弘前
Hirosaki, Japan







弘前は青森県西部、津軽地方の中心都市です。
近くに岩木山を望み、八甲田山もすぐ近くにあります。

GWの時期に、弘前城に咲く桜は特に有名で、
桜のシーズンだけで200万人もの観光客が訪れるそうです。






そして弘前は津軽藩4万7000石の城下町です。

市の中心部に残る弘前城は、江戸時代の城郭の様子を
ほぼ完全に残し、現存天守や櫓、門なども残っています。

弘前城の登城記はこちらです。

市内には江戸時代からの史跡や
古い町並みも残り歴史の薫り豊かです。


2009年秋と2010年冬に弘前を再訪しました。

その時の様子を紹介します。



弘前城
(Hirosaki Castle)
Jan. 04, '14


長勝寺構

(Choshou-Ji Kamae)
Jan. 06, '14


長勝寺

(Chosho Ji Temple)
Jan. 08, '14


最勝院

(Saisho In Temple)
Jan. 11, '14


仲町伝統的建造物保存地区

(Nakamachi Preservation District of Historic Buildings )
NEW ! Jan. 18, '14





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長勝寺構
(ChoshoJi Kamae)




弘前城の南西に、地図で見ると
お寺が建ち並んでいる一画があります。





この界隈には33もの曹洞宗のお寺が
集められ、長勝寺構と呼ばれています。





同一宗派のお寺が33も集められて
いる例は他にはないそうです。

弘前城が築城されている頃に、
この長勝寺構の建設が始まり、
1615年(元和元年)には入り口に
堀や土塁、枡形門も築かれました。

一国一城令が敷かれていた時代、この長勝寺構は
出城としての機能を持っていましたが、このような
遺構が残っているのは全国的にも珍しい事と思います。


弘前市民会館から南に伸びる道を行き、茂森町の
バス停の先で、三叉路を折れて西に向かいました。

この先に枡形状に道路が曲がると、
右手に神社の鳥居が見えてきました。



この神社が天満宮です。
1689年(元禄2年)に、現在は弘前市愛宕にある橋雲寺に
弘前藩4代藩主・津軽信政公の生母・九祥院が寄進したものとも、
1610年(慶長15年)に弘前城に遷された天満宮が
その興りとも言われているそうです。



