に架けられました。

岩国城の登城記はこちらです。

吉川広家が1602年(慶長7年)に岩国領政庁の
御土居を築いた後に、錦川には橋が架けられ
ましたが何度も流されてしまったそうです。

そこで三代領主・吉川広嘉がアーチ橋を架けさせました。
その時の橋は、翌1674年(延宝2年)の洪水で橋台が崩れて
破壊されてしまった為、橋台の補強を行い、その後、
276年間に亘って流失せずに持ち堪えていました。


撮影: 2011年6月

中央に大きな3つのアーチ橋、その前後に
やや小ぶりなアーチ橋が連なっています。

江戸時代を通じ276年間流されなかった錦帯橋ですが、
1950年(昭和25年)のキジア台風で流失してしまっています。
これは、米軍が錦帯橋付近のバラストを大量に採取した
影響によると言われているそうです。

その後、1953年(昭和28年)に再建されています。
2005年(平成17年)の台風14号でも一部の橋脚が
失われたそうですが、復旧され今に至っています。

錦帯橋を渡ってみました。


撮影: 2011年6月

入場料が必要ですが、今は誰もが渡れます。
江戸時代は、登城用の橋でしたので、武士や
一部の商人だけが渡る事を許されていたそうです。


撮影: 2011年6月

生憎の天気でしたが、錦帯橋を多くの方が渡っていました。


撮影: 2011年6月

遠くに見える岩国城の天守と錦帯橋の
取り合わせは、江戸時代からの眺めで、
心落ち着く眺めでした。

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吉香公園
(Kikko Park)

錦帯橋を渡ると、吉香公園があります。
江戸時代には錦帯橋を渡った錦川の右岸に
岩国領の政庁や武家屋敷が連なっていました。

錦川の堤防に沿った様子です。


撮影: 2011年6月

錦帯橋から真っ直ぐ進むと吉香公園に辿り着きます。
その入り口右手に塀が続いていました。


撮影: 2011年6月

江戸時代に、この辺りに建ち並んでいた
武家屋敷の名残と思います。

その左手には吉川広嘉公の像がありました。
吉川広嘉公は、岩国の三代目の領主で、
錦帯橋を架けた人です。


撮影: 2011年6月

そして銅像の辺りは、岩国領の領主・吉川氏に
仕える一門の家老・吉川氏の屋敷跡のようです。

岩国領主の家老・吉川氏は、秀吉の鳥取城攻めの際、
城兵側からの要請で派遣され、城将となった
吉川経家の子孫です。

秀吉は鳥取城に対し、凄惨な兵糧攻めを行います。
多くの餓死者を出した戦いは、4か月にわたる籠城の後、
吉川経家は鳥取城を開城し、城兵の安堵と引き換えに
自らは自刃します。

鳥取城の登城記はこちらです。

吉川経家の子・経実は関ヶ原の戦いの後、吉川広家に付いて
この岩国の地に移り、以降、岩国領主の家老となっています。

この先には香川家長屋門がありました。


撮影: 2011年6月

この香川氏も岩国領主の家老だった家柄で、
この長屋門は約270年前、18世紀の中頃に
建てられたものだそうです。


撮影: 2011年6月

その先も趣のある土塀が続きます。
その更に先に、古風な土塀とは対照的な
近代的な噴水がありました。


撮影: 2011年6月

この辺りは市民の憩いの公園で、
家族連れも沢山来ていました。

この一角に江戸時代の武家屋敷が残っていました。
目加田家住宅です。


撮影: 2011年6月

目加田家は知行170石取りの中級武士だったようです。
この武家屋敷は18世紀後半に建てられたものです。
中級武士の屋敷が現存しているのは珍しいとの事で、
重要文化財にも指定されています。

質素な造りですが、武家屋敷という事でしょうか、
当時から瓦葺の屋根だったようです。

目加田家住宅は、岩国城が聳える横山の麓に近く、
この先にはロープウェイ乗り場があります。

その右手に行くと、内堀がありました。


撮影: 2011年6月

江戸時代、堀の向こう側は、領主・吉川氏の
屋敷と岩国領の政庁があった御土居でした。

吉川氏の屋敷跡は、吉香神社になっていますが、
江戸時代には南櫓が建っていた場所に、
錦雲閣が建っていました。


撮影: 2011年6月

錦雲閣は、居館跡の一部が公園として開放された
1885年(明治18年)に建てられましたが、
堂々とした姿は当時の櫓のようでした。

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吉香神社
(Kikko Shrine)

吉香神社は、岩国領主だった吉川氏一族を祀る神社です。
今の社殿は、1728年(享保13年)に白山神社に建てられ、
1885年(明治18年)に江戸時代の吉川家屋敷跡の
現在地に移されています。


