遠江二俣
Totomi Futamata, Japan







二俣は愛知県と静岡県の県境の
深い山間を流れて来た天竜川が
牧の原台地から三方が原へと続く
平地に流れ出るところにある小さな町です。

以前は天竜市の中心部でしたが、
2005年に浜松市に編入され、今は
浜松市天竜区となっています。

この要衝の地・二俣には、今川氏、徳川氏
武田氏の攻防の拠点となった二俣城や
この二俣城で悲劇の生涯を終えた、
家康の嫡男・岡崎三郎信康の
お墓のある瀞龍寺があります。



2007年5月、この二俣城を訪れた際、
二俣にある瀞龍寺に立ち寄りました。

二俣城の様子はこちらです。


天竜浜名湖鉄道の二俣本町で下車し、
駅前の集落を抜けて歩いていきました。



天竜浜名湖鉄道の様子はこちらです。


本降りの雨で、町もひっそりとしています。
二俣城に行く前に、瀞龍寺に向かうのですが
歩き出すと道案内がなく、小学校を頼りに歩きます。

ふと気がつくと道端に家康縁の石碑がありました。



家康が、小姓に「金のなる木を知っているか?」
と尋ね、誰も答えられなかったので、
"なにごともほどほどに"、"慈悲深く"
そして"正直に"という言葉を
3本の幹として書いたそうです。

それに次の間に控えていた細川忠興が、
色々な言葉を付け加えて枝にしたそうです。

1831年(文政13年)に建てられた石碑には
この逸話の言葉が刻まれているようです。


瀞龍寺は、どこにあるのだろうと、
歩いていたのですが、この石碑の
左手の坂の上にありました。

瀞龍寺に向かう前に、右手の
諏訪神社に向かいました。



由緒によると、創立年代は不詳ですが
1186年(文治2年)に遠江守護職安田義定が
東上の途中に立ち寄った旨が記されています。

また1570年(元亀元年)には二俣城を攻略した
武田信玄が守護神として崇敬したそうです。

山肌に幾つか祠があり、
規模の大きな神社のようです。



神社の左手には復元された井戸櫓がありました。
井戸櫓は二俣城の天竜川沿いに建てられていた櫓で、
この櫓から釣瓶で天竜川の水を汲んでいたようです。




1572年(元亀3年)10月、大軍を率いて二俣城を
攻撃した武田信玄は、天竜川に筏を流し
この井戸櫓を破壊し、二俣城の
水の手を絶って、攻略したそうです。

諏訪神社も井戸櫓も数百年も時を
遡ったような雰囲気が漂っていました。
井戸櫓の左手の坂道を上ると瀞龍寺の山門です。



瀞龍寺は1579年(天正7年)に二俣城で自害した
岡崎三郎信康(家康嫡男)が葬られているお寺です。

1581年にこのお寺を訪れた家康が、
清水が湧き出ているのを見て、
瀞龍寺と名付け、信康に瀞龍寺殿
との諡(おくり名)をしたそうです。


立派な山門をくぐり本堂から
信康廟へと向かいます。



本堂は質素な感じですが、三つ葉葵の紋が
寺の格式の高さを伝えています。

境内に建つ鐘撞き堂です。



この鐘撞き堂には、ホンダの創始者・
本田宗一郎氏が尋常高等小学校時代に、
正午の鐘を30分早く撞いて、早弁した
という逸話もあるそうです。

信康廟は本堂背後の山の中にありました。
墓地の奥に、信康廟に続く石段がありました。

石段を上って行きますが、あいにく
廟の手前の門が閉まっていました。



岡崎三郎信康は、織田・徳川の同盟の証として
織田信長の娘・徳姫を娶り、若い頃から勇猛果敢で
岡崎城主を務めていました。
ちなみに、当時の家康の居城は浜松城でした。

その信康の妻・徳姫が信康と、信康の母・築山殿が
武田勝頼に内通しているとの直訴を信長に行い、
この為、信長の命を受けた家康が、
信康に自害を命じたとされています。

岡崎城の様子はこちらです。
浜松城の様子はこちらです。


信康自害の経緯については異論もあり
はっきりしない事も多いようですが、
当時信康は僅か21歳でした。



瀞龍寺は戦国の歴史を伝える雰囲気のある、
しかもひっそりとしたお寺でした。


瀞龍寺から二俣城に向かう途中、
小学校の校庭越しに眺めた二俣城址です。



集落の中を歩いて行くと城下公園があり、
躑躅が綺麗に咲いていました。



ここが二俣城址の入り口です。

二俣城の様子はこちらです。



中部地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る