この天満宮の東側には土塁が続いていますが、
この土塁が1615年(元和元年)に築かれたものです。



天満宮の東側の鳥居の向こうには、
土塁に掘られたトンネルがありました。



土塁は高さ7mはあるでしょうか。
大きな杉が何本も植えられていました。
近づいてみると、土塁の頑丈さに驚きます。

この土塁に沿って堀も築かれていたそうですが、
その堀は残っていないようです。


枡形跡の道がクランク状に曲がった所まで戻り、
そこから上寺通りを西に向かいます。

上寺通りの右手に赤門が見えてきました。



この門は大正年代に築かれたものだそうです。
この赤門をくぐった通りは下寺通りといい、
33寺のうち、12寺がこの下寺通りにあります。



上の写真左が赤門のすぐ左手にある藤先寺、
右の写真が月峰院です。

下寺通りは月峰院の所で左に折れています。



この通りの左右にはずらっとお寺が並び
それは壮観な眺めでした。

緩やかな上り坂の先には立派な
山門を持つ崇徳寺がありました。



弘前藩初代藩主・津軽為信が父・
武田守信を弔うために建立したそうです。


崇徳寺から再び来た道を、赤門の所まで戻り
藤先寺の白壁が続く上寺通りを更に西に進みました。

上寺通りを遮るように建つ黒門です。



この黒門は高麗式の門で、この長勝寺構が
弘前城の出城の機能を持っていた為、
この様式の門が建てられたそうです。

この黒門は現存で、1687年(貞享4年)に
描かれた絵図に黒門が記されているそうです。


黒門を抜け、すぐ左手に栄螺堂があります。



この朱塗りの栄螺堂は1839年(天保10年)に、
豪商・中田嘉兵衛が、海難や天明天保の大飢饉で
亡くなった方を弔うために建てたそうです。


栄螺堂辺りから眺める上寺通りの様子です。



この界隈は禅林街と呼ばれています。
寺院の白壁が続き、立派な杉並木もあり、
素晴らしい町の景観です。

平坦な地形ですが、長勝寺構が築かれる前、
ここには重森山という小高い山があり、
弘前城を見下ろしていたそうです。
この長勝寺構はその山を崩して築かれました。

上寺通り沿いも多くの寺院が建ち並んでいます。



上の写真、左は海臧寺、右は風松院です。

そしてこちらは隣松寺にある位牌堂です。



弘前藩四代藩主・信政公の生母・久祥院の位牌堂で
1692年(元禄5年)に建てられたものだそうです。


こうして通り沿いの寺院を訪ね歩くうちに
禅林街の外れにある長勝寺に辿り着きました。



長勝寺は弘前藩主津軽氏の
菩提寺で格式の高いお寺です。



2010年12月に、この長勝寺構を訪れた際は
雪が降っていましたが、長勝寺を散策した後は
その降り方が激しくなり、禅林街は吹雪に霞んでいました。



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長勝寺
(Chosho Ji Temple)




上寺通りを歩くと長勝寺に辿り着きます。

長勝寺は、弘前藩主・津軽氏の菩提寺です。
津軽氏が未だ大浦氏を名乗っていた
1528年(享禄元年)に創建されています。

当初は今の鰺ヶ沢にありましたが、大浦氏が
本拠地を変えるに従いその場所を移し、
現在地には1610年(慶長15年)に移されました。

この年は弘前城の築城が本格化した年です。


長勝寺構は、2010年12月に訪れていますが、
この長勝寺は、その1年程前の2009年10月に訪れました。



長勝寺の入り口の門です。
この門をくぐると三門があります。



この三門は1629年(寛永6年)に、津軽藩・二代藩主の
津軽信牧によって建立されたものという事です。



三門の仁王像です。
迫力のある姿でした。

三門をくぐると蒼龍窟というお堂がありました。



お堂に古い案内板が立てかけられていました。
墨で書かれた字がかなり剥げかかっていて
読みづらいのですが、天正8年に岩木山神社の
仏様を安置したとありました。
1580年の事です。

蒼龍窟の内部の様子です。



脇仏は安寿姫と厨子王との事です。
またお堂の中には五百羅漢の仏様も
何体か安置されていました。

三門をくぐった右手には鐘楼がありました。



長勝寺の銅鐘は1306年(嘉元4年)の
紀年銘のある古いもので、寄進者の筆頭に
鎌倉幕府執権・北条貞時の法名があるそうです。

鐘楼の奥にある国の重要文化財の庫裡は
修復工事中で、覆いが掛かっていました。

三門の正面には本堂が構えていました。



秋に訪れた際には参拝が出来たと思うのですが、
時間がなかったのか、長勝寺の威厳ある雰囲気に
圧されたのか、本堂を訪れずに引き返してしまいました。


この時は長勝寺にある津軽家霊廟も訪れませんでした。

長勝寺構の散策とこの津軽家霊廟を訪れる為に
2010年12月に再訪したのですが、冬の間は拝願休業、
そして霊廟は無断立ち入り禁止との事で、
離れたところから霊廟の様子を伺うだけでした。



折しも雪が激しくなり、杉の木々に囲まれた霊廟は
墨絵のような景色の中に厳かに佇んでいました。



寒さに震えながら長勝寺を辞したのですが
三門も雪に霞むようでした。



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最勝院
(Saisho In Temple)




最勝院は五重塔で知られるお寺です。
正式名称は、金剛山光明寺最勝院というそうです。

最勝院は弘前城の南東にあります。





建立されたのは1532年(天文元年)の事で、その時は
大浦氏が拠点としていた堀越城の近くだったそうですが、
1611年(慶長16年)に弘前城の北東の田町に移されています。

