西尾
Nishio, Japan


西尾市は、愛知県三河地方の都市です。
矢作川の河口に近い街で、近年では
自動車産業とともにお茶の生産高が
日本一で知られる街です。

1764年に大給松平氏が6万石で入封し、
西尾城の城下町として栄えてきました。

西尾城の様子はこちらです。

また西尾は駿河・遠江2ヶ国の守護大名となった
今川氏発祥の地で、西尾の市街地の東にある
東向寺には、今川義元の首塚と
言い伝えられている塚もあります。

この西尾の地に、2008年2月と3月に
Escae R3で訪れました。

その時の様子を紹介します。

Escape R3の旅行記はこちらです。
伝今川義元首塚の様子はこちらです。


西尾城
NEW ! Aug. 14, '22

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西尾城下町

西尾の城下町は西尾城の
北側に広がっていたようです。

西尾城を訪れた後に、西尾城の東、
西尾小学校を挟んだ反対側にある
尚古荘に立ち寄ってみました。

尚古荘は江戸時代の庭園と思っていたのですが、
米穀商の大黒屋岩崎明三郎氏によって
昭和初期に作られたものだそうです。

江戸時代にはこの辺りは、
西尾城東の丸で、尚古荘の庭園は
当時の土塁等を生かして造られているそうです。

庭園には水琴窟も造られ、
落ち着いた雰囲気でした。

尚古荘を後に、西尾の市街地を
南北に貫く中町通りを北に向かいました。

途中、西尾城三の丸の
大手門跡の碑を見つけました。

西尾城の正門にあたる大手門界隈の様子です。
当時は約10m四方の空き地を持つ外枡形の門で、
高さ約3mの石垣の上に楼門が聳えていたそうです。

今は、当時の面影もなく
家が建ちこめています。

大手門跡を北に向かうと聖運寺の
堂々とした山門が見えてきました。

聖運寺は浄土真宗のお寺で、境内には
大きなイブキの大木がありました。

聖運寺から更に北に向かい、
中町通りから一本東側の肴町通りに入り、
途中で右手の路地に入りました。

この路地が唯法寺の路地と呼ばれるところで
狭い路地の両側にお寺の塀が続き、
江戸の風情が漂っています。

趣のある小路を抜けた北側には 伊文神社がありました。

由緒によると、文徳天皇(827〜858年)の皇子八篠宮が
渥美郡の伊川津から転住された際に、
移した社ということです。

伊文神社の立派な神殿です。

江戸時代には西尾の産土神として
崇敬を集めていたそうです。

境内には古い蔵が建っていました。

この蔵は1857年(安政4年)に建てられた義倉蔵で、
幕末の頃に頻発した災害・凶作・飢饉に備え
西尾藩の御用達商人や町民からの寄付米、
藩からの借用米を蓄えたものだそうです。

この蔵に蓄えられた米のおかげで、
幕末から明治・大正・昭和にかけて生じた
災害で、西尾市民の生活が保たれたそうです。

伊文神社から細い路地に入り込み、
道がわからなくなってしまいましたが、
なんとか、大給町の武家屋敷と呼ばれる
一角に行くことが出来ました。

当時この辺りは、100石から150石程度の
中級武士が住んでいたそうで、
侍屋敷の長屋門が残っているようでした。

大給町の武家屋敷から西に向かい、
中町通りを横切り、盛厳寺を訪れました。

この盛厳寺は西尾藩主の
大給松平家の菩提寺だったお寺です。

この盛厳寺には大給松平家14代の
松平乗全公と奥様のお墓がありました。

松平乗全公は1843年(弘化2年)から
安政2年(1855年)に老中を勤めています。
一旦幕政から離れた後、1858年(安政5年)に
再び、老中職に就いています。
2度目の老中職の際に、桜田門外の変が生じ、
その責を負って、老中を辞したそうです。

