広島
Hirosima, Hiroshima


『 安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから 』

広島、世界で初めて原子力爆弾が投下された街。
原子力爆弾が投下された街は、
長崎と、この広島しかありません。


長崎のページはこちらです。

廃墟となり、放射能に汚染され、
以後70年は草木一本生えないと言われた
広島も今では、すっかり復興し、
中国地方随一の都会に発展しています。

多くのビルが建ち並ぶその景観は
普通の地方の中核都市と同じです。

しかし、広島で過去起こった事は、
決して忘れてはならない出来事です。

広島はまた、戦国末期には毛利家の首府であり、
江戸時代には芸州藩(広島藩)の藩庁が置かれた街でした。

そんな広島の様子をまとめてみました。<

原爆ドーム (A Bomb Dome)
Mar. 14, '07

平和記念公園 (Peace Memoria Park)
Revised! Sep. 26, '19

広島城 (Hirosima Castle) 
Mar. 19, '07

縮景園 (Shukkeien)
Mar. 22, '07

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原爆ドーム
(A Bomb Dome)


原爆ドームは、広島に原子力爆弾が落とされた
その悲惨な事実を後世に伝え、核兵器廃絶と
恒久平和を願うシンボルです。

広島駅からの路面電車を
原爆ドーム前で下車すると
すぐ目の前にドームが見えてきます。


撮影: 2016年9月

1945年8月6日、午前8時15分、このドームの
南東の上空で原子爆弾が爆発したのです。

その事実を後世に伝える為、廃墟の様な
無残な姿のまま永久保存されています。

原爆ドームは、戦前は広島県産業奨励館として
美術展が開かれたりしていたそうですが、
戦時中に当時の内務省などの政府機関が
このビルの中に入っていたそうです。


撮影: 2016年9月

ドームの片隅には、原爆で命を落とした
内務省職員の慰霊碑が建っていました。

被爆前はドームを持つ4階建ての瀟洒なビルが
一瞬のうちに廃墟となってしまったのです。


撮影: 2016年9月

この建物で仕事に取り掛かろうとしていた
多くの方が命を落としてしまった事でしょう。
原爆ドームを見ていると、胸が詰まってきます。

若い白人の20人程のグループが
真剣な表情で、原爆ドームを眺めたり、
その説明版を読んでいるのが印象的でした。

原爆ドームは太田川支流の元安川沿いに建っています。
路面電車の走る相生橋から眺める原爆ドームです。


撮影: 2006年12月

今、この原爆ドームの後方に高層アパートの
建設が予定されています。

世界遺産に登録されている原爆ドームの
景観が大きく変わってしまうという一方で、
原爆ドームの景観の為に街の発展を
妨げるのは本末転倒な話という意見も出され
賛否両論の議論を呼んでいるようです。

元安川の対岸から眺める原爆ドーム。


撮影: 2016年9月

周囲の景観の如何に係わらず、
この原爆ドームが悲惨な核兵器の現実を
いつまでも伝えて欲しいと思います。

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平和記念公園
(Peace Memoria Park)

原爆ドームから相生橋を渡り、元安川の
対岸に広がる公園が平和記念公園です。

公園の広さは約122,100平方メートル(約37,000坪)です。
原爆が落とされた当時、この辺りには6,500人程の住民と
建物の疎開作業に動員された学生達が働いていたようです。

1949年(昭和24年)に、この地を平和公園として
整備される事が決まったそうです。

公園の北側、路面電車の走る相生橋から
公園に入ってまず目に付くのが平和の鐘です。


撮影: 2018年11月

公園を訪れた人が平和の思いを込め、
この鐘を自由に撞けるようになっています。

鐘は国境のない世界地図が描かれ、
4本の柱で支えられたドーム型の屋根は
宇宙を表すそうです。

公園の中を歩き、南に向かって歩いていくと
千羽鶴に飾られた原爆の子の像辿り着きました。


撮影: 2016年9月

この原爆の像は、2歳の時に被爆し、
10年後、小学校6年生の時に白血病で亡くなった
佐々木禎子さんの死に衝撃を受けた
同級生らの呼びかけで1958(昭和33)年
5月5日に建立されたものです。