城の北東は鬼門にあたり、城を護るお寺だったようです。
1611年(慶長16年)は、弘前城が築城された年です。

現在地に移されたのは、明治に入ってからの事だそうです。
この地には大圓寺というお寺があり、
その跡地に移ったそうです。

この最勝院は、津軽氏の祈祷所として重んじられ、
長勝寺と共に津軽藩で最も重要なお寺だったそうです。


2009年10月に、この最勝院を訪れました。
弘前城を訪れ、この後には津軽鉄道に乗る
予定があったので慌ただしい訪問でした。



ここが最勝院の入り口です。
この石段を上がると新仁王門がありました。



古めかしく堂々とした門ですが、この新仁王門は
1983年(昭和58年)に建立されたものだそうです。

新仁王門をくぐり参道を歩き、
振り返ってみると五重塔が聳えていました。



青空に五重塔が良く映えています。

この五重塔は大圓寺の堂宇だったものだそうです。
建立が開始されたのは1656年(明暦2年)、一時工事が
中断したそうですが、1667年(寛文7年)に竣工しています。

その五重塔の前に鐘楼があります。



これも大圓寺時代からのもので、
この鐘は藩政時代から弘前の地に
時を告げていたそうです。


参道を真っ直ぐ進んだところに本堂がありました。



この本堂は2002年(平成14年)に
落成した新しい建物です。
その隣にある護摩堂です。



この護摩堂は旧大圓寺の本堂だったようです。
護摩堂の左手には小さなお堂が幾つもあります。



そのうちの一つに聖徳太子堂もありました。


大急ぎの最勝院の散策でしたが
帰り際に再び五重塔を眺めました。



日本で最北の五重塔。
津軽統一の戦いで命を落とした人を
弔う為に建立されたそうです。

端正で美しい塔でした。



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仲町伝統的建造物保存地区
(Nakamachi Preservation District of Historic Buildings)




弘前城の北門を出た一画には、江戸時代の
侍屋敷(武家屋敷)の佇まいを残しています。

弘前城の北の端に沿って国道が東西に走っていますが
その道に面して、江戸時代からの建物が残っています。



これは2009年10月の時の様子です。
この時は、表通りからチラッと眺めた
だけだったので2010年12月に再訪しました。

2010年に訪れた際には、長勝寺を訪れた後、
夕暮れ迫る頃に訪れました。
北国の陽は短く、午後4時頃だったと思います。



この日は、午後になると雪が降り始め、
次第にその降り方が激しくなっていました。

「こみせ」と呼ばれる雁木造りのアーケードの
中にも降りしきる雪が降りこんでいました。

弘前城の北門から城外に出て、通りを
隔てたところに石場家住宅があります。



店先を入ったところの広い土間の
隣に板の間の部屋があります。

石場家は現在は酒屋さんですが、江戸時代には
藁工芸品などを扱う商家だったようです。

いつ建てられたのかは判っていないようですが
国の重要文化財に指定されています。



板の間の部屋の奥には、
畳敷きの囲炉裏の間がありました。


石場家住宅から生垣や板塀の続く
住宅地を北に向かいました。



この界隈を仲町といい、江戸時代には
ここには侍屋敷が置かれていました。

いくつかの侍屋敷が今に残り、
重要伝統的建造物群保存地区に
指定されています。



この角で右に折れ、まずは
岩田家住宅を目指します。


雪が積もり、墨絵のような住宅地です。



整備された生垣が続き素晴らしい景観です。



しばらく歩くと黒い板塀の通りとなりました。
この通りの先に旧岩田家住宅がありました。



生憎、冬季は土曜・日曜のみの公開で
訪れた日は中に入る事が出来ませんでした。


凍てつく寒さの中、来た道を引き換えします。
辺りは暗くなり、夕暮れの様な感じです。

寒さにめげそうになりましたが、650m程、
西に向かい伊東家迄行ってみる事にしました。



こちらも中に入る事は出来ませんでしたが
黒塀が続く様子は、当時の侍屋敷の
雰囲気そのままでした



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