塩山は山梨県の東部にある町です。
笹子トンネルを越えた列車が甲府盆地に入り、
遥か遠くに聳える南アルプスの山々を
眺めながら、ブドウ畑の続く甲府盆地を
見下ろすあたりにある町です。
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ブドウ畑の広がる静かな里を歩くうちに、
恵林寺の玄関と庫裡のところに出ました。
まずは武田信玄のお墓に向かいました。
庫裡に入り、方丈を抜け、
うぐいす廊下を渡ります。
うぐいす廊下を渡ったところが明王殿。
ここに武田不動尊が祀られています。
炎の燃え盛るような光背と
厳しい表情の不動明王像です。
この不動明王は、信玄が比叡山から大僧正の
位を授かった際に、その記念として京の仏師を招き、
信玄の姿を模刻させたといわれているそうです。
五輪塔と宝篋印塔が建っていました。
1672年(寛文正3年)4月12日にこの恵林寺で
100回忌が行われた際に建立されたそうです。
京に上るべく、西に攻め上り、
徳川家康を三方が原で打ち破った信玄ですが、
1573年(天正元年)1月、三河の野田城で病を得、
4月12日に信州・駒場でその生涯を終えています。
"人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方、仇は敵なり"
という武田家臣団の固い絆を感じました。
うぐいす廊下の傍らには柳沢吉保廟がありました。
柳沢吉保は五代将軍・綱吉の側近で甲府藩主でした。
吉保の嫡男・吉里の時に大和郡山に移封になった際に
吉保夫婦のお墓をこの恵林寺に移したそうです。
ひっそりと佇む、柳沢吉保夫妻のお墓。
こちらの塔は恵林寺を開く為に屋敷を提供した
時の領主・二階堂道灌の供養塔です。
恵林寺には信玄が深く帰依した快川国師や、
信玄が今川家に追放した父・信虎のお墓も
あったそうですが見逃してしまいました。
いくつかのお墓や石塔を眺めた後、
庭園が広がっていました。
恵林寺を開いた夢窓国師が築いた庭園で、
国の名勝に指定されているそうです。
そして庫裡に戻ると、武田家ゆかりの
風林火山の書が掲げられていました。
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孫子の旗もありました。 疾如風徐如林侵 掠如火不動如山 疾(はや)き事、風の如し、 徐(しずか)なる事、林の如し 侵略する事、火の如し、 動かざる事、山の如し この恵林寺で孫子の旗を 見られて幸運でした。 |
庫裡の目の前には開山堂が建っていました。
堂内には、夢窓国師、快川和尚、
そして快川和尚の弟子の末宗和尚の
三像が安置されているそうです。
そして三重の仏舎利塔です。
恵林寺は1905年(明治38年)の失火で
焼失した建物も多いそうですが、
今でも多くの建物が残っていました。
仏舎利塔の先には、二つの門が見えています。
庫裡に近い門が三門です。
1582年(天正10年)4月3日、武田家が滅んだ後
恵林寺は織田信忠の軍勢に攻められます。
この時、快川国師をはじめ、約百人の僧侶は
この門の上で焼き殺されてしまったそうですが、
快川国師は、「安禅必ずしも山水を須いず、
心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と唱えたそうです。
"安禅不必須山水 滅却心頭火自涼"
の文字が門に掲げられていました。
そして、四脚門です。
赤門の通称で知られるこの門は、
徳川家康が恵林寺を再建した際の
1606年(慶長11年)に建てられたものだそうです。
方光寺
(Houkouji Temple)
武田信玄のお墓のある恵林寺を訪れた後、
近くにある放光寺に向かいました。
恵林寺の近くにはブドウ畑が広がっていました。
大きな実をつけた葡萄がいくつもなっていました。
ブドウ畑を抜けて歩く小道。
疎水が流れ、静かな山間の集落です。
この日はどんよりと曇っていましたが
秋の夕暮れのちょっと侘しいような雰囲気でした。
民家の石垣にきれいな
百合の花が咲いていました。
恵林寺からのどかな景色の中を
10分弱歩くと、方光寺の総門に出ました。
方光寺は平安時代末期の1184年(元暦元年)、
甲斐源氏新羅三郎義家の孫、
安田義定が創立したそうです。
源平の合戦で功績を挙げた義定が
一の谷の合戦の戦勝記念に建てたそうです。
安田義定は源頼朝に謀殺されてしまいますが、
武田信玄の時代になり、方光寺は
祈願所となり寺領を拝したそうです。
総門から入ったところに仁王門がありました。
門には赤く塗られた金剛力士像が立っていました。
方光寺も恵林寺と同じく、信長の軍勢に焼き討ちされ
1570年代(天正年代)から1660年代(寛文年代)にかけて
再建されています。
この金剛力士像も1703年(元禄16年)に
修復されているようです。
そして方光寺の本堂です。
日本で一番古いとされる
愛染明王像とかの史跡があり、
最近は季節の精進料理で知られ、
4月、5月の花の季節や6月のさくらんぼ狩りの
シーズンには多くの人で賑わうそうです。
方光寺のホームページはこちらです。
方光寺を出て、再び近くを散策しました。
文化財に指定されている水車小屋がありました。
この先には江戸時代の1857年(安政4年)に
建てられた米蔵がありました。
コスモスが咲き、古びた土蔵もあって
古い塩山の様子が伝わってきました。
塩山駅界隈
(Area near Enzan Station)
塩山駅は甲府駅から東京方面に6駅目。
笹子トンネルに向けて、甲府盆地を取り巻く
山々の勾配を上る途中にある駅です。
今では特急も停車する駅ですが、
のどかな風情も残っています。
その塩山駅の北側に
武田信玄の像がありました。
恰幅のいい信玄像です。
この像は高野山の成慶院本に描かれた
武田信玄像に拠っています。
堂々とした信玄のイメージを確立した絵ですが、
最近、この絵は別の武将を描いたもの
との指摘がなされているそうです。
本当の信玄はどんな風貌の人だったのでしょうか。
この塩山駅北口の近くに甘草屋敷がありました。
19世紀初頭に建てられた高野家住宅です。
高野家は江戸時代に薬用植物だった
甘草の栽培をしており、1720年(享保5年)に
幕府御用としての栽培・管理が
申し付けられたそうです。
この高野家で採られた甘草が江戸の
小石川薬園で栽培されていたそうです。
この日はすでに開園時間を過ぎていて、
塀の外から眺めただけですが、
邸内には蔵や馬屋などがある
大きなお屋敷でした。
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