『 安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから 』
広島、世界で初めて原子力爆弾が投下された街。
原子力爆弾が投下された街は、
長崎と、この広島しかありません。
長崎のページはこちらです。
廃墟となり、放射能に汚染され、
以後70年は草木一本生えないと言われた
広島も今では、すっかり復興し、
中国地方随一の都会に発展しています。
多くのビルが建ち並ぶその景観は
普通の地方の中核都市と同じです。
しかし、広島で過去起こった事は、
決して忘れてはならない出来事です。
広島はまた、戦国末期には毛利家の首府であり、
江戸時代には芸州藩(広島藩)の藩庁が置かれた街でした。
そんな広島の様子をまとめてみました。<
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原爆ドームは、広島に原子力爆弾が落とされた
その悲惨な事実を後世に伝え、核兵器廃絶と
恒久平和を願うシンボルです。
広島駅からの路面電車を
原爆ドーム前で下車すると
すぐ目の前にドームが見えてきます。
1945年8月6日、午前8時15分、このドームの
南東の上空で原子爆弾が爆発したのです。
その事実を後世に伝える為、廃墟の様な
無残な姿のまま永久保存されています。
原爆ドームは、戦前は広島県産業奨励館として
美術展が開かれたりしていたそうですが、
戦時中に当時の内務省などの政府機関が
このビルの中に入っていたそうです。
ドームの片隅には、原爆で命を落とした
内務省職員の慰霊碑が建っていました。
被爆前はドームを持つ4階建ての瀟洒なビルが
一瞬のうちに廃墟となってしまったのです。
この建物で仕事に取り掛かろうとしていた
多くの方が命を落としてしまった事でしょう。
原爆ドームを見ていると、胸が詰まってきます。
若い白人の20人程のグループが
真剣な表情で、原爆ドームを眺めたり、
その説明版を読んでいるのが印象的でした。
原爆ドームは太田川支流の元安川沿いに建っています。
路面電車の走る相生橋から眺める原爆ドームです。
今、この原爆ドームの後方に高層アパートの
建設が予定されています。
世界遺産に登録されている原爆ドームの
景観が大きく変わってしまうという一方で、
原爆ドームの景観の為に街の発展を
妨げるのは本末転倒な話という意見も出され
賛否両論の議論を呼んでいるようです。
元安川の対岸から眺める原爆ドーム。
周囲の景観の如何に係わらず、
この原爆ドームが悲惨な核兵器の現実を
いつまでも伝えて欲しいと思います。
原爆ドームから相生橋を渡り、元安川の
対岸に広がる公園が平和記念公園です。
公園の広さは約122,100平方メートル(約37,000坪)です。
原爆が落とされた当時、この辺りには6,500人程の住民と
建物の疎開作業に動員された学生達が働いていたようです。
1949年(昭和24年)に、この地を平和公園として
整備される事が決まったそうです。
公園の北側、路面電車の走る相生橋から
公園に入ってまず目に付くのが平和の鐘です。
公園を訪れた人が平和の思いを込め、
この鐘を自由に撞けるようになっています。
鐘は国境のない世界地図が描かれ、
4本の柱で支えられたドーム型の屋根は
宇宙を表すそうです。
公園の中を歩き、南に向かって歩いていくと
千羽鶴に飾られた原爆の子の像辿り着きました。
この原爆の像は、2歳の時に被爆し、
10年後、小学校6年生の時に白血病で亡くなった
佐々木禎子さんの死に衝撃を受けた
同級生らの呼びかけで1958(昭和33)年
5月5日に建立されたものです。
原爆の被害は戦後も続いている事を
改めて実感させられます。
公園内を貫く道を渡ると、整然と整備された
区画の中に翼を広げたようなモニュメントと
長方形の池がその向こうに続いています。
このモニュメントの真ん中に火が灯っています。
平和の灯です。
翼を広げたように思えた台座は、
掌を広げた形をモチーフにしているそうです。
そして、平和の池に沿って南に向かうと
池の南端に原爆死没者慰霊碑が建っています。
この正面に建つと、石で出来たアーチの向こうに
平和の灯と原爆ドームが一直線に配置されています。
アーチの下の石室には原爆で命を落とされた
方々の名簿が納められています。
名前が記載されている方々は、
2006年8月6日時点で 247,787名です。
この数の重みに言葉もありません。
『 安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから 』
