内子
Uchiko, Japan








内子は金比羅街道と四国お遍路の道が
交わるところに栄えた商業の町です。





江戸時代には、この地で生産される和紙は
大坂に出荷され、大洲藩の重要な
収入源になっていたようです。

江戸時代末期からは、照明用の
木蝋の生産が活発となりましたが、
大正時代には電灯の普及で寂れてしまいます。

内子には、この頃栄えた集落が残っていて
八日市護国重要伝統的建造物群保存地区
として保存されています。


2009年7月の終わり、大洲城と大洲の町を訪れた後、
特急「宇和海」に乗って内子で下車し、
この町を散策しました。

大洲城の登城記はこちらです。
大洲の散策記はこちらです。
特急「宇和海」の乗車記はこちらです。


内子駅でレンタサイクルし、
内子の町に向かいました。



駅から町へと、新しい道が続いていました。
この道は、実は以前の路線跡です。

今は内子駅を通る線路には特急列車が走り、
松山と宇和島を結んでいますが、
1985年11月以前は、内子駅が終点の盲腸線で、
一日数往復の普通列車が走るだけの閑散路線でした。

その時の内子駅は、現在の駅よりも
内子の集落に近いところに位置していました。



その跡地には内子町の図書情報館や
自治センターの建物が建てられていました。

寂びれた無人駅が建っていた
内子駅時代とは見違えるようです。


ここから更に東に向かい、
内子の古い町並みを目指しました。



その途中にあった古い建物のお蕎麦屋さんです。
下芳我邸というお店でした。

真夏の昼下がり、うだるような暑さのなか
町中を歩く人は殆ど見かけませんでした。

この通りの先で、瀟洒な建物の銀行がありました。



伊予銀行内子支店です。

この角で、左に折れ北に向かうと
内子の古い町並みが残っています。


左に折れた道は緩い上り坂になっていて、
その道の両側に古い商家が軒を連ねていました。



この辺りの商家は白壁というよりも
黄色を帯びていています。

漆喰で壁一面が塗りこまれているようです。

内子の古い町並みは、この坂町から八日町、
そして護国町と600m程の長さに亘って連なっています。



この坂町の辺りは江戸時代から栄えていたそうです。
卯建が上がる立派な家が続いていました。
蜂蜜色を思わせる黄色を帯びた壁の家並みです。

坂道を振り返って眺めた様子です。



100m程の坂道を上ると、
坂道の頂点に枡形がありました。



江戸時代から残る通りで、
かつては外敵の進入を防ぐ目的で
鉤型に道が曲げられています。

枡形から北東に向かった町並みの様子です。



蜂蜜色の家の壁と白漆喰で
固められたナマコ壁が印象的です。



この辺りは八日町と呼ばれ、
江戸時代末期からの木蝋で栄えた町です。

この家並みを抜けたところに
本芳我家住宅がありました。



この本芳我家が木蝋生産の中心的な役割を
担っていたようで、周囲の商家よりも
広い敷地で立派な門構えです。

この本芳我家は国の重要文化財に指定されています。

更にこの奥には、本芳我家と同じく
蝋で財を成した上芳我家住宅があります。



ところが残念な事に、上芳我家住宅は
修復修理中で見る事が出来ませんでした。

復元工事現場に示されていた
上芳我家住宅主屋の写真です。



内子での滞在予定時間は1時間程しかなく、
この上芳我家住宅主屋で駅に引き返すことにしました。


駅に戻る途中で見かけた児童館です。



この建物は1873年(明治5年)に、
内子で初めて建てられた学校です。

そしてこちらは、1916年(大正5年)に
建てられた歌舞伎劇場・内子座です。



この歌舞伎座は大正天皇の即位を
祝して建てられたものですが、
その後は映画館や商工会議所に
転用されていたそうです。

1985年(昭和60年)に7000万円の
事業費で復元されたものだそうです。

内子には、古い町並みだけでなく、
町のあちこちに古い建物が残り、
とても魅力的な町でした。



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