桜田門外の変の起きた
江戸城桜田門は
こちらです。

暗殺された井伊直弼公の彦根城はこちら
お墓のある豪徳寺の様子はこちらです。

西尾は岡崎の隣町でしたが、こうした江戸時代の
風情の残る町並みが残っているとは知りませんでした。

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伝今川義元首塚

西尾の街並みを抜け、東に向かうと
矢作川の作る平野が尽き、幸田町との
境にある丘陵地に突き当ります。

国道23号線を過ぎ駒場町の集落を
入ったところに東向寺という
お寺がひっそりと佇んでいます。

境内の手前に立派な石碑があり、
急な坂を上って、本堂を目指します。

山に入ったところに思いがけず、
立派なお堂がありました。

東向寺は奈良時代後期、貞観年代(859〜864年)に
慈覚大師が開創したそうです。

東向寺の第四世徳順上人は今川義元の
伯父で、義元はこのお寺に深く帰依し、
領地を与えたりしていたそうです。

東向寺を訪れた際、寄り合いが開かれていて、
丁度庭に出てきた人に尋ねてみると、この裏山に
義元公の首塚があるとのことでした。

裏山に上り始めてすぐのところに
古びた、小さな石塔がありました。

花が活けられ、綺麗に整備されています。

桶狭間の戦いで、織田信長の軍勢に討たれた
今川義元の首は、須ヶ口で晒されていたそうですが、
それを義元の武将で鳴海城主だった岡部五郎兵元信の
元に返され、元信は主君の首を駿府に戻る途中、
このお寺に葬ったと伝わっているそうです。

この首塚は確定されたものではありませんが、
大切にされている石塔を見ていると、この地に、
義元の首級が葬られていると信じたくなってきました。

今川義元の胴は、敗走する今川軍によって駿河に
向けて運ばれますが、その途中で腐敗が進み
今の豊川市牛久保に葬られたとされています。

豊川・牛久保の今川義元胴塚はこちらです。

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今川氏発祥の地

西尾の市街地の南東に、今川町という地名が残っています。
鎌倉時代に、足利義氏の庶子、吉良長氏の二男・国氏が
三河の碧海郡今川荘を授けられていますが、その地が
西尾の今川町にあたります。

吉良国氏が、今川四郎を称したのが
今川氏の始まりということです。

吉良の様子はこちらです。

2011年11月、名古屋鉄道西尾線に乗車した際に、
西尾で途中下車し、この今川町を訪れました。

西尾駅から南東に向かい、西尾中学校を目指します。


撮影: 2011年11月

この西尾中学校の所在地が西尾市今川町になります。
昔の城館跡に学校が建っているケースが各地に
ありますが、今川氏の城館もこの中学校の
敷地に有ったのかもしれません。

西尾中学校の300m程南には諏訪神社があります。


撮影: 2011年11月

諏訪神社の創建は分っていないようです。


撮影: 2011年11月

北向きに鎮座している諏訪神社の社殿です。
ここで何か碑があるのかと期待していましたが
何もなく、西尾中学校の校庭の南側の杜に向かいます。


撮影: 2011年11月

上の写真の木々が生い茂っているところに
今川氏発祥の地の碑がありました。


撮影: 2011年11月

この碑は元々、諏訪神社の境内にあったそうです。
つまりはこの一帯のどこかに今川氏の館があった
と考えていいのかもしれません。

周囲は田圃で囲まれていて、低湿地の中の微高地の
周囲に堀を巡らせた城館だった事が想像出来ます。

ここには2つの碑がありました。


撮影: 2011年11月

上右の写真は今川氏発祥に関する碑です。
後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権北条泰時の間で
生じた承久の乱1221年(承久3年)の後、
足利宗家3代当主の足利義氏
(1189-1255)が、
三河国の守護に任ぜられます。

足利義氏の庶長子の長氏(1211-1290)は所領の
吉良荘にちなみ吉良氏を名乗ります。
長氏は、義氏から今川荘も譲り受けますが、
この地は次子の国氏
(1243-1282)に伝えています。

吉良の様子はこちらです。

国氏は今川氏を名乗り、こうして
"御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、
吉良が絶えなば今川が継ぐ"と言われた
関係が形成されていきました。

ちなみに、三河は源氏に所縁に深い地で、
足利幕府の管領だった細川氏、二木氏も
岡崎が発祥の地になっています。

今川氏は、国氏の孫・今川範国(1295?-1384)
遠江・駿河の守護に任じられています。

その後、今川氏は守護大名から戦国大名へと
勢力を伸ばし、11代当主が今川義元です。

今川義元が桶狭間の戦いで命を落とし、
その首塚が、今川氏発祥の地からそれ程
遠くない場所にあると伝わるのも
何かの縁かもしれません。

伝・今川義元首塚はこちらです。


撮影: 2011年11月

今川氏発祥の地の碑の近くには、今川範国の
次男・今川貞世
(1326-1420)のお墓がありました。

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