小千谷
Ojiya, Japan







2007年夏、東北旅行をした帰り道、河井継之助に
所縁のある長岡と小千谷に立ち寄りました。

小千谷は、長岡藩の家老上席となった河井継之助が
越後に進軍してきた官軍と会談を持ったところです。

この辺りの経緯は、長岡のページをご参照ください。
長岡の様子はこちらです。

会談が開かれたのは小千谷の街中にある慈眼寺です。

魚野川の東側にあるJR小千谷駅から
川の対岸の慈眼寺までは2km程の距離です。

魚野川に架かる橋を渡り、商店街を抜けていくと
住宅街の中に慈眼寺の立派な山門がありました。



参道から山門を抜けると観音堂が見えていました。



河井継之助と新政府軍監・岩村高俊が
会談を行った「会見の間」のある本堂です。



本堂の周りには人影がなく、境内にあった幼稚園の
先生に尋て、和尚さんの自宅に声を掛けてみました。

しばらくして和尚さんが出てきてくれました。
後でパンフレットを読むと事前に予約が必要だった様です。

和尚さんはお経と唱えた後、会見の間や
会見の様子について話をして下さいました。

この慈眼寺は2004年(平成16年)10月23日の
新潟県中越地震により大きな被害を受けたそうです。
特に「会見の間」は壊滅的なダメージを受けたそうです。
和尚さんは、一時は復興を諦めたそうですが、
歴史的な場所をなんとか後世に伝えなければ
との思いで復興させたそうです。

本堂奥の間が「会見の間」です。



河井継之助は1868年(慶応4年)5月2日に、
この場所で軍監・岩村高俊と相対し、激論の末に、
継之助が期待していた中立武装論は
一蹴されそして、空しく引き返しています。

朴訥とした和尚さんのお話を伺い、
コンピューターで合成された継之助の語りを
聞きながら当時の様子に思いを馳せていました。

140年前、この場所に河井継之助が
いたかと思うと感慨もひとしおです。


慈眼寺を辞して、小千谷駅まで戻りました。
司馬遼太郎の「峠」によると、慈眼寺を
追い出されるように辞した河井継之助は
門前で機会を伺っていたようです。

アーケードの続く小千谷の街はひっそりとしていました。



もう20年以上も前の事ですが、小千谷の街中にあった
西小千谷駅来迎寺を結んでいた魚沼線に乗るために
この小千谷の街を歩いた事があります。
魚沼線は1984年に廃止されてしまいました。

小千谷の街を抜け、魚沼川に架かる橋を渡ります。



秋のような筋雲が浮かぶ
爽やかな青空が広がっていました。



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