大洲
Ozu, Japan







大洲は愛媛県南予地方の城下町です。

肱川沿いに建つ大洲城の城下町として栄え、
今では人口4万6千人程を数えます。





肱川の北側に市の中心駅・伊予大洲駅がありますが、
市の中心部は、駅から1km程南、肱川を渡った辺りです。

大洲城の登城記はこちらです。

伊予大洲を通る特急「宇和海」の
乗車記はこちらです。


2009年7月末に、大洲城を訪れた際に
大洲の町も散策しました。

その様子を紹介します。





大洲城界隈



大洲の町のシンボル、
復元なった天守の聳える大洲城。

市内を流れる肱川越しに
その姿を眺める事が出来ます。



この日は真夏の強い日差しが照りつける暑い一日。
大洲城を散策し、その南にある三の丸南隅櫓を
訪れた際には、汗だくで脱水症状になりそうな程でした。




この三の丸南隅櫓の隣に
加藤家住宅主家がありました。



加藤家住宅主屋は、1617年(元和3年)から
大洲藩主を務めていた加藤氏が、
大正時代に建てた住宅です。

この建物は、映画「男はつらいよ」の
撮影にも使われたそうで、
国の有形文化財に指定されています。

三の丸南隅櫓と加藤家住宅主屋のある一角は
お殿様公園として整備されていました。


このお殿様公園から大洲高校を隔てた
西側に中江藤樹邸があります。

中江藤樹邸は大洲高校の敷地内にあるのか
夏休み中で門が閉められていて、
その建物に近づく事が出来ませんでした。



石垣の上のこの建物が中江藤樹邸と思います。

中江藤樹は1608年(慶長13年)生まれの
近江出身の江戸時代初期の儒家です。

中江藤樹は9歳の時に米子藩主・
加藤氏の家臣に養子となり米子に移り、
その後、加藤氏がこの大洲に移封となり、
この大洲で暮らしています。

しかし、中江藤樹は27歳の時に脱藩し、
近江に戻り、その後の活躍は
生まれ故郷の近江でなされています。


中江藤樹邸跡を訪ね歩いた後、大洲高校の
南側にある曹渓禅寺に立ち寄りました。



この曹渓禅寺は大洲藩主・
加藤氏の菩提寺だったお寺です。

中門を過ぎ、本堂の奥に
廟所と思しき門がありました。



しかし、廟所は非公開になっているのか
その門は閉ざされていました。





明治の家並み・大洲神社



大洲城三の丸南隅櫓周辺の史跡を訪れた後、
肱川沿いにある臥龍荘を目指しました。

その途中、明治時代の町並みが
残る一角がありました。



ここは、江戸時代からの武家屋敷と
商人町との境に位置しているそうです。



黒い板張りの塀と、土蔵や商家が
建ち並ぶ狭い通りは風情がありました。


この明治の家並みのすぐ近くに小高い丘があり、
石段の先に鳥居が見えていました。



蝉しぐれが鳴くなか、この石段を上ってみました。
石段を上り、鳥居をくぐった先には
大洲神社がありました。

大洲神社は、1331年(元弘元年)に宇都宮豊房が
地蔵ヶ嶽城(後の大洲城)を築いた際に、
城内総鎮守として創建されました。



この神社は宇都宮にある
二荒山神社を勧進したそうです。

高台にある神社の境内からは、
大洲の町並みが見渡すことが出来ました。



大洲神社の木陰で涼んだのちに
臥龍山荘に向かいました。





臥龍山荘



肱川の畔に建つ臥龍山荘は、
大洲城主加藤氏第3代藩主の
加藤泰恒公に名付けられたそうです。





明治の町並みを抜け、肱川に向かう、
緩やかな坂道の小路を抜けると
川の畔に建つ臥龍山荘の入り口に至ります。



立派な石垣の上に臥龍山荘が建っていました。

この臥龍山荘は、文禄年間(1590年代半ば)に
藤堂高虎の家臣・渡辺勘兵衛が築いた庭園が
その発祥となっているそうです。

臥龍山荘という名前は、この山荘のある
蓬莱山が龍の臥す姿に似ている事から
付けられたそうです。



山荘に入ると茅葺の臥龍院が見えてきました。

この山荘は江戸時代には歴代藩主が
訪れていたそうですが、明治に入ると
荒廃してしまったそうです。

明治に入り、大洲近郊の新谷出身の
豪商・河内寅次郎が築造しています。



臥龍山荘の落ち着いた庭園です。

その先に知止庵がありました。



この建物は浴室として建てられたものを
昭和の時代に入って茶室に改造したそうです。

そして肱川を眺める高台に
建つ不老庵に向かいました。



不老庵は肱川沿いの崖の上に懸け造りの様に建てられて、
部屋の中から肱川の流れを眼下に望む事が出来ました。



大洲の町を歩いて掻いた汗が
川を渡る風でスーッとひいていきました。

臥龍山荘は、落ち着いた、
とても心癒される建物でした。



四国地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る