慰霊碑に刻まれた、この不戦の誓いを
永久に守り続けていかなければ、
という思いを新たにしました。
原爆死没者慰霊碑の南側に平和記念資料館が建っています。
平和記念資料館は原爆被害の様子を広く伝える為、
1955年(昭和30年)に開館しています。
この資料館は3度訪れていますが、最初に
平和記念資料館を訪れた時には、あまりの
衝撃に、しばらく呆然としてしまいました。
今回も気持ちを引き締めて訪れました。
ここには決して、気軽な気持ちで
訪れる事は出来ない所です。
広島に原子力爆弾が落とされた直後、
米軍機から撮影された広島上空の様子です。
このきのこ雲の下で、多くの方が命を落とし、
暑さと、その時は気が付いていなかった
放射能で苦しめられていたと思うと、
胸が痛みます。
下の写真は、原爆投下の数日後に
原爆ドーム付近を写したものです。
原爆の中心地の地表面の温度は3,000℃に達し、
爆心地から1km以内に居た方の90%が1日以内に死去し、
一年間の死者数は20万人に達したそうです。
被害者の大多数は兵士ではなく一般市民でした。
原爆で亡くなった方の服も展示されていました。
原爆の熱でボロボロになっています。
生き延びた人たちも、着の身着のままの姿で
飢えを凌いでいたようです。
平和記念資料館の展示資料は非常に痛ましいものですが、
原爆投下による被害は、日本は単なる犠牲者ではない、
という事は忘れるべきではないと思います。
韓国の併合や、中国や東南アジア諸国への侵略戦争、
そしてアメリカとの宣戦布告のない開戦の結末として
この原爆投下が行われたというのも事実と思います。
原爆ドームと平和記念公園は、戦争の悲惨さを知り、
二度と戦争という愚かな行為をしない事が如何に重要か
切実に感じられる場所ですが、日本では戦争のきな臭い
匂いが再び濃くなっています。
安倍内閣が日本国憲法九条を蔑ろにし、海外派兵の道を
開いた事は記憶に新しい所ですし、昨今では、
近隣諸国に対するヘイトスピーチをネット上で
行う輩が横行し、憎しみを煽っています。
また1996年に核兵器禁止条約が国連に提出され、
2016年に採決されていますが、唯一の被爆国で
ある日本はあろうことかこれに反対しています。
いったい戦争の無い世界というのは、
いつ実現するのでしょうか・・・
2016年5月にオバマ元アメリカ大統領が広島を訪れ
核兵器廃絶を願ったスピーチをしましたが、
残念ながら、その後状況は大きく後退しています。
しかし、人類は過去から学び、戦争のない
平和な世界を実現するのに十分な知恵と
能力を持っていると信じています。
縮景園は福島正則改易後に広島城主となった
浅野長晟が建てた別邸の庭として築かれたものです。
縮景園の名は、多くの名勝を縮めて表したとも、
中国杭州・西湖の様子を模した為とも言われているようです。
八丁堀で広島電鉄の白島線に乗り換え、
縮景園で下車し東に向かって歩いていくと
すぐのところにあります。
広島城の東、約500mのところにあり、
庭園の裏側は太田川支流の京橋川に面しています。
縮景園の入り口には、古風な冠木門が建っています。
入園料を支払い、門から続く道を歩いていきます。
道の両側のベンチに緋色の布が掛けられていて、
その色がとてもいいアクセントになっています。
この道の突き当たりに、清風館という
数奇屋造りの庵があります。
屋根は気品ある?葺だそうです。
この庵の向こう側に、縮景園の中央の殆どを占める
濯纓池(たくえいち)という池が広がっていました。
右手には松の生い茂る小島越しに
対岸の悠々亭が見えています。
落ち着いた雰囲気の園内は大都市・広島の
中心街にあるとは思えない静かさです。
清風館の庭先からの小道が池の中央に架かる
太鼓状の跨虹橋(ここうきょう)に繋がっています。
まず、この跨虹橋を渡り対岸に渡り、
濯纓池の周囲を一周してみました。
対岸に渡り、京橋川の堤防になっている
土塁に上ると慰霊碑がありました。
あの原爆の際、この縮景園に逃げ込んで
命を落とした方々の慰霊碑です。
この静かな縮景園を見ていると
想像もつかない事ですが、
この庭園も原爆の被害を受け、
園内は壊滅状態になったそうです。
痛ましい思いで園内を歩いていると、
秋の名残の紅葉に照らされた
庵が見えてきました。
明月亭です。
1974年(昭和49年)に数奇屋造りの
萱葺きの屋根が復元されています。
明月亭から下ったところから
濯纓池越しに眺める清風館です。
濯纓池に架かる跨虹橋も見えています。