長岡
Nagaoka, Japan







長岡は新潟県のほぼ中央部にある街です。
人口は約28万人。
江戸時代には長岡藩が置かれ、今の新潟県にあたる
越後の政治の中心だった町です。

長岡城の様子はこちらです。


長岡藩と言えば、幕末に家老職にあった
河井継之助の事を語らずにはいられません。



河井継之助は、江戸で佐久間象山に学び
備中松山藩の山田方谷にも教えを請うたそうです。
元々の家禄は120石程だったそうです。
中級よりやや下の家臣だったのではないでしょうか。

ペリー来航の折、老中だった長岡藩主・牧野忠雅が
家臣に意見を求めた際に継之助が提出した建白書が
忠雅の目に留まった事から執りたてられていきます。

一度は、上層部の反対に遭い、挫折するのですが、
その後1865年(慶応元年)に外様吟味役に再任されると、
その3ヶ月後に郡奉行に就任し、藩政の改革を行います。

1867年(慶応3年)10月、大政奉還が行われると
長岡藩を最新式の武器で軍備強化し、
藩内の反対論を抑え武装中立論を貫きます。

新政府軍が会津藩討伐の為、北越に進軍し
長岡藩に対し、会津討伐の先鋒となる事を強要します。
この新政府軍と長岡藩の会見は、小千谷の慈眼寺で、
新政府軍監・岩村高俊と継之助との間で行われました。

会談の行われた小千谷の様子はこちらです。

岩村高俊は、継之助の説く中立和平を理解せず、
会津藩を説得すると申し出た継之助の提案を無視し、
会談は僅か30分で決裂したそうです。

この結果、継之助は奥羽越列藩同盟に加盟し、
会談決裂の2日後の1868年5月4日から始まった
長岡藩と政府軍の北越戦争は熾烈を極めたそうです。

僅か7万4千石の長岡藩は、兵力に大きく勝る
新政府軍に対してよく戦い、一度は奪われた長岡城を
2ヵ月後に奪回するという快挙を遂げるのですが、
その奪回作戦中に継之助は足に銃弾を受け、
長岡城は陥落し、敗れた長岡の人たちは
八十里越の峠を、会津に落ちのびていったのでした。

八十里 腰抜け武士の 越す峠

継之助の足の傷は酷くなり、八十里峠を越えた
会津領塩沢村(現・福島県只見町)で、
その一生を終えてしまうのでした。
1868年8月16日の事です。

只見の様子はこちらです。


継之助は、終焉の地となった会津では
今でも慕われているのですが、
結果的には長岡を焦土としてしまったので、
郷土では必ずしも継之助の事を
よく思わない人もいるようです。

でも時代を見据え、自分の信念に従い行動した
河井継之助の生き様には強く惹かれます。


その河井継之助の邸宅跡が
長岡駅北側、300m程のところにあります。
この邸宅跡に記念館が建てられています。



終焉の地・会津塩沢では、1966年(昭和41年)に
建てられた記念館も、故郷の長岡では40年後の
2006年12月27日にやっと開館の運びとなりました。

2006年12月に長岡を訪れた際は、あいにく
開館の1週間前だったので2007年8月、
南東北旅行の帰り道に立ち寄りました。

河井継之助記念館に立ち寄り、改めて
志を持って行動することの重さが
判ったような気がしました。


河井継之助記念館に立ち寄った後、
程近いところにある榮涼寺に向かいました。
ここは長岡藩主・牧野家の菩提寺だったところです。

記念館から北に向かい線路を渡ると榮涼寺です。



夏の日差しが照りつけ、暑くて汗が噴く出してきます。

榮涼寺は1619年(元和5年)に牧野氏が越後長岡に
移封になった翌年に開山された歴史ある寺です。

境内には牧野家や藩士の墓、そして
戊辰戦争にまつわる碑が建っています。

これは北越戊辰戦争の招魂碑です。



北越戊辰戦争ではこの榮涼寺は
"西軍"の野戦病院となり、
長岡藩の長岡城奪回作戦の際に
堂宇がすべて焼き払われてしまったそうです。

その奥には比較的新しい、旧長岡藩主
牧野家代々のお墓がありました。



その近くにひっそりと佇む
河井継之助のお墓です。




長岡には他にも北越戊辰戦争に
関する史跡が残っているようです。
いつかじっくり巡ってみようと思っています。

長岡城の様子はこちらです。



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