金木
Kanagi, Japan







金木は、津軽半島のほぼ中央に位置しています。
かつては北津軽郡金木町でしたが、
平成の合併で2005年に五所川原市となっています。


人口は約1万人程だったようです。
町の東側を津軽鉄道が走り、
金木駅が町の代表駅です。





この金木は太宰治の出身地として有名です。
生家の斜陽館はかつては旅館でしたが
今では記念館として公開されています。

2009年10月、津軽鉄道に乗った際に
津軽中里からの帰り道に金木を散策しました。

津軽鉄道の乗車記はこちらです。


その時の様子を紹介します。





金木の散策



津軽中里からの列車を金木で下車しました。
この金木では、2時間程の散策を予定しています。

駅前に降り立ち、振り返って眺める金木駅です。



金木駅は予想以上に立派な駅舎でした。
駅からは岩木山も見えていました。



金木の集落は駅の西側に広がっていて
駅から集落へと道が伸びています。
この道を歩いて行くと、しばらくして
Y字路に突き当たります。



このY字路の左側の道を進み、
しばらく歩くと太宰治が疎開した
家がありました。



この家は太宰治の兄が結婚した際に
建てられたもので、津軽家新座敷
と呼ばれています。

戦時中に、太宰治も妻と一緒に
ここで1年3ヵ月程暮らしたそうです。
ここは内部の見学も出来るそうです。


この時は津軽家新座敷に立ち寄らずに
そのまま更に西に向かいました。
向かった先は斜陽館です。

ここが太宰治の生家です。



太宰の父・津島源右衛門は大地主でした。
1907年(明治40年)にこの豪邸を建てました。

戦後に津島家はこの豪邸を手放し、その後
一時は旅館になっていましたが、1996年(平成8年)に
金木町が買取り、記念館として運営しています。

この斜陽館には多くの観光客が訪れており
金木で一番賑やかなな所でした。

斜陽館の様子は、こちらです。


斜陽館を訪れた後、金木の
お寺をいくつか訪れました。

斜陽館から北に向かうと
まずは妙乗寺がありました。



1714年(正徳4年)に建立されたお寺です。

ここから西に向かうと金木山雲祥寺です。



1596年(慶長元年)に開かれたお寺ですが
境内には、樹齢500年を超える
古い松があります。



上の写真の右端に写っている松がそれです。
寺の歴史よりも古いそうで、この松の場所を
選んで寺を建てたとも言われているそうです。


雲祥寺から南に下ったところには
金木八幡神社がありました。



現地の案内板には触れられていませんでしたが、
この神社は1521年〜1527年の大永年間に
浪岡城主の北畠具永が勧請したものだそうです。

天正年間(1573年〜1591年)には津軽藩祖・
津軽為信が戦勝祈願もしたそうです。


そのすぐ西側には病院がありました。
変哲のない病院の建物ですが、玄関の脇に
「藩公御陣屋跡」の碑が立っていました。



金木に置かれた代官所跡のようです。
代官所が置かれたのは1687年(貞享4年)、
新田開発の為だったそうです。

その西側の南台寺です。



この南台寺は太宰治の生まれた
津島家の菩提寺だったお寺です。

太宰は、祖母に連れられてここで
開かれていた日曜学校に訪れ、
本を読んだりしていたそうです。


小さな金木の集落でしたが、
思わず色々な見所がありました。

駅への帰り道で通った金木支所です。



車が停まっていない広い駐車場に
居た猫が印象的でした。





斜陽館



金木の町の散策では、太宰治の
生家の斜陽館に立ち寄りました。

訪れた2009年は太宰治の生誕100周年にあたり
入り口にその垂れ幕が掲げられていました。



1907年(明治40年)に建てられたこの建物は
国の重要文化財にも指定されているようです。

斜陽館の名は太宰の小説
『斜陽』から付けられています。


斜陽館に入り、入り口近くの土間の様子です。



この土間では小作人が小作米を
積む場所だったようです。


国の重要文化財になっているのは近代和風住宅の
代表例というのが、その理由の様ですが、津島家は
銀行業も営んでおり、この建物には銀行の店舗としての
造りも含まれた和洋折衷の様式のようです。

土間から眺める茶の間の様子です。



土間の奥には部屋が二列に並んでいます。
1階には11もの部屋があるそうです。
広く、古風な部屋の造りがとても心を和ませます。



上の写真は座敷から眺める仏間です。
仏間は18畳もの広さがあるそうです。

座敷は仏間や茶の間と隣り合わせになっていて
襖を外すと63畳もの大広間になるそうです。

座敷の北側に広がる庭園です。



座敷の東隣には小さな、と言っても
10畳の部屋がありました。



1909年(明治42年) 6月19日に
この部屋で太宰は生まれています。

『生まれて、すみません』と記した
太宰の原点ともいうべき部屋です。


住居の奥には蔵がありました。



合わせて3つの蔵が残っています。
この蔵だけでも、津島家が如何に
大きな財をなしていたかが判ります。

1階を一通り眺めた後に、
2階に向かいました。



開放的な階段の造りです。
2階から眺める金木の町と庭の様子です。



お昼過ぎには青空が広がっていましたが、
夕方に近づくに従って、どんよりとした
空模様になっていました。

2階には洋間一室と6室の和室、
そして控えの間がありました。



上の写真は、書斎として使われていた和室です。
襖に書かれた漢詩には『斜陽』の文字もありました。

こちらは春夏秋冬の景色を描いた襖絵です。



作者は真野暁亭です。


太宰の作品は、学生の頃にかなり目を通しました。
こうした文化薫り高い家が、太宰の教養を
高めて行った事は容易に想像出来ました。

しかし、これだけの恵まれた環境に育ちながら
鬱屈した感情はどこから生まれてきたのか、
と考えながら斜陽館を後にしました。



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