撮影: 2011年6月

鳥居をくぐると神門があり、その先に拝殿・本殿があります。


撮影: 2011年6月

これらの鳥居、神門、拝殿、本殿は
国の重要文化財に指定されています。


撮影: 2011年6月

吉香神社の裏に、池がありました。


撮影: 2011年6月

江戸時代は、吉川氏の居館の庭園だったのでしょうか。
この池の脇に褒忠社がありました。


撮影: 2011年6月

岩国領主初代の吉川広家が、吉川家の先祖を祀る為に
建立した節臣廟を明治以降に神社としたものです。
木々の中で、落ち着いた佇まいでした。

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吉川氏墓所
(Graves of KIKKAWA Clan)

岩国城を訪れた後、吉川氏墓所を訪れました。

吉川氏は元々駿河国の国人で、鎌倉時代に領地を
広げ、承久の乱で武功を挙げ安佐国の地頭となり、
本拠を安佐国大朝に本拠地を移します。

毛利元就の弟・元春が1547年(天文16年)に養子として
吉川氏に入った以降は毛利一族となります。


撮影: 2011年6月

吉川元春の三男・広家が家督を継ぎ、
関ヶ原の戦いの後、岩国に領地を与えられ、
以降明治まで吉川氏がこの地を治めます。

この墓地には、6代・経永を除く
歴代領主の墓があります。

墓地の入口から真っすぐ進むと8代領主・
経忠公と正室・喬松院のお墓があります。


撮影: 2011年6月

吉川経忠は、窮状に陥っていた岩国領の
財政を立て直したそうです。

8代領主・経忠公のお墓から北側に進みます。
こちらは7代領主・経倫公と正室・華厳院のお墓です。

先代の経永公の男子が夭折した為、7代・
経忠は、徳山藩から岩国領主となっています。
吉川元春からの血筋は経永の代で途絶えています。


撮影: 2011年6月

7代領主・経倫公のお墓から通路を隔てた
向かいには11代藩主・経章公のお墓があります。

吉川氏の墓所は、それぞれのお墓が高い
白壁で覆われ独立した区画になっています。

この先で通路の先に階段があり、その先の
門の奥にもいくつかお墓があるようです。


撮影: 2011年6月

門をくぐって正面左手にあるのが、
2代・広正公と正室・高玄院のお墓です。

その左手に3代・広嘉公、更に左に
9代・経賢公のお墓がありました。
経賢公は僅か16歳で亡くなっています。


撮影: 2011年6月

門の手前右側には4代・広紀公、
5代・広逵公のお墓がありました。


撮影: 2011年6月

この左手には10代・経礼公のお墓もありました。

残る12代・経幹公、初代・広家公のお墓は
ここから階段を上った山の中腹にあります。

12代・経幹公のお墓は、門の奥にあり、
数ある吉川氏のお墓の中でも格式が
高いようです。


撮影: 2011年6月

岩国領が正式に岩国藩として認められた最初の藩主です。
岩国藩が立藩したのは1868年3月13日の事です。
一方で、吉川経幹は1867年3月20日に亡くなっています。

およそ1年のズレがありますが、これは吉川経幹の死が
幕府に秘匿されていて、大政奉還を受けた明治政府が
吉川経幹を存命として藩主に任命した為でした。

岩国領主の吉川氏と長州藩との関係は、江戸時代には
冷え切っていましたが、吉川経幹は、幕末に長州藩が
窮地に陥った際、これを救うべく奔走しています。
幕府による第二次長州征伐では芸州口の戦いで
幕府軍を撃退する功績を挙げたそうです。

ここから更に急な階段を上ります。


撮影: 2011年6月

この階段の先に岩国・初代領主の
吉川広家公のお墓がありました。


撮影: 2011年6月

毛利氏の領主・輝元は関ヶ原の戦いで西軍の大将と
なりましたが、吉川広家が家康方に内通していた
おかげで、西軍が敗れたものの長門・周防二国の
大名として存続が許されました。

毛利輝元は、最悪の場合では島流しになっても不思議
ではなく、家康の最初の裁定では長門・周防二国は
関ヶ原の戦いで毛利軍を参戦させなかった功で、
吉川広家に与えられることになっていました。

広家はそれを主君の為にそれを固辞し、毛利家は
江戸時代に亘って大名として存続出来る事になった
わけですが、何故か長州では吉川広家のせいで
毛利氏の領地が関ケ原以前の120万石から30万石に
させられたという事になっています。

吉川氏の治める岩国は毛利氏によって藩として
認められていませんでしたが、これは関ヶ原の
時の恨みによるとも言われています。

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