原爆の被害は戦後も続いている事を
改めて実感させられます。

公園内を貫く道を渡ると、整然と整備された
区画の中に翼を広げたようなモニュメントと
長方形の池がその向こうに続いています。


撮影: 2016年9月

このモニュメントの真ん中に火が灯っています。
平和の灯です。
翼を広げたように思えた台座は、
掌を広げた形をモチーフにしているそうです。

そして、平和の池に沿って南に向かうと
池の南端に原爆死没者慰霊碑が建っています。


撮影: 2016年9月

この正面に建つと、石で出来たアーチの向こうに
平和の灯と原爆ドームが一直線に配置されています。


撮影: 2016年9月

アーチの下の石室には原爆で命を落とされた
方々の名簿が納められています。

名前が記載されている方々は、
2006年8月6日時点で 247,787名です。
この数の重みに言葉もありません。


撮影: 2006年12月

『 安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから 』

慰霊碑に刻まれた、この不戦の誓いを
永久に守り続けていかなければ、
という思いを新たにしました。

原爆死没者慰霊碑の南側に平和記念資料館が建っています。


撮影: 2016年9月

平和記念資料館は原爆被害の様子を広く伝える為、
1955年(昭和30年)に開館しています。

この資料館は3度訪れていますが、最初に
平和記念資料館を訪れた時には、あまりの
衝撃に、しばらく呆然としてしまいました。

今回も気持ちを引き締めて訪れました。
ここには決して、気軽な気持ちで
訪れる事は出来ない所です。

広島に原子力爆弾が落とされた直後、
米軍機から撮影された広島上空の様子です。


撮影: 2016年9月

このきのこ雲の下で、多くの方が命を落とし、
暑さと、その時は気が付いていなかった
放射能で苦しめられていたと思うと、
胸が痛みます。

下の写真は、原爆投下の数日後に
原爆ドーム付近を写したものです。


撮影: 2006年12月

原爆の中心地の地表面の温度は3,000℃に達し、
爆心地から1km以内に居た方の90%が1日以内に死去し、
一年間の死者数は20万人に達したそうです。

被害者の大多数は兵士ではなく一般市民でした。


撮影: 2016年9月

原爆で亡くなった方の服も展示されていました。
原爆の熱でボロボロになっています。

生き延びた人たちも、着の身着のままの姿で
飢えを凌いでいたようです。


撮影: 2016年9月

平和記念資料館の展示資料は非常に痛ましいものですが、
原爆投下による被害は、日本は単なる犠牲者ではない、
という事は忘れるべきではないと思います。

韓国の併合や、中国や東南アジア諸国への侵略戦争、
そしてアメリカとの宣戦布告のない開戦の結末として
この原爆投下が行われたというのも事実と思います。

原爆ドームと平和記念公園は、戦争の悲惨さを知り、
二度と戦争という愚かな行為をしない事が如何に重要か
切実に感じられる場所ですが、日本では戦争のきな臭い
匂いが再び濃くなっています。

安倍内閣が日本国憲法九条を蔑ろにし、海外派兵の道を
開いた事は記憶に新しい所ですし、昨今では、
近隣諸国に対するヘイトスピーチをネット上で
行う輩が横行し、憎しみを煽っています。

また1996年に核兵器禁止条約が国連に提出され、
2016年に採決されていますが、唯一の被爆国で
ある日本はあろうことかこれに反対しています。

いったい戦争の無い世界というのは、
いつ実現するのでしょうか・・・


撮影: 2016年9月

2016年5月にオバマ元アメリカ大統領が広島を訪れ
核兵器廃絶を願ったスピーチをしましたが、
残念ながら、その後状況は大きく後退しています。

しかし、人類は過去から学び、戦争のない
平和な世界を実現するのに十分な知恵と
能力を持っていると信じています。

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縮景園
(Shukkeien)


縮景園は福島正則改易後に広島城主となった
浅野長晟が建てた別邸の庭として築かれたものです。

縮景園の名は、多くの名勝を縮めて表したとも、
中国杭州・西湖の様子を模した為とも言われているようです。

八丁堀で広島電鉄の白島線に乗り換え、
縮景園で下車し東に向かって歩いていくと
すぐのところにあります。

広島城の東、約500mのところにあり、
庭園の裏側は太田川支流の京橋川に面しています。

縮景園の入り口には、古風な冠木門が建っています。


撮影: 2006年12月

入園料を支払い、門から続く道を歩いていきます。
道の両側のベンチに緋色の布が掛けられていて、
その色がとてもいいアクセントになっています。


撮影: 2006年12月

この道の突き当たりに、清風館という
数奇屋造りの庵があります。
屋根は気品ある?葺だそうです。


撮影: 2006年12月

この庵の向こう側に、縮景園の中央の殆どを占める
濯纓池(たくえいち)という池が広がっていました。

右手には松の生い茂る小島越しに
対岸の悠々亭が見えています。


撮影: 2006年12月

落ち着いた雰囲気の園内は大都市・広島の
中心街にあるとは思えない静かさです。

清風館の庭先からの小道が池の中央に架かる
太鼓状の跨虹橋(ここうきょう)に繋がっています。


撮影: 2006年12月

まず、この跨虹橋を渡り対岸に渡り、
濯纓池の周囲を一周してみました。

対岸に渡り、京橋川の堤防になっている
土塁に上ると慰霊碑がありました。
あの原爆の際、この縮景園に逃げ込んで
命を落とした方々の慰霊碑です。

この静かな縮景園を見ていると
想像もつかない事ですが、
この庭園も原爆の被害を受け、
園内は壊滅状態になったそうです。

痛ましい思いで園内を歩いていると、
秋の名残の紅葉に照らされた
庵が見えてきました。


撮影: 2006年12月

明月亭です。
1974年(昭和49年)に数奇屋造りの
萱葺きの屋根が復元されています。

明月亭から下ったところから
濯纓池越しに眺める清風館です。
濯纓池に架かる跨虹橋も見えています。


撮影: 2006年12月

この景色を眺めながら池の辺を歩くと
夕照庵に辿り着きました。


撮影: 2006年12月

夕照亭も赤く染まった樹木が周囲を覆い、
庵も赤みを帯びているような感じでした。

原爆の被害から見事に蘇った縮景園は
とても落ち着いた静かな名園でした。

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